第九十五話「名前は、まだ戻らない」
着任三百九十日目、朝。
ロイドは、商人組合の書庫で、昨日から気になっていた一件を最後に確認した。
当番簿の記載が不鮮明で、当番だったのか予備だったのか判然としなかった家名。
引継記録と照らし合わせると、その家は当該期間、荷役担当として別帳に入っていたことがわかった。
帳付け当番ではない。
「これで、この一件は外せますね」
担当者が言った。
「はい」
ロイドは照合票へ追記した。
——不鮮明だった家名は荷役担当と確認。当該日の帳付け候補から除外。
現地で予定していた照合は、これで終わった。
「お世話になりました」
ロイドは、担当者に頭を下げた。
「昨日確認した頁の写しについて、原本側に変化があった場合だけ、正式な経路でご連絡ください」
「承知しました」
担当者は頷いた。
昼前、宿を引き払う支度をしながら、ロイドはこの数日の記録をもう一度読み返した。
足りないものは、まだ多い。
だが、来た時より、手元の紙は確かに厚くなっていた。
厩へ寄ると、老年の男は変わらず馬具を整えていた。
「行かれるんですか」
「はい。今日、発ちます」
「そうですか」
男は、それだけ言って、また手元へ視線を戻した。
その日のうちに、ロイドは商業中継地を発った。
継立場ごとに到着記録を残しながら、四日かけてガルダへの道を戻った。
行きと同じ数の宿、同じ継立場、同じ護送区間。
だが、鞄の中身は、行きとは少し違っていた。
書き足された照合票と、証言記録と、埋まらないままの空欄。
道中、畑の緑が日に日に濃くなっていくのが見えた。
出発した日にはまだ土が起こされたばかりだった場所も、戻る頃には小さな芽が並び始めていた。
時間が進んでいることを、景色が教えてくれた。
着任三百九十四日目、夕方。
ガルダの水路が見えてくると、カイが先に気づいて手を挙げた。
「お帰りなさい」
カイが言った。
「ただいま、戻りました」
「畑、見てもらえますか」
「明日、必ず」
ロイドが答えると、カイは小さく笑って頷いた。
少し離れた畦道から、ゲオルグも軽く会釈をした。
ロイドは、執務所の扉を押し開けた。
「お帰りなさい」
最初に気づいたのはミラだった。
「ただいま、戻りました」
ロイドは、埃を払いながら答えた。
ライル、ダグラス、ヴェクも、その声に集まってきた。
「無事でしたか」
ライルが尋ねた。
「無事です。大きな問題もありませんでした」
「疲れているところ、すみませんが」
「今日のうちに、お話しします」
ロイドは、休息より先に報告を選んだ。
執務所の奥の小部屋に、いつもの顔ぶれが集まった。
「まず、第一の目的についてです」
ロイドが言った。
「旧当番簿と引継記録を照合し、欄外注記を書いたのは、当時のコルト家当番と見て矛盾しないことを確認しました」
「その人の名前は」
ミラが尋ねた。
「家名までです。ですが、今回重要なのは、そこではありません」
ロイドは、現地で作成した認証写しを机へ置いた。
「同じ日の引継記録に、欄外注記の根拠が残っていました」
ゆっくり読み上げる。
「『役人扱い宿料適用。ガルダ執務所の元書記と本人申告。転出用通行札を確認。発行日、同月十二日』」
ダグラスの目が、紙の上で止まった。
「十二日」
「はい」
ロイドは、ガルダ側の照合票を隣へ置いた。
「旧書記役の通行許可証発行索引に残る日付も、同月十二日です」
「番号は」
ライルが尋ねた。
「向こうの記録には残っていません。旅人の氏名もありません」
「なら、同じ札だとは言えない」
「はい」
ロイドは頷いた。
「ですが、『ガルダ方面より来た元書記』という注記が、後からの推測ではなかったことは確認できました。本人がそう申告し、帳付け役が転出用通行札まで確認していた。その発行日が、こちらの旧書記役の索引日と一致します」
「第二の目的は」
ライルが尋ねた。
「当時から宿にいる厩番へ、商人組合の担当者立会いで任意の聞き取りをしました」
ロイドは、順番を崩さず報告した。
先に具体的な言葉を示さず、覚えていることだけを話してもらったこと。
銅貨を一枚ずつ揃えて渡す、静かな客を覚えていたこと。
次の継立場までの道を尋ねられたこと。
その後に認証写しを示したが、明確な追加想起はなかったこと。
「この証言は、本人性の確度を上げる材料にはしていません」
ロイドは言った。
「よくある振る舞いではないかもしれませんが、旧書記役だけの特徴でもありません」
「それでいいと思います」
ライルが答えた。
部屋が、少しの間静かになった。
「近づいている、とは言えますか」
ダグラスが尋ねた。
「はい」
ライルは答えた。
「ただし、何が確度を上げたのかを分けます」
指で、机の上の紙を順に示す。
「時期が重なる。『ガルダ方面より来た元書記』という同時代の記録がある。別帳に残った『……違いありませんか』という断片が、あなたが外部資料を見る前に残した記憶と部分的に重なる」
次に、今日届いた写しを指した。
「そして今回、旅人本人が『ガルダ執務所の元書記』と申告し、転出用通行札を提示していたことが確認できた。その札の発行日が、こちらの旧書記役への発行日と一致する」
最後に、厩番の証言記録へ目を移した。
「一方、丁寧な物腰や銅貨の渡し方は、本人性を強くする材料にはしません」
「強いものと、弱いものを分ける」
ミラが言った。
「はい」
ライルは頷いた。
「今なら、『商業中継地の旅人が当時の書記役本人である可能性は高い』と書けます」
ダグラスが息を吐いた。
「高い」
「ですが、確定ではありません」
「名前の記録がないから」
「それだけではありません」
ライルは答えた。
「通行札番号も残っていない。本人へ確認もできていない。だから、最後の線は越えません」
「近づいている。ただ、着いてはいない」
ダグラスが言った。
「はい」
ロイドが答えた。
「ただ、昨日までよりは、かなり近いです」
「一つ、伺ってもいいですか」
ミラが言った。
「どうぞ」
「これで、第九章で追っていた書記役の行方は、どこまでわかったことになるんでしょうか」
ライルは、二欄整理を見た。
「ガルダを離れた後、商業中継地に滞在した人物が、当時の書記役本人である可能性は高い。ここまでは、今の証拠で言えます」
「その後は」
「わかりません」
ライルは答えた。
「出立先欄は空欄。本人の現在地も、生死も不明です」
「では、追跡は続けますか」
ロイドが尋ねた。
ライルは、すぐには答えなかった。
「本人を探すことだけを目的に、次の土地へ照会を広げることはしません」
「なぜですか」
「ここから先は、方角も、記録番号もありません。『どこかにいるかもしれない人』を探すだけになる」
ライルは言った。
「それより、今回わかったことを、あの方の記録と並べ直します。書記役がガルダを離れた時期。その前後に、あの方の報告と病没記録がどう並ぶのか。次に見るべきなのは、そこです」
ダグラスが、ゆっくり顔を上げた。
「外へ追うのではなく、いったんガルダへ戻す」
「はい」
ライルは頷いた。
「人を追うための手がかりが尽きたなら、手元にある時系列を見直します」
ミラが、新しい版の二欄整理を作った。
左欄へ移す。
——商業中継地の旅人:ガルダ執務所の元書記と本人申告した同時代記録あり。転出用通行札の提示記録あり。発行日はガルダ旧書記役の発行索引と一致。別帳の言い回し断片もダグラスの事前記憶と部分一致。以上から、旧書記役本人である可能性は高い。
右欄に残す。
——旅人氏名、通行札番号、本人による確認、商業中継地出立後の行き先、現在の所在・生死。
「一番知りたいところは、まだ右です」
ミラが言った。
「はい」
ライルは答えた。
「ですが、第九章を始めた時とは、右欄の意味が違います」
「どう違いますか」
「『どこへ消えたかわからない書記役』ではなくなった」
ライルは、左欄の一文を見た。
「少なくとも、ガルダを出た後に商業中継地まで到達した可能性が高い人物になりました」
ダグラスは、その紙面を長く見つめた。
「生きて、そこまでは行った」
「可能性が高い、です」
「はい」
ダグラスは言い直した。
「可能性が、高い」
それだけで、十分だった。
ヴェクが、それまで黙って聞いていたが、一言だけ口を挟んだ。
「進んでは、いるんですね」
「進んでいます」
ライルは答えた。
「大きく、ではありませんが」
「それで、十分だと思います」
ヴェクは、それだけ言うと官倉の見回りに戻っていった。
夜、ライルは手帳を開いた。
——ロイド、商業中継地より帰還。現地原記録を照合。
——欄外注記の根拠を確認。当時の引継記録に「ガルダ執務所の元書記と本人申告」「転出用通行札を確認」「発行日、同月十二日」。ガルダ側の旧書記役に対する通行許可証発行索引の日付も同月十二日。
——通行札番号・旅人氏名は未記録。別帳の「……違いありませんか」は事前記憶メモと部分一致。以上から、商業中継地の旅人=旧書記役本人である可能性を「高い」へ更新。確定はしない。
——出立後の行き先・現在の所在・生死は未確認。方角や番号のない追跡を新たに広げない。
そこで筆を止めた。
第九章で追っていた「消えた名前」は、戻ってこなかった。
名前そのものを、商業中継地で見つけたわけでもない。
それでも、以前はただ「遠くへ移ったと聞く」としか残っていなかった人間が、今は、いつガルダを出て、どこまで辿り着いた可能性が高いのかを、複数の記録から置けるようになった。
それで十分だとは思わない。
だが、ここから先を、根拠のない捜索で埋めるつもりもなかった。
ライルは、別の紙を机へ置いた。
あの方の記録。
報告の写しが消えた時期。
姿を見せなくなった時期。
人事綴りに「病没」と記された日。
そして、書記役の通行許可証が発行された日。
これまでも見てきた日付だった。
ただ、書記役の側に一本、現実の移動経路が置かれたことで、並べる意味が変わった。
ロイドが、その紙を見て言った。
「次は、ここですか」
「はい」
ライルは答えた。
「書記役がどこへ行ったかを、これ以上推測する前に」
指先で、二つの日付の列を分けた。
「彼がガルダを出るまでに、何が起きていたのかを、もう一度見ます」
ダグラスは何も言わなかった。
ただ、椅子へ座り直した。
ミラが、新しい照合紙の上に日付欄だけを作った。
まだ、結論の欄は作らなかった。
窓の外、水路の音が聞こえていた。
着任当初、止まっていた水を流すところから始まった。
今は、消えた名前の前後に残った時間を、もう一度並べ直そうとしている。
ライルは手帳の最後に、一行だけ書いた。
——名前は、まだ戻らない。だが、消えた順番は、確かめられる。
蝋燭の火が、静かに揺れた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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