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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第九章:消えた名前を、追う

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第九十一話「行き先は、書かれていない」

 着任三百八十一日目、朝。


 水路の氷が、ほとんど消えていた。


 カイが竿を差し込み、底まで届く感触を確かめた。


「中央まで、通っています」


「縁だけでなく」


 ライルが尋ねた。


「はい。数日前の見立てより、少し早く緩みました」


 カイは、立てていた印の棒を一本ずつ抜いていった。


 抜いた棒は束ねて、来年また使えるよう倉へしまう。


 捨てるものではなかった。


 ライルは、水路の縁に立ち、流れる水音を聞いた。


「一年を、越えましたね」


 ロイドが、隣に並んで言った。


「はい」


「この時期、去年は、水を流し続けるだけでも仕事でした」


「今は」


「流れていることを前提に、次の仕事を考えています」


 ロイドは、小さく笑った。


 ライルは頷いた。


 水が流れていること自体を、毎朝の成果として数える必要はなくなった。


 それも、一年で変わったことの一つだった。


 昼前、ゲオルグが受付に顔を出した。


「種麦の相談が、いよいよ本格化してきました」


「今年の分は」


「足りない家が、二戸あります。融通で埋まりそうです」


 ゲオルグは、帳面の仲介申出の欄を指でなぞった。


「去年より、早く話がまとまります」


「それは」


「皆、去年の記録を見て、去年の量を思い出せるからです」


 ゲオルグは、それだけ言って軽く頭を下げ、村へ戻っていった。


 官倉では、ヴェクが種麦の預かり分を数え直していた。


「去年の記録と、今年の申告が、ずれていないかを見ています」


 ヴェクが言った。


「ずれていたら」


「その場で、直します。直したことも、残します」


 ヴェクは、点検表に今日の日付を書き入れた。


 いつも通りの、静かな午前だった。


 午後、内政調整局の正式便が到着した。


「商業中継地への追加照会に、返信が届きました」


 ロイドが言った。


 先日送った三点の追加照会——欄外注記の作成者と時期、旅人の宿泊期間、出立時の次の行き先記録の有無——への回答だった。


 ダグラスが、その場に居合わせた。


「開けますか」


 ライルが尋ねた。


「はい」


 ダグラスは短く答えた。


 ロイドが封を切る。


 中には、商人組合からの回答書が一通あった。


「読みます」


 ロイドが言った。


 ——一点目、欄外注記の作成者について。同時期の記載との筆跡照合により、当時の帳付け役が記したものと確認した。欄外注記そのものに署名はない。旧当番簿・引継記録を照合すれば氏名を特定できる可能性があるが、当該資料は整理前で、写しの作成には現地確認を要する。


「作成者は、役目まではわかったんですね」


 ミラが言った。


「はい」


 ロイドが答えた。


「氏名は、別の資料を見なければ出ません」


「書面でも頼めますか」


「頼めます。ただ、向こう自身が『整理前で、写しを作るなら現地確認が必要』と書いています」


 ロイドは続きを読んだ。


 ——二点目、旅人の宿泊期間について。到着日と出立日を台帳で確認した。滞在は四日間。


「四日間」


 ライルが言った。


「日数は、確認できました」


 ロイドが言った。


「長いか短いかは、比較する材料がありません」


 ダグラスが、静かに頷いた。


「三点目です」


 ロイドが、少し間を置いてから続けた。


 ——三点目、出立時の次の行き先について。当時の宿泊台帳には、出立先を記す欄があるが、当該旅人の行の該当欄は空欄のままである。水損や破損の跡はなく、単に記載がない。


 部屋の中が、静かになった。


「空欄、ですか」


 ミラが尋ねた。


「はい」


 ロイドが答えた。


「氏名の時とは、種類が違います」


「氏名は、水で読めなくなっていました」


 ライルが言った。


「これは、最初から書かれていません」


「書かなかった、ということですか」


 ミラが尋ねた。


「そこまでは、言えません」


 ライルは首を振った。


「本人が言わなかったのか、宿の側が聞かなかったのか、聞いたが書かなかったのか。どれもありえます」


「決めつけない、ということですね」


「はい」


 ライルは頷いた。


「書かれていない理由を、こちらで足しません」


 ダグラスが、机の上の回答書を見つめていた。


「私も、以前は」


 ぽつりと言った。


「聞かれたことに、答えなかったことがあります」


「今の話とは、別のことです」


 ライルが言った。


「重ねなくて、構いません」


「わかっています」


 ダグラスは、静かに答えた。


「ただ、空欄を見ると、つい、自分のことを思い出します」


「思い出すことと、重ねて判断することは、違います」


 ライルは言った。


「思い出すのは、構いません。それを理由に、書かれていない部分へ意味を足さなければ」


「はい」


 ダグラスは、短く答えた。


 それ以上は、続けなかった。


「これで、今こちらにある写しだけから追える範囲は」


 ロイドが言った。


「ほぼ、尽きました」


「作成者の氏名は」


 ミラが尋ねた。


「旧当番簿と引継記録を現地で照合すれば、出る可能性があります」


 ロイドは答えた。


「それに、旅人の行そのものだけでなく、前後の宿泊記録や、同じ時期の組合記録を並べて見られます。写しを一枚ずつ頼むより、現地で確認した方が早い段階に来ています」


 ライルは頷いた。


「書面でできることがゼロになったわけではない。ただ、次に必要なのは、一枚の返書ではなく、複数の原記録を同じ場所で照合すること」


「はい」


 ロイドが答えた。


 ダグラスが、少し身を乗り出した。


「作成者の氏名がわかれば、話は早くなりますか」


「早くなるとは限りません」


 ライルは答えた。


「氏名がわかっても、それだけで旅人の正体は決まりません。一つ確かめれば、その先にまた確かめることが出てくる。これまでも、そうでした」


「切りがない、ということですか」


「切りは、あります」


 ライルは言った。


「ただ、紙の上で切りをつけられる範囲と、そうでない範囲があるというだけです」


「行く、ということですか」


 ロイドが尋ねた。


「まだ、決めていません」


 ライルは答えた。


「今日は、わかったことと、わからないことを、正確に分けます」


 ロイドが、二欄整理の帳面を取り出した。


「作成者は役目まで判明、氏名は未確認、現在の所在も未確認——これは、左欄と右欄の間くらいですね」


「間、というのは正確な記録ではありません」


 ライルが言った。


「役目が判明した部分は左へ。氏名・所在は右に残してください」


「宿泊期間、四日間は」


「左です」


「出立先の欄が空欄だったことは」


「左です。実際にどこへ向かったのか、なぜ記載がないのかは右に残してください」


 ロイドは、旧版を残したまま、新しい頁に丁寧に書き分けた。


 ——欄外注記の作成者:当時の帳付け役と判明(氏名は旧当番簿等との照合待ち)。宿泊期間:四日間、到着・出立日を確認。出立先:記載なし(水損・破損による欠落ではない)。


「最初から記載のない欄と、水損で読めなくなった欄」


 ミラが、その二つを見比べながら言った。


「見た目は空白でも、性質が違いますね」


「だからこそ、名前を分けます」


 ロイドが言った。


「見た目が似ていても、性質が違うものを、同じ言葉で呼ばない」


 夕方、カイが水路の見回りから戻ってきた。


「今日で、氷の心配はなくなりました」


 カイが報告した。


「明日から、通常の見回りに戻します」


「お願いします」


 ライルは答えた。


「種麦の方は」


「二戸のうち、一戸はゲオルグさんの仲介でまとまりました」


 カイが言った。


「もう一戸は、明日まとめます」


「急がせなくて、構いません」


「はい」


 カイは、少し考えてから続けた。


「去年は、種麦が足りない家があっても、誰にも言えなかったと聞きました」


「今年は」


「今年は、仲介申出の欄に書けば、誰かが動いてくれます」


 カイは、それを当たり前のことのように言った。


 当たり前になったことこそが、一年で変わったことだった。


 カイは頷き、報告欄に時刻を書いて村へ戻っていった。


 水路の氷が消えたことと、手元の写しだけでは先へ進みにくくなったこと。


 同じ日に、まったく違う二つの区切りが訪れていた。


 夜、ライルは手帳を開いた。


 ——商業中継地への追加照会に返信あり。欄外注記の作成者は当時の帳付け役と判明(氏名未確認)。旅人の宿泊期間は四日間、日付確認済み。出立先は記載なし。水損ではなく当初からの空欄であり、氏名不明の場合とは別の種類の空白として記録する。


 もう一行、書き足した。


 ——手元の写しだけで追える範囲は、限界に近い。次は、商業中継地で旧当番簿・引継記録・宿泊台帳を同じ場で照合する必要があるかを検討する。今日は、まだ決めない。


 窓の外、水路の水音が、氷のなかった頃の音に戻っていた。


 ロイドが、二欄整理の帳面を施錠棚へ戻しながら言った。


「明日から、種まきの準備が本格化します」


「大きな話が動いていても」


 ライルが言った。


「畑は、待ってくれません」


「はい」


 ロイドは、小さく頷いた。


 紙の道の先に、まだ答えはなかった。


 ただ、次に見るべき紙が、ガルダではなく商業中継地にあることは、今日、はっきりした。


 ミラが、今日の記録を最後まで書き終えてから、ふと顔を上げた。


「紙で追える範囲が尽きた時、次はどうするんですか」


「今までも、何度かありました」


 ロイドが答えた。


「フェルンの時が、そうでした」


「あの時は」


「人が、行きました」


 ロイドは、それだけ言った。


「今回も」


「まだ、決めていません」


 ライルが繰り返した。


「決める前に、今日わかったことを、明日もう一度、皆で確かめます」


 ミラは、その言葉を静かに書き留めた。


 急いで結論を出さないことと、考えるのをやめることは、違う。


 それは、この執務所で何度も確かめられてきたことだった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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