第八十八話「それぞれの、持ち場」
着任三百六十二日目、朝。
新しい年の帳面は、昨日から棚に並んでいた。
旧年度から引き継いだ案件番号が、そのまま一頁目に続いている。
新年二日目。
それ以外は、何も変わらない朝だった。
水路の見回り、官倉の点検、受付の来訪者。
いつも通りの一日が、いつも通りに始まった。
ロイドは、朝一番に受付の帳面を開き、いつもの位置にいつもの筆を置いた。
ライルが着任した頃、ロイドはまだ、書状を届ける自分の役目を疑っていた。
商会に顔を知られていることを理由に、通知の使いから外された日があった。
あの時は、自分に何ができるのかが、よくわからなかった。
今は、迷わない。
迷わないことが当たり前になっていることに、時々、自分でも驚く。
朝一番の来訪者は、ニルスだった。
「今年も、よろしくお願いします」
ニルスが、頭を軽く下げた。
「こちらこそ」
ロイドが答えた。
「土地の件、今年も『継続』のままですね」
「はい」
ロイドは、正直に言った。
「進んでいないことを、進んだように書くことはしません」
「わかっています」
ニルスは、それだけ言って窓口を離れた。
だが、去っていく背中に、以前ほどの張り詰めた空気はなかった。
納得はしていない。
それでも、腹を立てて帰る背中ではなくなっていた。
その変化に気づいたのは、ロイドだけではなかった。
一年前なら、この短いやり取りにも、ロイドの手は震えていたかもしれない。
今は、ただ淡々と、次の来訪者の記録に移った。
「今日の分、もう半分終わりました」
昼前、ミラが帳面を閉じながら言った。
「早いですね」
ロイドが答えた。
「締めの取りまとめを通してから、なんとなく手順が体に馴染んだ気がします」
ミラは、それだけ言って次の帳面を開いた。
昨日の緊張の名残は、もう顔に出ていなかった。
官倉では、ヴェクが年初の点検表を確認していた。
「今年も、この調子で」
ミラが声をかけると、ヴェクは短く頷いた。
「変わらないのが、一番です」
その言葉に、多くを付け加えなかった。
ヴェクにとって、変わらないことは怠慢ではなく、積み重ねの証だった。
補修を終えた屋根の区画を見上げ、凍結後の継ぎ目に浮きや染みがないか確かめる。
「問題ありませんか」
ミラが尋ねた。
「今のところは」
ヴェクは答えた。
「直したから終わり、ではありません。次に漏れた時、いつまでは問題なかったかがわかるようにします」
「点検を続けるんですね」
「はい」
ヴェクは、それだけ言って点検表へ日付を書き入れた。
ミラは、その背中を見ながら、採用された頃、自分がこの人の淡々とした態度に何度助けられたかを思い出していた。
誰に対しても態度を変えない人がいるというだけで、安心できることがある。
昼過ぎ、ダグラスは自分の机で、「追加記憶メモ」を収めた封筒を手に取った。
開かなかった。
商業中継地からの返事を待つ間、すでに書いた言葉を読み返せば、その言葉に自分の記憶が引っ張られるかもしれない。
「何か、思い出しましたか」
ロイドが、通りがかりに尋ねた。
「いいえ」
ダグラスは封筒を引き出しへ戻した。
「だから、今は開きません」
「届いた記録と比べる時まで」
「はい。その時に、先に書いたものと、後から届いたものを分けて見たいです」
ロイドは短く頷いた。
「その方がいいと思います」
多くを語らない、いつも通りのやり取りだった。
通りかかったミラが、軽く声をかけた。
「今年も、よろしくお願いします」
「はい」
ダグラスは、小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
それ以上の言葉はなかった。
だが、その短いやり取りを、ダグラスは以前より自然に交わせるようになっていた。
目を合わせることに、もう抵抗はなかった。
夕方、水路の見回りから戻ったカイが、執務所の入り口で足を止めた。
「今年も、よろしくお願いします」
少し照れくさそうに言う。
「こちらこそ」
ライルが答えた。
「最初に会った頃は、水路の縁で黙ってこちらを見ていましたね」
「覚えているんですか」
「記録してありますから」
カイは、それを聞いて小さく笑った。
「今は、水路の見回りに加えて、収穫期には集荷の連絡も頼まれます」
「必要な時だけ、役目が増える」
「はい。ずっと自分の役目だと思わないようにしています」
カイは、はっきりと言った。
「任された理由がわかれば、終わる時もわかります」
「一年前、水路の縁で何を考えていましたか」
ライルが尋ねた。
カイは、少し考えてから答えた。
「弟に、いい姿を見せたい。それくらいでした」
「今は」
「今も、それは変わりません」
カイは言った。
「ただ、いい姿というものの中身が、増えた気がします。水路を直すことだけじゃなく、記録すること、約束を守ること、待つこと」
「増えたのは、役目だけではなかった」
「はい」
カイは頷いた。
その言葉に、ライルは短く頷いた。
ゲオルグは、村を回った帰りに執務所へ立ち寄り、暖炉のそばで暖を取っていた。
「今年も、皆それぞれ、忙しくなりましたね」
ゲオルグが言った。
「ゲオルグさんも、仲立ちの仕事が増えました」
ミラが答えた。
「頼まれることが増えるのは、悪いことではありません」
ゲオルグは、静かに言った。
「ただ、頼られる分だけ、間違えられない場面も増えます。仲介申出の欄ができて、助かりました」
「本人同意を、先に取る仕組みですね」
「はい。一人で決めなくていい、というのは、思っていたより気が楽になるものです」
ゲオルグは、湯気の立つ茶を両手で包み、しばらく黙っていた。
「ゲオルグさんは、ここが変わってから、一番変わったのは何だと思いますか」
ミラが尋ねた。
「私自身は、あまり変わっていないと思います」
ゲオルグは、少し笑って答えた。
「変わったのは、周りです。諦めていた人が、諦めなくなった。それを見ているだけで、私は十分でした」
「見ているだけ、ではないと思います」
ミラが言った。
「仲立ちも、証言も、ゲオルグさんがいなければ進まなかった場面が、何度もありました」
ゲオルグは、それには答えず、ただ茶をもう一口飲んだ。
謙遜ではなく、本当にそう思っているのだと、ミラにはわかった。
夕刻。
執務所の内側では、ロイド、ミラ、ヴェク、ダグラスがそれぞれの仕事を閉じていた。
村の側からは、カイとゲオルグが必要な報告だけを持ってくる。
今日の仕事は、誰か一人の指示を待つことなく、それぞれの持ち場から終わっていった。
「今日も、何も届きませんでしたね」
ミラが、窓の外を見ながら言った。
「はい」
ロイドが答えた。
「届く日まで、今日のような日が続くだけです」
ライルは、それぞれの顔を見渡した。
ライルが着任した頃、窓は割れ、帳面はまともに機能していなかった。
今は、執務所の内側と村の側に、それぞれ役割を持つ人がいる。
誰か一人がすべてを知り、すべてを指示しなければ動かない形からは、確かに離れていた。
それは、ライルが一人で作った形ではなかった。
ロイドが記録の書き方を覚え、ミラが締めの取りまとめを担い、ヴェクが道具を管理し、カイとゲオルグが村と執務所をつなぎ、ダグラスが自分の過去と向き合いながら記録を支える。
その積み重ねの結果として、今日という一日が、誰か一人に頼らずに終わっていた。
手帳を開く。
――新しい年、二日目。各担当がそれぞれの持ち場で処理し、必要な確認だけをつないだ。仕事は、誰か一人の判断待ちにはならなかった。
最後に、もう一行だけ書き足した。
――待っているものは、まだ届かない。だが、待つ間の一日一日も、確かに積み重なっている。
ロイドが、灯りを一つずつ消していく。
「明日も、同じ一日ですね」
「はい」
ライルは答えた。
「同じ一日を、積み重ねます」
執務所の者たちと、村へ戻る者たちは、それぞれの帰り道へ散っていった。
誰も、大きな声で今年の抱負を語ることはなかった。
ただ、明日も同じ場所に集まることだけは、誰も疑っていなかった。
窓の外、冬の月が、水路の氷に映っていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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