第九十三話「椅子が、空いても」
着任三百八十四日目、朝。
畑では、種まきが始まっていた。
カイとゲオルグが、村人たちと一緒に列を作り、順番に土を起こしていく様子が、執務所の窓からも見えた。
昼前、ニルスが土地の件で立ち寄った。
「今年も、種はまきました」
ニルスが言った。
「暫定使用の分だけですが」
「名義の方は」
ライルが尋ねた。
「まだ、動いていません」
「動きがあれば、すぐにお伝えします」
「わかっています」
ニルスは、それだけ言うと畑へ戻っていった。
去年と同じやり取りだったが、去年よりも短く、少しだけ穏やかだった。
執務所の中では、ロイドが旅支度を進めていた。
「荷物は」
ライルが尋ねた。
「認証写しの控え、照合票、道中の記録用紙、これまでの通り」
ロイドは、鞄の中身を一つずつ確かめながら答えた。
「日程は」
「商業中継地まで、通常なら四日ほどです。現地確認を二日まで、戻りに四日」
「十日前後」
「はい」
ロイドは頷いた。
「記録の状態や、現地で立会いを組めるかによっては、少し延びます。その場合は無理に詰めません」
「持っていくものは」
ライルが尋ねた。
「認証写しの控え一式、身分を示す書状、内政調整局の正式便を使うための証票」
ロイドは、一つずつ鞄へ収めながら答えた。
「旅費は、宿代と食費を日数分。予備費は別封にして、使った場合だけ理由を記録します」
「十分です」
ライルは頷いた。
節約するために、帰れなくなるほど削る必要はない。
必要額と予備費を分ける方が、今のガルダらしい。
ミラが、留守中の体制表を持ってきた。
「受付の記録は、私が主に担当します」
ミラが言った。
「官倉はヴェクさん。水路は、村側の見回り日にカイさんから異常の有無だけ受け取ります。ダグラスさんは」
「人事綴りの見直しと、判断が難しい相談の確認をお願いします」
ライルが言った。
「決めるのは、私です。ダグラスさんには、確認と整理をお願いします」
「承知しました」
ダグラスが答えた。
声に、落ち着きがあった。
同行しないと決まった時の落胆は、もう表には出ていなかった。
「連絡は、これまで通り」
ロイドが確認した。
「継立場を通るたび、到着記録を残してください」
ライルが言った。
「長い区間で一日空くのは構いません。予定の継立場を二つ続けて通らなかった時だけ、こちらから確認をかけます。内容は無理に詰め込まなくて構いません」
「わかりました」
昼前、ダグラスがロイドのところへ来た。
「一つだけ、いいですか」
「どうぞ」
「見たことと、聞いたことは、先に分けて書いてください」
ダグラスが言った。
「後から思ったことは、また別に」
「それは」
「フェルンで、私が教わったことです」
ダグラスは、少し照れたように言った。
「今度は、私が言う番かと思いまして」
「覚えておきます」
ロイドは、真面目な顔で頷いた。
「ありがとうございます」
ダグラスは、それだけ言って自分の机へ戻っていった。
自分が行けないことへの未練は、もう言葉にしなかった。
代わりに、渡せるものを渡した。
午後、ダグラスは旧い人事綴りを広げ、書記役がいなくなった前後三か月に範囲を絞って見直し始めた。
書記役本人の欄だけでなく、同じ期間に他の役人の転出・休職・欠勤の記録が動いていないかを、一つずつ確かめていく。
ミラが、約束通り隣に座った。
「見慣れた綴りでも、目的を変えると、違って見えますね」
ミラが言った。
「はい」
ダグラスは頷いた。
「今までは、書記役の名前を探す目で見ていました。今度は、同じ時期に何が動いていたかを見る目で読み直しています」
「何か、見つかりそうですか」
「まだ、わかりません」
ダグラスは、正直に答えた。
「ですが、探し方を変えれば、見えるものも変わるかもしれません」
二人は、それから日が傾くまで、綴りを一頁ずつ確かめ続けた。
目立った発見はなかったが、確かめたという事実だけは、今日の記録に残った。
午後遅く、ヴェクが官倉の鍵束を確かめながら言った。
「留守中、何か変わったことがあれば」
「記録して、ライル様に報告してください」
ロイドが答えた。
「判断は、いつも通りライル様が」
「はい」
ヴェクは、それだけ確認すると、いつも通り官倉へ戻っていった。
カイが、畑仕事の合間に顔を出した。
「行ってらっしゃるんですね」
「はい」
ロイドは答えた。
「気をつけて、行ってきてください」
「ありがとうございます」
「留守の間も、こちらはいつも通りです」
カイが言った。
「それが一番です」
ロイドは答えた。
カイは頷き、また畑へ戻っていった。
水を通した水路と、種をまいた畑。
どちらも、去年一年で積み上げてきたものだった。
その積み上げの上に、今日も新しい仕事が一つ載る。
夕方、ライルとロイドが、最後に道順と安全策を確認した。
「継立場より先、街道の状態は」
「今朝の定期便では、通行止めなしとのことでした。二つ先までは同じ便に同行できます」
「その先は」
「次の継立場で、商隊か護送便に合流します」
「宿は」
「商人組合が指定した宿を使います。到着時に受領記録も残します」
「無理はしないでください」
ライルは言った。
「当時を知る人に会えなくても構いません。まず原記録を照合してください。聞き取りができる場合も、先に自由に話してもらってから、必要なら写しを示す」
「はい」
ロイドは、はっきりと答えた。
「今回は、答えを持ち帰るための旅ではなく、現地でしか確かめられないことを確かめる旅だと思っています」
「その通りです」
ライルは頷いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
ロイドが言った。
「どうぞ」
「もし、旧当番簿にも引継記録にも手がかりがなく、当時を知る人にも会えなかった場合は」
「その時は、その経路で確認できることはそこまでです」
ライルは答えた。
「閉じた道を、開いていることにはしません。必要なら、その時点で別の道を考えます」
「わかりました」
ロイドは、その言葉を静かに受け止めた。
鞄を閉じながら、ふと手を止めた。
「以前は、一人で市場町へ行くだけでも、緊張していました」
ロイドが言った。
「隊商を探しに行った時、ですか」
「はい」
ロイドは頷いた。
「あの頃は、椅子が一つ空くことが、怖いくらいでした」
「今は」
「今は、椅子が空いても、仕事の順番が残ります」
ロイドは、鞄の留め具をしっかりと締めた。
「誰かが私の真似をしなくても、必要な仕事は続く。だから、行ってこられます」
「無事に戻ってきてください。それが、一番の仕事です」
「はい」
夜、ライルは手帳を開いた。
——商業中継地への現地確認、明朝出発。ガルダ側担当はロイド一人。道中は定期便・商隊・継立場護送を利用。第一目的は旧当番簿・引継記録・宿泊台帳等の照合。聞き取りは第二段階とし、自由証言を先に取る。旅人本人の捜索はしない。留守中:ミラ=受付記録主担当、ヴェク=官倉、ダグラス=対象期間の旧人事綴り比較確認。水路は村側の通常見回りから異常時のみ連絡。継立場ごとに到着記録を残す。
窓の外は、もう暗くなっていた。
種まきを終えた畑が、月明かりの下で静かに広がっている。
水路の音は、変わらず続いていた。
最後に、もう一行を書き足した。
——一つの道が閉じても、探すこと自体をやめるわけではない。今日、そう答えた。明日からも、そうする。
翌朝、着任三百八十五日目。
空は晴れていた。
畑では、すでに数戸が種まきを終えていた。
空気は、まだ朝の冷たさを残していた。
執務所の扉を開けると、水路の匂いと土の匂いが混じって漂ってきた。
冬の匂いではなかった。
執務所の前に、ロイドが荷物を積んだ馬を用意していた。
ライル、ダグラス、ミラ、ヴェクが、見送りに出ていた。
少し離れた場所から、種まきの手を止めたカイとゲオルグも、こちらを見ていた。
「行ってきます」
ロイドが言った。
「行ってらっしゃい」
ライルが答えた。
「無理をせず、確かめられることだけ、確かめてきてください」
「はい」
「気をつけて」
ミラが言った。
「留守中のことは、任せてください」
「ヴェクさんも」
ロイドが声をかけた。
「官倉は、いつも通りにしておきます」
ヴェクは、短く答えた。
迷いのない声だった。
「お待ちしています」
ダグラスが、静かに言った。
その一言には、以前とは違う響きがあった。
待つことしか許されなかった声ではなく、待つことを自分で選んだ声だった。
「行ってらっしゃい」
遠くから、ゲオルグの声が届いた。
「畑の方は、任せてください」
カイも、大きく手を振った。
ロイドは、一人一人の顔を見て、小さく頷いた。
それから馬の手綱を取り、街道の方へ向き直った。
朝の光が、水路の水面に細く反射していた。
ロイドが、ゆっくりと馬を進め始めた。
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次回は明日19:10更新予定です。
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