第九十四話「なぜ、そう書いたか」
着任三百八十九日目。
ロイドは、予定通り四日目に商業中継地へ到着した。
継立場ごとの到着記録は、途切れなく残せていた。
定期便に同行できた区間、商隊に合流した区間、継立場の護送に入った区間。
道中、大きな遅れも危険もなかった。
馬車を降りると、以前訪れた時と同じ匂いがした。
人と荷物の多い、賑やかな匂いだった。
商人組合の建物は、記憶にある通りの場所にあった。
「お待ちしておりました」
応対したのは、以前の照会でも間に立った担当者だった。
「今回は、原記録の照合をお願いしたいと聞いています」
「はい」
ロイドは、身分を示す書状と正式便の証票を示した。
「旧当番簿と、引継記録を拝見できますか」
「整理前のものになりますが、構わなければ」
担当者は、そう言って奥の書庫へ案内した。
道中、担当者が世間話のように言った。
「ガルダの帳面の付け方が、変わったと聞きました」
「そうですか」
「訂正を消さずに残す、と。うちのような古い組合には、真似できない部分もありますが」
「真似できる部分だけ、真似していただければ」
ロイドが答えると、担当者はわずかに笑った。
「そう言われると、気が楽になります」
書庫は、宿泊台帳の保管庫よりも埃っぽく、綴りの並びも年ごとに揃っていなかった。
「立会いは、私がいたします」
担当者が言った。
「原本は持ち出せませんが、必要な箇所は写しを取っていただいて構いません」
「ありがとうございます」
ロイドは、まず宿泊期間——四日間——に該当する旧当番簿を探した。
当番簿には、その日の帳付け役が家名で記されていた。
四日のうち三日は同じ家名。
——コルト家。
残る一日は交代当番だったが、その日は旅人の到着・出立のどちらにも当たらなかった。
「欄外注記を書いたのは、このコルト家の方でしょうか」
「筆跡を見ます」
担当者が、当時の引継記録を持ってきた。
コルト家の当番が書いたと確認できる複数の記載と、宿泊台帳の欄外注記を並べる。
文字の傾き。横線の止め方。「書」の末尾をわずかに内側へ払う癖。
ロイドは、一つずつ別紙へ写した。
「同じ筆跡と見るのが自然です」
担当者が言った。
「私も、そう見えます」
ロイドは答えた。
「ただし、筆跡だけで本人性を断定したとは書きません。同時期の当番記録と筆跡が整合する、とします」
その時、引継記録の同じ日付に、小さな付記があることに気づいた。
宿泊台帳より、さらに事務的な書き方だった。
——役人扱い宿料適用。ガルダ執務所の元書記と本人申告。転出用通行札を確認。発行日、同月十二日。
ロイドの指が止まった。
「これは」
担当者も横から覗き込んだ。
「役人向けの宿料を使う時は、身分を確かめていたんです。今ほど厳密ではありませんが、何を見て判断したかを、引継ぎに残すことがありました」
「通行札の番号は」
「書かれていません」
ロイドは、ガルダから持参した照合票を開いた。
当時の書記役について、ガルダ側の発行索引に残っている通行許可証の発行日。
同月十二日。
同じだった。
「同じ日です」
ロイドが言った。
「はい」
担当者が答えた。
「ですが、番号がない」
「そうです」
ロイドは頷いた。
「同じ日に、別の人物へ通行札が発行されていた可能性までは、ここでは消せません」
それでも、これまでとは違った。
宿泊台帳の欄外に「ガルダ方面より来た元書記」と書かれていた。
その理由が、初めて別の記録から確認できた。
当時の帳付け役は、本人の申告と転出用通行札を確認した上で、役人扱いの宿料を適用していた。
そして、通行札の発行日は、ガルダの書記役に発行された日と一致する。
「ここまでなら、どう書けますか」
担当者が尋ねた。
ロイドは少し考えた。
「『商業中継地の旅人が、ガルダ執務所の元書記と本人申告し、転出用通行札を提示したことを同時期の引継記録で確認。記載された発行日は、ガルダ旧書記役の発行索引の日付と一致。通行札番号および旅人氏名は記録されておらず、同一人物との確定には至らない』」
「長いですね」
「長くなります」
ロイドは、わずかに笑った。
「短くすると、消えるものがありますから」
担当者も、小さく笑った。
ロイドは該当箇所の頁番号を控え、担当者立会いのもとで写しを作った。
原本は動かさない。
写しには作成日、作成者、立会人、原本頁番号を記した。
午後、ロイドは第二の目的に取りかかった。
当時を知る人物として、担当者が挙げたのは、宿の厩を長く任されている老年の男だった。
「あの人は、宿の裏を、もう三十年見ています」
担当者が言った。
「口数は少ないですが、馬に付く客のことは、よく覚えています」
厩番のもとへ向かう前、ロイドは担当者から手短に人物像を聞いた。
「昔気質の人です」
担当者が言った。
「聞かれたことには答えますが、聞かれていないことは話しません」
「それで、構いません」
ロイドは頷いた。
「話したいことだけを、話していただければ」
厩の裏手で、老年の男は黙々と馬具を整えていた。
商人組合の担当者にも立ち会ってもらい、ロイドが名乗って用件を告げると、男は手を止めずに「どうぞ」とだけ言った。
厩番は、馬の世話をしながら、ロイドの問いに一つずつ答えた。
最初は事実だけを尋ねた。
その年の同じ時期に、四日ほど滞在した客を覚えているか。
「覚えているような、いないような」
厩番は、手を止めずに言った。
「毎年、似たような客は来ます。ただ」
「ただ」
「銅貨を一枚ずつ揃えて渡す客がいたのは、覚えています」
「丁寧、というのは」
「一枚ずつ、揃えるように並べて渡す客でした。急いでいる様子もなく、かといって暇そうでもない。そういう客は、あまりいません」
「その客は、何か話していましたか」
「道のことを、聞かれました」
厩番は言った。
「次の継立場まで馬でどれくらいか、と。ただ、それも旅人ならよく聞くことです」
「特に、変わったところは」
「顔をよく覚えていません」
厩番は、正直に答えた。
「声も、大きくはありませんでした。静かな客でした」
ロイドは、認証写しを取り出した。
「この言葉に、聞き覚えはありますか」
厩番は、写しに目を落とした。
しばらく黙っていた。
「……あるような、ないような」
やがて、そう言った。
「厩にいる私が、宿の中の言葉を聞くことは、あまりありません」
「見せたことで、何か思い出したことは」
「いいえ」
厩番は、首を振った。
「無理に、思い出したふりはしたくありません」
「それで、十分です」
ロイドは、静かに答えた。
銅貨の渡し方も、静かな物腰も、それだけでは本人確認の材料にはしない。
当時を知る人の記憶として残すだけだった。
「一つだけ、伺ってもいいですか」
厩番が、珍しく自分から口を開いた。
「どうぞ」
「その客が、何かしたんですか」
「いいえ」
ロイドは首を振った。
「その方が今どうしているかを、確かめようとしているだけです」
「それなら」
厩番は、また馬具に目を戻した。
「もし、また来ることがあれば、丁寧な客だったと、伝えておきます」
「ありがとうございます」
ロイドは、証言を、聞いたままの形で記録した。
断定はしない。
断定できない部分を、断定できないまま残す。
書庫に戻り、担当者に礼を言うと、担当者は「役に立てたなら」とだけ答えた。
「明日も、ここに」
担当者が尋ねた。
「もう一度、当番簿の記載が不鮮明だった一件だけ確認させてください」
ロイドは答えた。
「それで、今回できることは、ほぼ終わりだと思います」
夕方、ロイドは今日一日の記録を整理した。
——欄外注記は、当時の帳付け役(コルト家当番)の筆跡と整合。
——同日の引継記録に「ガルダ執務所の元書記と本人申告」「転出用通行札を確認」「発行日、同月十二日」と記載。
——ガルダ側の旧書記役に対する通行許可証発行索引の日付も、同月十二日。
——通行札番号・旅人氏名は記録されておらず、同一人物と確定はできない。
——厩番の自由証言では、銅貨を一枚ずつ揃えて渡す静かな客の記憶あり。ただし該当旅人との同一性は未確認。認証写し提示後も明確な追加想起なし。
これまで、「ガルダ方面より来た元書記」という欄外注記そのものが手がかりだった。
今日は、その注記が何を根拠に書かれたのかまで遡れた。
本人の申告。
転出用通行札。
そして、発行日の一致。
どれも、それ一つで名前を確定するものではない。
だが、時期と属性だけで置かれていた候補に、当時確認された身分情報が一つ加わった。
ロイドは、ガルダへ持ち帰る照合票の欄を一段だけ書き換えた。
——商業中継地の旅人=旧書記役である可能性、高い。ただし本人性未確認。
「確定」とは書かなかった。
書けるところまで、書いた。
それ以上は、足さなかった。
明朝、昨日不鮮明だった当番記録を一件だけ確認する。
それが終われば、今回の現地確認は閉じる。
窓の外、商業中継地の夜は、ガルダより少しだけ賑やかだった。
馬車の音が、遠くでまだ続いていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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