第10話「微熱と指先の記憶」
昼のピークを過ぎたギルド喫茶店は、まばらな客が静かに談笑するだけの穏やかな空気に包まれていた。
ルミナスは洗い物を終え、布巾でカウンターの水滴を拭き取っていた。
ふと、入り口のベルが鳴り、レオンハルトが再び姿を現した。
午後のギルドマスターとしての執務を終えたのか、今度は見慣れた革鎧姿だ。
「悪い、少し休憩させてくれ」
レオンハルトはいつもの指定席に腰を下ろし、大きく息をついた。
書類仕事に追われていたのだろう、眉間に薄くしわが寄っている。
ルミナスは無言で冷たい果実水を差し出し、レオンハルトの向かい側に立った。
「忙しかったようですね」
「ああ。近隣の森で魔物の異常繁殖があってな。討伐の編成で少し骨を折った」
レオンハルトはジョッキを一気に飲み干し、喉を鳴らした。
「……少し、肩を揉みましょうか」
自分でも驚くほど、自然に言葉が口を突いて出た。
レオンハルトが目を丸くしてルミナスを見上げる。
「君が。いや、流石にそれは……」
「遠慮しないでください。これでも昔は、人間の体の構造について誰よりも詳しく叩き込まれましたから」
ルミナスは冗談めかして言い、レオンハルトの背後へと回り込んだ。
大剣を振るうせいで、広背筋から僧帽筋にかけての筋膜がひどく癒着している。
ルミナスが親指を沈めると、レオンハルトの口からくぐもった声が漏れた。
「痛いですか」
「いや……効いている。信じられないくらい的確だ」
「筋肉を包む薄い皮のようなものです。ここを剥がすように解せば、腕の可動域が広がりますよ」
暗殺の標的を解体するための知識が、今、愛する男の体を癒やすために使われている。
奪うための知識が、与えるための技術に変わる。
それを実感するたび、過去の呪縛が薄れていくのがわかった。
「……君の手は、本当に不思議だ」
レオンハルトが、目を閉じたまま低い声でつぶやいた。
「料理を作るときも、こうして触れてくるときも。君の指先からは、ただ温かいものだけが伝わってくる」
ルミナスの指先が、わずかに止まった。
「……私は、あなたのその言葉に、何度も救われています」
絞り出すような小さな声。
レオンハルトはゆっくりと目を開け、肩越しにルミナスを振り返った。
至近距離で視線が交差する。
琥珀色の瞳の奥に、隠しきれない熱情が揺らめいている。
ルミナスは逃げなかった。
今までなら目を逸らし、後ずさっていただろう。
しかし今は、この熱に焼かれてもいいとさえ思える。
レオンハルトがゆっくりと腕を伸ばし、ルミナスの肩に触れている手を包み込んだ。
大きく、無骨な手のひら。
「君が俺を救ってくれているんだ。君がこの街に来てくれて、本当に良かった」
二人の距離は、もう言葉や理屈では測れないほどに近づいていた。
静かな店内には、遠くから聞こえるギルドのざわめきと、重なり合う二人の微かな吐息だけが響いていた。




