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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第九章:消えた名前を、追う

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第八十七話「締め日」

 着任三百六十日目、朝。


 今日が、今年度の締め日だった。


 執務所の窓に、朝の光がまだ弱く差し込んでいる。


 ミラは、いつもより早く来ていた。


「準備、できています」


 机の上には、今年一年分の帳面が並んでいた。


 来訪記録、土地相談記録、官倉台帳、融通記録、風聞記録、原本保全記録、そして例の二欄整理。


「今年は、ミラさんに締めをお願いします」


 ロイドが言った。


「私、ですか」


「はい」


「私が、取りまとめるんですか」


「はい。各帳面の担当者には、自分の範囲を確認してもらいます。その上で、締め全体の順番と引き継ぎを、ミラさんが通して進めてください」


 ミラは、少しの間、帳面の束を見つめた。


「わかりました」


 声は、思ったより落ち着いていた。


 前回の締めは、ヴェクが中心になって進めた。


 その頃、ミラはまだこの執務所にいなかった。


 だから、締め日を最初から最後まで見るのは、今回が初めてだった。


「昨年の締めは、どなたが」


 ミラが尋ねた。


「私です」


 ヴェクが答えた。


「今年から、ミラさんに」


「なぜ、今年からなんでしょうか」


「扱う帳面も、確認項目も、前回より増えました」


 ロイドが答えた。


「一人で抱える量ではなくなった、というだけです。ヴェクさんが、劣っていたわけではありません」


「締めというのは、具体的に何をするんでしょうか」


 ミラが尋ねた。


「三つです」


 ライルが答えた。


「一つ、今年の記録に誤りがないか、最後に確認する。二つ、未解決のまま年をまたぐ案件を、来年の帳面へ番号を引き継いで記載する。三つ、今年の帳面そのものは閉じるが、処分はしない」


「処分しない、というのは」


「今年の帳面を見なければわからないことが、来年出てくるかもしれません。閉じることと、消すことは違います」


 ミラは、それを一言一句、手元の紙に書き留めた。


 朝のうちに、来訪記録から始めた。


 一件ずつ、記載漏れがないかを確かめていく。


 途中、一件だけ、日付の記入が薄れて読みにくい箇所があった。


 ミラは、原記載には手を入れず、隣の欄の日付と来訪者の証言記録を突き合わせた。


「ここ、薄れています。前後の記録から三百十二日目の可能性が高いので、判読補足欄に『推定』として根拠と一緒に残します。原記載はそのままです」


 ロイドが、その処理を横から見て頷いた。


「それで、いいと思います」


「決めつけていませんか」


 ミラが、少し不安げに尋ねた。


「決めつけていません」


 ロイドが答えた。


「推定と書いてあります。確定とは書いていません」


 ミラは、小さく息をついた。


 昼前、官倉。


「今年の数、揃っています」


 ヴェクが、在庫記録の最終欄に数字を書き入れた。


「受入期に借りたギデオンの秤も、返却確認まで終わっています」


「借用記録は、ここで閉じますか」


 ミラが尋ねた。


「今年分は閉じます」


 ヴェクが答えた。


「来年も足りないなら、増設するか、もう一度借りるか。その時の受入量を見て決めます」


 ミラは、返却日と状態確認の欄を確かめてから、今年分の借用記録を閉じた。


「官倉の記録で、来年へ引き継ぐものはありますか」


 ミラが尋ねた。


「屋根の補修箇所の定期確認です」


 ヴェクが言った。


「修繕そのものは終わっています。ただ、雨の後と凍結後に再発がないかを見る運用は、来年も続けます」


「終わった工事でも、点検は終わらない」


「はい。直ったことと、もう見なくていいことは別です」


 ミラは、次年度の点検予定へそのまま引き継いだ。


 昼過ぎ、カイとゲオルグが水路の年末点検を終えて戻ってきた。


「凍結、今のところ異常なしです」


 ゲオルグが報告した。


「来年の凍結対策、今年の記録を見て早めに動けそうです」


 カイが言った。


 ミラは、二人の報告を来訪記録とは別の欄に書き分けた。


「水路の記録は、こちらでいいですか」


 ロイドに確認する。


「いいと思います」


 午後の早い時間、融通記録と風聞記録の締めに進んだ。


 融通記録は、今年一年で件数が着実に増えていた。


 ニルスとカール家の麦と労力の交換から始まったこの帳面が、今では毎月数件のやり取りを記録している。


「仲介申出の欄、今年新しく作った分ですね」


 ミラが確認した。


「ゲオルグさんが、仲立ちを頼まれる機会が増えたので」


 ロイドが答えた。


「本人同意を前提にする、という運用でしたね」


「はい。相手や条件を、仲介者が勝手に決めないようにするためです」


 ミラは、その運用の趣旨も欄外に書き添えた。


 風聞記録は、今年は記載が少なかった。


「噂そのものが、少なくなっているんでしょうか」


 ミラが尋ねた。


「それとも」


「わかりません」


 ロイドが正直に答えた。


「噂が減ったのか、記録に値する噂がなくなったのか、あるいは私たちが気づいていないだけなのか。今の材料では、どれとも言えません」


「わからないことも、書いておきますか」


「書いておいてください」


 ミラは、風聞記録の最終頁に「今年度、記載件数減少。理由未確認」と一行加えた。


 午後、ダグラスが自分の担当分――土地相談記録と原本保全記録の年間確認――を終え、ミラの机に届けに来た。


「一件だけ、確認をお願いします」


 ダグラスが言った。


「ニルスさんの土地の件、暫定使用の記載は今年も『継続』のままです。名義の最終判断は、まだ出ていません」


「来年の帳面にも、同じ形で引き継ぎます」


 ミラが答えた。


「それでいいと思います」


 ダグラスは頷き、静かに自分の席へ戻った。


 夕方近く、最後に残ったのが、書記役とあの方に関する二欄整理だった。


 ミラは、それを開き、しばらく手を止めた。


「これも、引き継ぎますか」


 ライルに尋ねた。


「引き継ぎます」


「わかっていることの欄も、わかっていないことの欄も、両方」


「両方です」


 ライルは言った。


「今年中に片付かなかったことを、片付いたことにはしません」


 ミラは、新しい帳面の一頁目に、旧年度からの番号をそのまま書き写した。


 右の欄には、まだ多くの項目が残っている。


 左の欄は、今年一年で少しずつ増えた。


 増えた分だけ、右が減ったわけではない。


 それでも、空欄のままではなかった。


 日が傾く頃、すべての帳面の締めが終わった。


「終わりました」


 ミラが、机の上に並んだ帳面を見渡した。


「お疲れさまでした」


 ライルが言った。


「取りまとめまで、通せましたか」


「はい。二か所は担当の方に確認しましたが、止めずに最後まで進められました」


 ロイドが、机の上の帳面を一冊ずつ数えた。


「対象の帳面、すべて締まっています」


「前回より、増えていますよね」


 ミラが尋ねた。


「増えています」


 ロイドが答えた。


「ただ、担当も増えました。帳面が増えたことだけを、負担が増えたと数える必要はありません」


「それで十分です」


 ライルは言った。


「取りまとめることと、全部を一人で判断することは違います。確認は、間違いを防ぐための手順です」


 ミラは、少しだけ目を伏せてから、また顔を上げた。


「私が、ここへ来た頃は」


 ミラは、少し言葉を選んだ。


「緊張しなくていいと言われても、ずっと緊張していました」


「今日は」


「今日も、緊張しています」


 ミラは、正直に言った。


「ただ、去年とは違う緊張の仕方です」


「違う、というのは」


 ライルが尋ねた。


「来た頃は、失敗しないか、という緊張でした」


 ミラは、少し考えながら言葉を選んだ。


「今日は、この一年分の記録に、恥ずかしいところがないか、という緊張です」


「それは、成長だと思います」


 ロイドが言った。


「失敗を恐れる緊張と、責任を持つ緊張は、形は似ていても、中身が違います」


 ミラは、その言葉を静かに受け止めた。


 ロイドが、小さく笑った。


「それで、十分だと思います」


 ヴェクも、官倉の帳面を運びながら短く頷いた。


「私も、最初に締めを任された時は、似たようなことを思いました」


「ヴェクさんも、ですか」


 ミラが、意外そうに尋ねた。


「最初に責任を持つ時は、だいたいそうです」


 ヴェクは、それだけ言って官倉へ戻っていった。


 窓の外、水路の音が、今日も変わらず聞こえていた。


 ライルは手帳を開いた。


 ――今年度分、締め完了。未解決案件は全件、来年度帳面へ番号を引き継いで記載。旧帳面は処分せず保管。取りまとめ担当:ミラ(初回)。


 最後に、もう一行だけ書き足した。


 ――一年前、この帳面はまだなかった。今、ここにある帳面の数だけ、積み重ねたものがある。


 商業中継地からの返事は、今日もまだ届いていない。


 届かないまま年をまたぐことは、最初から想定していた。


 それでも、待つことをやめる理由にはならなかった。


 来年の一頁目には、今年からの続きが、そのまま書き写されている。


 途切れてはいない。


 ただ、まだ終わってもいない。


 蝋燭を消す前に、ミラが最後にもう一度、閉じたばかりの今年度の帳面の表紙を、指先でそっとなぞった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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