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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第九章:消えた名前を、追う

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第九十話「違う、という答え」

 着任三百七十六日目、朝。


 水路の氷に、細い筋が入っていた。


 カイが竿で叩くと、数日前よりも少し鈍い音がした。


「緩んできています」


 カイが言った。


「縁の方は、もう乗らない方がいいです」


「危ないところには近づかないでください」


 ライルが言った。


「わかっています」


 カイは頷き、氷の縁に沿って印を打った棒を等間隔に立てていった。


 冬の間、動かなかったものが、少しずつ形を変え始めている。


 水路も、畑も、人の予定も。


 春はまだ先だった。


 それでも、次の季節へ向けた相談は、すでに始まっていた。


 昼前、ゲオルグが融通記録の確認に来た。


「今年は、種麦の相談が早いですね」


 ライルが言った。


「氷が緩むと、皆、気が早くなるんです」


 ゲオルグは小さく笑った。


「前より、皆さんの相談の仕方が落ち着いています」


「そうですか」


「誰に何を聞けばいいか、わかるようになったからだと思います」


 ゲオルグはそう言って、帳面に目を落とした。


「仲介申出の欄も、今年は最初から埋まっています」


 ライルは頷いた。


 変化は、大きな出来事としてではなく、こういう小さな一言の積み重ねとして現れる。


 官倉では、ヴェクが屋根の様子を確かめていた。


「雨は、まだ大丈夫そうです」


 ヴェクが言った。


「氷が緩む頃が、一番怪しいんです。雪解け水が、思わぬところから入ります」


「補修してからは」


「今のところ、異常はありません」


 ヴェクは、点検表に日付と確認結果を書き入れた。


「何もなかったことも、記録しておきます。異常が出た時、いつまでは問題がなかったかがわかります」


 ライルは、その言葉に頷いた。


 異常があった時の記録だけでなく、何もなかった時の記録も、同じ棚に並んでいる。


 三年分の空白を見つめてきたガルダにとって、それは軽い言葉ではなかった。


 午後、内政調整局の正式便が到着した。


「北西方面への照会に、返信が届きました」


 ロイドが言った。


 以前、同じ条件で三方向へ送った照会のうち、受領確認だけが先に届き、内容回答を待っていた一件だった。


 ダグラスが、その場に居合わせた。


「開けますか」


 ライルが尋ねた。


「はい」


 ダグラスは短く答えた。


 声に、以前ほどの硬さはなかった。


 ロイドが封を切る。


 中には、北西街道方面の関所と、その先の受入記録を照合した回答書が一通入っていた。


「読みます」


 ロイドが言った。


 ——照会対象日、「役人転出」区分で北西街道へ通過した記録は一件。


 ——当時の関所記録に残る通行許可証番号を、次の継立場および受入側の記録と照合した。


 ——同番号の者は、北西方面の役所で到着受理されており、受入簿に氏名が残る。


 ——その氏名は、照会書に記されたガルダ旧書記役の氏名とは一致しない。


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


「番号が、つながったんですね」


 ミラが尋ねた。


「はい」


 ロイドは、回答書の添付欄を確かめた。


「関所の通過記録、次の継立場、受入簿。三つで同じ許可証番号が確認されています」


「では、この北西街道の一件は」


 ダグラスが言った。


「少なくとも、私たちが追っている書記役ではない」


「そこまでは言えます」


 ライルが答えた。


「北西へ行った可能性そのものを否定する資料ではありません。ですが、同日の三件のうち、北西街道へ出たこの一件は別人です」


 ロイドが照合票へ書き写した。


 ——北西街道方面、照会対象日の「役人転出」一件。関所記録・次継立場・受入簿を許可証番号で照合。受入簿記載氏名はガルダ旧書記役と不一致。当該一件を候補から除外。


「違う、と書けるんですね」


 ミラが言った。


「この一件については」


 ライルが頷いた。


「はい。人そのものの行方ではなく、追っていた経路候補の一つが違った、と書けます」


 ダグラスは、その言葉を、じっと聞いていた。


「私は、この方向に、少し期待していました」


 ぽつりと言った。


「北の方角の話を聞いた時、なぜか、そちらのような気がしたんです」


「理由は」


「ありません」


 ダグラスは首を振った。


「ただの、勘です」


「勘があったことと、記録で否定できたことは、別です」


 ライルは言った。


「今日残すのは、後者です」


 ダグラスは、少しの間、黙っていた。


「違うとわかることも、一つの答えだからです」


 自分が数日前に言った言葉を、今度はライルの側から差し出された形になった。


「はい」


 ダグラスは、静かに頷いた。


「以前、私が言いました」


「覚えています」


「今、それを、自分で試されている気分です」


「怖いですか」


 ミラが尋ねた。


「怖くは、ありません」


 ダグラスは少し考えてから答えた。


「思っていたより、静かな気持ちです。違うと確かめられた一件が増えると、今追っているものの輪郭が、少しだけはっきりします」


 ロイドが、二欄整理の帳面を棚から取り出した。


「二欄整理も、新しい版を作ります」


 ロイドが言った。


「北西方面という方角全体を『わかった』へ移すのではなく、照会した一件だけを左へ」


「内容は」


 ライルが尋ねた。


「『照会対象日の北西街道「役人転出」一件は、許可証番号の連続照合により別人と確認。書記役の北西方面移動そのものは未確認』」


 ロイドは、ゆっくりと読み上げた。


「それなら、事実の範囲です」


 ライルは頷いた。


 ロイドは旧版を残したまま、日付を付した新版を作った。


 右欄の「書記役の転出先、未確認」は消さない。


 その下に、左欄へ移った一件だけを参照番号付きで追記した。


「これで、三方向の状態が、はっきり分かれました」


 ミラが言った。


「北方面は、記録の状態が悪く確認不能のまま。北西方面は、照会した一件を除外。商業中継地は、候補として確度が一段上がった」


「残るのは、商業中継地だけですか」


 ミラが尋ねた。


「積極的に次の確認を進められる先は、今のところそこです」


 ライルは答えた。


「ですが、北方面が『違った』わけではありません。確かめられなかっただけです」


 ロイドが頷いた。


「閉じた経路と、閉じられない経路を同じにしない」


「はい」


 ライルは言った。


「今日減ったのは、北西街道の一件だけです。商業中継地の証拠が増えたわけでもありません」


 ロイドが、小さく頷いた。


「商業中継地への追加照会は」


「まだ、返事がありません」


 ロイドが答えた。


「欄外注記の作成者と時期、宿泊期間、出立先記録の有無。三点です」


「向こうでの確認に、時間がかかっているのかもしれません」


 ミラが言った。


「急かしますか」


「いいえ」


 ライルは首を振った。


「急かして早まる確認と、急かしても早まらない確認があります。これは、後者だと思います」


 ダグラスが、窓の外を見た。


「もし、返事が届いた時」


 ダグラスが言った。


「それでも、まだ足りない、ということはありますか」


「あると思います」


 ライルは正直に答えた。


「文言の一致だけでは、本人だとは言い切れません。会って確かめる、という段階が、いずれ必要になるかもしれません」


「現地へ、誰かが行く、ということですか」


 ロイドが尋ねた。


「まだ、決めていません」


 ライルは言った。


「今、決めるには、材料が足りません。三点の照会の結果を見てから、考えます」


「わかりました」


 ロイドは、それ以上尋ねなかった。


 だが、その一言が、これまでとは違う重さを持っていることに、その場の誰もが気づいていた。


 今、記録をさらに積み上げられる先は、商業中継地に集まりつつある。


 それでも、記録の先にいる人物が誰なのかは、まだ決まっていなかった。


 夕方、カイが水路の見回りから戻ってきた。


「縁の氷、朝よりさらに緩んでいます」


 カイが報告した。


「明日から、歩いて渡るのは止めた方がいいと思います」


「そうしましょう」


 ライルは答えた。


「印を立てた範囲も、朝にもう一度見直してください」


「わかりました」


 カイは、それだけ確認すると、自分の報告欄へ時刻を書いて村へ戻っていった。


 調査の照合票と、水路の見回り記録。


 同じ執務所に届く紙でも、見る必要のある者は同じではない。


 夜、ライルは手帳を開いた。


 ——北西方面への照会に返信あり。照会対象日の「役人転出」一件は、関所・次継立場・受入簿を同一の通行許可証番号で照合。受入簿の氏名は旧書記役と不一致。当該一件を候補から除外。


 ——三方向の現状。北方面=記録劣化により確認不能、保留。北西方面=照会対象の一件を除外。商業中継地=候補として確度一段上昇、追加照会中。


 もう一行、書き足した。


 ——「違った」と確認できたことと、「確かめられなかった」ことを同じ欄へ入れない。今、積極的に次の確認を進められるのは商業中継地だが、それだけで本人だとは言えない。


 窓の外、氷の緩んだ水路が、朝とは少し違う音を立て始めていた。


 ロイドが、二欄整理の帳面を、施錠棚へ静かに戻した。


「明日も、届かないかもしれません」


 ロイドが言った。


「届くまで、待ちます」


 ライルは答えた。


「待つことは、何もしないことではありません」


 それは、以前、ここで交わされた言葉と、同じ形をしていた。


 蝋燭の灯りの下で、ダグラスが、閉じた記憶メモの帳面をもう一度見つめていた。


「一つ、外れました」


 誰に言うでもなく、ダグラスがそう呟いた。


「確認できなかった一つは、まだ残っています。進んでいる一つも、まだ答えではない」


 だが、その声には、以前のような重さはなかった。


 外れたことも、確かめられたことの証だった。


 ミラが、明日の来訪予定を確認しながら、ふと顔を上げた。


「今日は、『違う』と書けるものが一つ増えた日ですね」


「はい」


 ロイドが言った。


「『わからない』のまま残すものも、一つあります」


「進んだ、とは言えますね」


「言えます」


 ライルは答えた。


「大きく進んだわけではありません。ですが、止まってもいません」


 ガルダの一日が、また終わろうとしていた。


 わかったことが、一つ増えた。


 わからないことは、わからないまま残した。


 その二つを同じ紙に書けるようになったこと自体が、この土地で積み上げてきた仕事だった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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