第九十二話「現地で、確かめる」
着任三百八十二日目、朝。
残っていたもう一戸の種麦の相談が、昨夜のうちにまとまっていた。
「今朝、二戸とも確定しました」
ゲオルグが報告した。
「融通記録に、両方とも書き入れてあります」
「ありがとうございます」
ライルが言った。
「これで、村の種まきは」
「あとは、天気次第です」
ゲオルグは、そう言って空を見上げた。
薄い雲が、ゆっくり流れていた。
「去年は、この時期、まだ官倉の屋根が心配でした」
ゲオルグが続けた。
「今年は、種のことだけ考えていられます」
「それは、良いことですね」
「良いことです」
ゲオルグは頷き、次の相談へと歩いていった。
悩みの種類が変わっていくことも、一年で積み重ねてきたものの一つだった。
昼前、ライル・ロイド・ダグラス・ミラが、執務所の奥の小部屋に集まった。
「昨日の続きです」
ライルが言った。
「手元の写しだけでは進みにくくなったところから、どうするかを決めます」
ロイドが、二欄整理の帳面を机に広げた。
「わかっていること。欄外注記の作成者は当時の帳付け役、宿泊期間は四日間。わかっていないこと。作成者の氏名、出立先が空欄になった経緯、旅人のその後」
「このうち」
ライルが言った。
「現地へ行くことで、書面だけより確かめやすくなるものは」
「三つあります」
ロイドが答えた。
「旧当番簿と引継記録を並べて、欄外注記を書いた帳付け役の氏名を特定すること。宿泊台帳の前後頁と組合側の別帳を同じ場で照合すること。それから、当時を知る人が残っているかを確認することです」
「旅人本人を探しに行くわけではない」
「はい」
ロイドは頷いた。
「まず記録です。人に聞くのは、その後です」
「もし、当時を知る人に会えたら」
ミラが尋ねた。
「最初から認証写しは見せません」
ロイドが答えた。
「先に、こちらから具体的な言葉を渡さず、覚えていることを本人の言葉で話してもらいます。見たこと、聞いたこと、後から聞いた話を分けて記録する。その後で、必要があれば写しを示します」
ダグラスが、静かに頷いた。
「先に答えを見せれば、記憶がそちらへ寄るかもしれません」
「はい」
ロイドが言った。
「ダグラスさんの追加記憶メモを先に封じたのと、同じ理由です」
「それでも、話したくない人はいます」
「話したくなければ、話さなくて構いません」
ライルが言った。
「無理に聞き出すことは、しません。それは、これまでも変えていない姿勢です」
「フェルンの時と、似ていますね」
ダグラスが言った。
「似ています。ただし、今回の第一目的は聞き取りではありません」
ライルは言った。
「原記録を同じ場所で照合することです。人の記憶は、その後に置きます」
「順番を変えない」
ミラが言った。
「はい」
ライルは頷いた。
部屋が、少しの間静かになった。
「行く、ということで、よろしいですか」
ロイドが尋ねた。
「はい」
ライルは答えた。
「行きましょう」
「誰が行きますか」
ダグラスが、すぐに言った。
「今度も、私が」
「今回は」
ライルは、少し間を置いてから答えた。
「ガルダからの確認担当は、ロイド一人にします」
ダグラスが、わずかに目を伏せた。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「フェルンの時、必要だったのは、あなたの記憶でした」
ライルは言った。
「あの人たちの言葉、鍵という呼び名、木札の紐の結び方。あなたが見て、聞いたものと照らし合わせる必要があったからです」
「今回は」
「今回、確かめるのは、記録に残った言葉の断片と、旅人を見ていたかもしれない人の記憶です。あなたの記憶と、照らし合わせる場面ではありません」
ライルは、静かに続けた。
「あなたの記憶は、すでに、記録の中に十分残っています。追加記憶メモも、証言も」
「もし、記帳係が、何か重要なことを覚えていたら」
ダグラスが尋ねた。
「その時は、ロイドが正確に聞き取り、正確に持ち帰ります」
「私が、いなくても」
「はい」
ライルは、まっすぐに答えた。
「今回、あなたを確認担当に加えない理由は、あなたに何かが足りないからではありません。最初の照合に、あなたの記憶を混ぜない方がいいからです」
ダグラスは、しばらく黙っていた。
「……そうですね」
やがて、静かに言った。
「私が行けば、聞いた話を、つい、自分の記憶と結びつけてしまうかもしれません」
「それも、理由の一つです」
ライルは頷いた。
「悪い意味ではありません。あなたが、それに気づいているからこそ、今、確かめておく必要がありました」
「では、私は」
「ここに残って、いつも通りの仕事をしてください」
ライルは言った。
「もし何か、思い出すことがあれば、それは別に記録します。無理に思い出す必要はありません」
「わかりました」
ダグラスは、深く頭を下げた。
声に、落胆はあっても、それ以上の乱れはなかった。
「一つだけ」
顔を上げて、ダグラスが言った。
「ロイドさんが戻るまで、何か、私にできることはありますか」
「あります」
ライルは答えた。
「留守中、旧い人事綴りのうち、書記役がいなくなった前後三か月だけを、もう一度見直してください」
「範囲を、決めるんですね」
「はい。探すものを増やすためではありません」
ライルは言った。
「同じ時期に、他の役人の転出・休職・欠勤の記録が動いていないか。比較対象を作るためです」
「承知しました」
ダグラスの声に、静かな張りが戻った。
ロイドが、条件を整理し始めた。
「安全策は」
ロイドが確認した。
「ガルダからの担当は一人ですが、道中まで単独にはしません」
ライルが答えた。
「定期便か商隊と同じ区間を進むこと。危険度の高い街道では継立場の護送に入ること。現地で人に聞き取りをする場合は、商人組合の担当者か宿側の立会人を一人置くこと。連絡は継立場ごとに残してください」
「はい」
「旅人本人を捜し回らない。旧当番簿・引継記録・宿泊台帳の照合を第一目的にする。当時を知る人がいた場合も、本人が話す意思を示した範囲だけ聞く。その先へは、今回は進まない」
「わかりました」
ミラが、新しい照合票を用意した。
——商業中継地、現地確認。第一目的:旧当番簿・引継記録・宿泊台帳等の照合による欄外注記作成者の特定と、旅人記録の周辺確認。第二目的:当時を知る人物が任意に応じる場合の聞き取り。具体的文言・認証写しは自由証言の後に提示する。旅人本人の捜索は行わない。
「出発は」
ロイドが尋ねた。
「支度が整い次第」
ライルは答えた。
「二、三日で、動けますか」
「動けます」
ロイドは、迷わず答えた。
夕方、執務所の外で、ダグラスが一人、水路を眺めていた。
水は、もう凍っていなかった。
「一人で、大丈夫でしょうか」
通りかかったミラが、声をかけた。
「ロイドさんなら、大丈夫だと思います」
ダグラスは答えた。
「心配なのは、ロイドさんのことより」
「ご自分のことですか」
「はい」
ダグラスは、正直に頷いた。
「待つ側になるのは、初めてではありません。ですが、今回は、少し違う気がします」
「どう違うんですか」
「今までは、待つことしかできませんでした」
ダグラスは言った。
「今度は、待つ以外にも、やることがあります」
その言葉には、以前のような重さはなかった。
ミラは、それ以上尋ねず、隣に並んで水路を見た。
「人事綴りを、頭から見直すんですよね」
ミラが言った。
「はい」
「私も、手伝います」
「一人でできます」
ダグラスは、少し驚いた顔をした。
「一人でできることと、一人でやらなければいけないことは、違うと思います」
ミラは、以前どこかで聞いた言葉のような言い方をした。
「……そうですね」
ダグラスは、小さく笑った。
「では、お願いします」
「はい」
二人は、それ以上多くを語らず、それぞれ執務所へ戻っていった。
夜、ライルは手帳を開いた。
——商業中継地への現地確認を決定。第一目的は旧当番簿・引継記録・宿泊台帳等の照合。人への聞き取りは第二段階とし、自由証言を先に取ってから必要に応じて認証写しを示す。旅人本人の捜索は行わない。ガルダ側担当はロイド一人。道中は定期便・商隊・継立場護送を利用し、現地聞き取りは立会人を置く。ダグラスは同行せず、留守中に旧人事綴りの対象期間を比較確認する。
最後に、もう一行を加えた。
——役割を分けることを、信頼の大小に置き換えない。今、必要な仕事を、必要な人に頼んだだけだと、忘れないようにする。
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次回は明日19:10更新予定です。
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