第八十九話「確度が、一段上がる」
着任三百七十一日目、朝。
水路は、まだ固く凍ったままだった。
カイが氷の厚みを竿で確かめ、去年より薄いと報告した。
「今年は、暖かい年なんでしょうか」
ミラが尋ねた。
「一年だけでは、わかりません」
ロイドが答えた。
「何年か比べて、初めて言えることです」
ミラは、それを聞いて頷き、今年の水路点検記録の備考欄に、測った場所と厚みを書き加えた。
標準項目にするかどうかは、何度か測ってから決めることにした。
官倉では、ヴェクが常設の秤を、今年最初の点検にかけていた。
「今年も、変わりなしです」
「基準分銅との差は」
「許容している範囲に収まっています」
ヴェクは、それを点検表に書き入れた。
いつも通りの、静かな朝だった。
昼前、内政調整局の正式便が到着した。
「商業中継地の商人組合から、照会への返信です」
受渡簿には、経由した継立場と受領時刻が残っている。
ロイドは封の状態を確認し、受領記録へ署名してから封書を受け取った。
ダグラスが、その場に居合わせた。
「開けますか」
ライルが尋ねた。
「はい」
ダグラスは、短く答えた。
声に、以前ほどの硬さはなかった。
ロイドが封を切る。
中には、返信書と、頁番号を明記し商人組合の認証印を付した該当箇所の写しが一枚あった。
「先に、返信を読みます」
——依頼の件、当地にて別帳原本を再確認した。
——該当頁は経年劣化により一部判読困難。認証写しでは、読めない箇所を補わず空所として示した。
——中央部に、以下の文字列を確認した。
ロイドが、認証写しを机の中央へ置いた。
そこには、前後を欠いたまま、
「……違いありませんか」
と残っていた。
先頭側は滲みで読めない。
だが、末尾の「か」までは、組合側が判読可能として写している。
部屋が、しばらく静かになった。
「これだけ、ですか」
ダグラスが尋ねた。
「判読できた文言は、ここまでです」
ロイドが答えた。
「なぜ、この部分だけ残ったんでしょうか」
ミラが尋ねた。
「組合側も理由は断定していません」
ロイドが続きを読んだ。
——当該部分は頁中央にあり、綴じ目側より滲み・擦れが少ない。劣化の差は保存状態によるものと考えられるが、原因の断定はしない。
「意図的に残された、とは書いていない」
ライルが言った。
「はい」
「『それで』に当たる部分は」
「読めていません」
「『間』の字も」
「先頭側が欠けているため、確認できません」
ダグラスは、机の上の一文を、じっと見つめた。
「私が覚えている言葉と、一致しますか」
「一致する部分がある、というのが、正確な言い方だと思います」
ロイドが、慎重に言葉を選んだ。
「『……違いありませんか』という後半だけを見れば、重なります。ですが、それより前は、確かめようがありません」
ダグラスは、引き出しから「追加記憶メモ」を収めた封筒を取り出した。
商業中継地へ追加照会を出した日に、外部の原文を見る前の記憶として書き、別に保管していたものだった。
「開けても、いいですか」
「受領時刻を先に残します」
ロイドが時刻を書き、ダグラスとライルが立ち会い欄へ署名した。
「お願いします」
封を開き、先に書かれていた一文を示した。
——それで、間違いありませんか。
「『間違いありませんか』の後半とは、重なりますね」
ミラが言った。
「はい」
ロイドが答えた。
「ただし、先頭に『間』があったことは確認できません。別の文が『違いありませんか』で終わっていた可能性も残ります」
「決めつけない、ということですね」
「はい」
ライルが頷いた。
「重なる部分があることは、事実として記録します。完全に一致すると決めることは、まだしません」
「言い回し以外に、確かめられることはありますか」
ミラが尋ねた。
「筆跡は」
「筆跡は、書き写した記帳係のものです。旅人本人の字ではありません」
ロイドが答えた。
「では、言葉の重なりだけが手がかり」
「今のところは」
ライルが言った。
「一つの手がかりを、一つの手がかりとして扱います。増やして見せることはしません」
ダグラスは、二つの文をしばらく見比べていた。
「怖いような、ほっとしたような」
ぽつりと言った。
「両方ですか」
「両方です」
ダグラスは、静かに答えた。
「近づいている気がします。ですが、近づいているだけで、着いてはいません」
「それで、十分だと思います」
ライルが言った。
「今、着いたことにする方が、危ないです」
ミラが、その言葉を静かに書き留めた。
「急いで結論を出さないことと、何もしないことは、違うんですね」
「はい」
ライルは頷いた。
「今日できることは、確度が上がったという事実を、そのまま記録することです。それ以上でも、それ以下でもありません」
ロイドが、返信の内容を照合票に書き写した。
——商業中継地、別帳原本再確認。認証写しに「……違いありませんか」の断片を確認。先頭側は判読不能。ダグラスが外部原文を見る前に残した記憶(「それで、間違いありませんか」)と後半が重なるが、完全一致は未確認。
「これで、確度は上がりましたか」
ミラが尋ねた。
「一段、上がりました」
ライルは答えた。
「候補であることは変わりません。ただ、時期と属性だけだった候補に、言葉の断片が一つ加わりました」
「次は、どうしますか」
ロイドが尋ねた。
「今すぐ原本を見に行く必要はありません」
ライルは答えた。
「向こうには、同じ宿泊記録の前後から、もう三点だけ確認をお願いします」
「三点」
「『ガルダ方面より来た元書記』という欄外注記を誰がいつ書いたか。旅人の到着日と出立日。出立時に次の行き先を示す記録が残っていないか」
「氏名そのものを、もう一度探してもらうのではなく」
「はい。今ある候補が、本当にこちらの書記役へ近づくかを確かめます」
ミラが頷いた。
「現地へ人を送るかは、その後」
「その後です」
ロイドが照合票の余白へ書いた。
——現地訪問は保留。追加照会:欄外注記の作成者・時期/宿泊期間/出立先記録の有無。
その一行は、断定でも否定でもなかった。
ただ、今の立ち位置を、そのまま示しているだけだった。
夕方、ダグラスが窓の外を見ながら、独り言のように言った。
「もし、本当にあの人だったら」
言葉を止め、また続けた。
「私は、何を言えばいいんでしょうか」
「今は、考えなくていいと思います」
ライルが答えた。
「本人かどうかも、まだわかっていません。会えるかどうかも、まだわかっていません」
「そうですね」
ダグラスは、小さく頷いた。
「わかっていないことを、わかったことにはできません」
その言葉は、以前ダグラス自身が口にした言葉と、同じ形をしていた。
ライルは、それには何も言わず、ただ頷いた。
「一つだけ、いいですか」
ダグラスが、少し間を置いて続けた。
「もし、これが違う人だったとしても」
「はい」
「今日、確かめようとしたこと自体は、無駄にはならないと思います」
「なぜ、そう思いますか」
「違うとわかることも、一つの答えだからです」
ダグラスは、静かに言った。
「今までは、答えがないことが一番怖かった。今は、少し違います」
ライルは、その言葉を黙って聞いていた。
慰めも、同意も、口にしなかった。
ただ、聞いたという事実だけが、その場に残った。
窓の外、氷の張った水路が、夕日を薄く反射していた。
ライルは手帳を開いた。
——商業中継地より正式便で返信。別帳の認証写しに「……違いありませんか」の断片を確認。ダグラスの事前記憶メモと後半が重なるが完全一致は未確認。現地訪問は保留。欄外注記の作成者・宿泊期間・出立先記録を追加照会する。
最後に、もう一行だけ書き足した。
——白紙だった場所に、初めて言葉の断片が置かれた。まだ、文にはなっていない。
三方向へ送った照会のうち、一つは確認不能のまま保留され、一つは今日、言葉の断片という形で候補の確度を一段上げた。
残る北西方面からは、まだ内容の返信が届いていない。
三つのうち、一つも欠けることなく閉じてはいなかった。
それぞれが、それぞれの速さで、少しずつ形を変えている。
ロイドが、「わかっていること・わかっていないこと」の二欄整理を取り出し、右の欄の一項目に、小さく印をつけた。
消したわけではない。
まだ左には移らない。
ただ、その項目の隣に「確度上昇、着任三百七十一日目時点」という一言を添えただけだった。
変わったことと、変わっていないことの両方が、同じ紙の上に残った。
蝋燭を消す前に、ダグラスがもう一度、二つの帳面を並べて閉じた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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