第九十六話「順番を、並べ直す」
着任三百九十六日目、朝。
畑の芽が、ひと回り大きくなっていた。
執務所の窓から見える緑が、日ごとに濃くなっていく季節だった。
カイが水路の見回りの帰りに顔を出した。
「芽の出、揃っています」
「ばらつきは」
「今のところ、少ないです」
カイは、それだけ言って軽く頭を下げ、また村へ戻っていった。
揃った芽の並びだけでは、今年が良い年かどうかはわからない。
それでも、種麦の融通から播種まで、去年の記録を見ながら進められたことは確かだった。
昼前、内政調整局の正式便が届いた。
「監査室からです」
ロイドが言った。
封を切り、読み上げる。
——北西の貴族家本家について、既存資料および照会可能な記録を再確認したが、本件への直接関与を示す事実は確認できなかった。新たな具体的根拠がない限り、本家を対象とする追加追跡は終了する。
「終了、ですか」
ミラが言った。
「はい」
ロイドは頷いた。
「潔白だと証明された、という意味ではありません。これ以上、確かめる手立てがない、という意味です」
「その違いは」
「大きいです」
ライルが言った。
「わからないことを、わかったことにはしません。今日も、それは変えません」
ロイドが、二欄整理の帳面を取り出した。
北西の貴族家(本家の関与)の項目を、静かに閉じた欄へ移す。
——追跡終了。関与を示す事実、確認されず。無関係と確定したものではない。
「これで、一つ閉じましたね」
ミラが言った。
「はい」
ライルは答えた。
「ただ、閉じたのはこの一件だけです。他にも、まだ動いていないものがあります」
午後、ライルが皆を執務所の奥の小部屋へ集めた。
「今日から、少し違うやり方を試します」
ライルが言った。
「人を追うことに、行き詰まりました。ですから、今度は、時を並べ直します」
「あの方の時のことですか」
ダグラスが尋ねた。
「はい」
ライルは頷いた。
「今まで、手がかりは一つずつ、別々に扱ってきました。報告書のこと。頁の欠落。病没の記録。『鍵』という言葉。どれも、単独では意味を持ちませんでした」
「別々に扱ってきたのは」
ミラが尋ねた。
「性急にまとめると、見誤るからですか」
「それもあります」
ライルは答えた。
「ですが、今は逆の心配もあります。別々のまま置きすぎて、見えるはずのものを見落としているかもしれません」
「両方の心配を、同時に」
「はい」
ライルは頷いた。
「だから、今日はやり方を変えます。まとめて答えを出すためではありません。まず、順番だけを、正確に並べます」
「今日は」
「一枚の紙の上に、日付の順で並べます」
ロイドが、大きな紙を広げた。
横に月日を刻み、縦に出来事を並べる形式だった。
「これまで確認できている日付から、埋めていきます」
ロイドが言った。
「まず、確定している記録から」
ミラが、旧い人事綴りと、報告書の発送記録を照らし合わせた。
「発送については、これまで証言と残された写しから扱っていました」
ミラが言った。
「今回は件名ではなく、前後の日付を指定して逓送台帳の索引を見直しました。あの方の名で受け付けられた書状が一件あります。日付は、その月の十九日です」
「宛先と内容は」
「索引には残っていません。確認できるのは、差出人名と受付日だけです」
「十九日」
ダグラスが、その日付を繰り返した。
「はい」
ロイドが、紙の上にその日付を黒い墨で記した。
確定した記録には、黒い墨を使うと決めた。
「頁の欠落は」
ライルが尋ねた。
「発送から数日後、とだけ証言があります」
ロイドが言った。
「正確な日付の記録はありません」
「では」
「証言をもとにした推定として、別の色で記します」
ロイドは、赤茶けた色の墨を用意していた。
発送日の少し先に、二十三日頃という印を、赤茶の墨で薄く記した。
「あの方が姿を見せなくなったのは」
ライルが、ダグラスへ視線を向けた。
「その後、すぐでした」
ダグラスが言った。
「はっきりとは、覚えていません。ただ、頁が消えたと聞いた話と、あの方を見なくなった話が、そう離れていなかったように思います」
「それも、証言による推定ですね」
「はい」
ダグラスは頷いた。
「ただ、今の言い方は、自分でも自信がありません。『そう遠くない』というだけで、日にちまでは」
「では、今の分は、もう一段薄い印にします」
ロイドが、点線だけの印を紙に記した。
確定した記録は黒。
証言に基づく推定は赤茶。
証言の中でも、本人が確信を持てない部分は点線。
三段階に分けることで、紙の上に、確かさの濃淡がそのまま見えるようになった。
「これまでは、確かなことと、そうでないことを、言葉で分けていました」
ロイドが言った。
「今日からは、目で見てわかる形にします」
「言葉より、目で見る方が」
ミラが尋ねた。
「間違えにくいと思います」
ロイドは答えた。
「言葉は、後から都合よく思い出せてしまいます。色は、その時に決めた通りにしか残りません」
ダグラスが、その説明を黙って聞いていた。
「私の記憶は、赤茶か、点線ばかりになりそうです」
ぽつりと言った。
「それで、構いません」
ライルが答えた。
「黒がないことを、恥じる必要はありません。むしろ、無理に黒く塗ろうとする方が、危ういです」
「はい」
ダグラスは、静かに頷いた。
「『病没』の記載は」
ミラが尋ねた。
「人事綴りに、日付があります」
ロイドが答えた。
「黒で置きます。ただし、黒なのは『その日に病没と記載された』ことです。死亡そのものが確認できた、という意味ではありません」
ロイドは、日付の横に小さく「人事綴り記載」と添えた。
黒で置けたのは、逓送台帳の受付日と、人事綴りの記載日。
頁の欠落時期と、姿を見せなくなった時期は、まだ別の色のままだった。
発送。頁の欠落(推定)。姿を見せなくなった時期(証言、確信度は低い)。病没記録。
「まだ、真ん中が薄いですね」
ミラが、紙全体を見て言った。
「はい」
ライルは頷いた。
「今日埋められるのは、ここまでです」
「明日は」
ロイドが尋ねた。
「別の紙も、この上に重ねてみます」
ライルが言った。
その言葉に、ダグラスが顔を上げた。
「別の紙、というのは」
「まだ、言いません」
ライルは、静かに答えた。
「今日、確かめたことだけを、確かめたままにしておきます」
夕方、ヴェクが官倉の点検を終えて顔を出した。
「今日は、何を」
「昔のことを、並べ直していました」
ライルが答えた。
「昔のこと」
「あの方の時のことです」
ヴェクは、少しの間、紙を見た。
「進んでいますか」
「進んでいると思います」
ライルは答えた。
「ただ、まだ、途中です」
「それなら」
ヴェクは、それだけ言うと官倉へ戻っていった。
入れ違いに、ゲオルグが夕方の風に当たりながら通りかかった。
「今日は、ずっと奥で帳面を見ていましたね」
「古い記録の整理です」
ライルは答えた。
「急ぎですか」
「今日中に結論を出す仕事ではありません」
「なら、畑の方は気にしなくて大丈夫です」
ゲオルグは、それだけ言って小さく頭を下げた。
「種まき後の見回りは、こちらで回っています」
「ありがとうございます」
古い記録を扱う者と、今日の畑を見る者。
知る必要のある範囲は違っても、どちらもガルダの仕事だった。
夜、ライルは手帳を開いた。
——あの方の時系列表を作成。記録で確認できる事実(黒)、証言に基づく推定(赤茶)、証言者自身の確信度が低い部分(点線)を区別。逓送台帳索引に、あの方名義の書状受付日を確認。その月十九日。宛先・内容は索引から確認不能。人事綴りの「病没」記載日も黒で置くが、死亡事実そのものの確認とは分ける。頁欠落時期・姿を見せなくなった時期は推定のまま。
もう一行、書き足した。
——北西の貴族家(本家)の関与について、監査室より追跡終了の通知あり。無関係と確定したものではないが、これ以上確認できる記録はないとのこと。
窓の外、夏の気配を含んだ風が、水路の上を渡っていった。
紙の上の時系列は、まだ半分も埋まっていなかった。
だが、埋まっていない部分がどこかは、今日、はっきりした。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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