第八十七話「締め日」
着任三百六十日目、朝。
今日が、今年度の締め日だった。
執務所の窓に、朝の光がまだ弱く差し込んでいる。
ミラは、いつもより早く来ていた。
「準備、できています」
机の上には、今年一年分の帳面が並んでいた。
来訪記録、土地相談記録、官倉台帳、融通記録、風聞記録、原本保全記録、そして例の二欄整理。
「今年は、ミラさんに締めをお願いします」
ロイドが言った。
「私、ですか」
「はい」
「私が、取りまとめるんですか」
「はい。各帳面の担当者には、自分の範囲を確認してもらいます。その上で、締め全体の順番と引き継ぎを、ミラさんが通して進めてください」
ミラは、少しの間、帳面の束を見つめた。
「わかりました」
声は、思ったより落ち着いていた。
前回の締めは、ヴェクが中心になって進めた。
その頃、ミラはまだこの執務所にいなかった。
だから、締め日を最初から最後まで見るのは、今回が初めてだった。
「昨年の締めは、どなたが」
ミラが尋ねた。
「私です」
ヴェクが答えた。
「今年から、ミラさんに」
「なぜ、今年からなんでしょうか」
「扱う帳面も、確認項目も、前回より増えました」
ロイドが答えた。
「一人で抱える量ではなくなった、というだけです。ヴェクさんが、劣っていたわけではありません」
「締めというのは、具体的に何をするんでしょうか」
ミラが尋ねた。
「三つです」
ライルが答えた。
「一つ、今年の記録に誤りがないか、最後に確認する。二つ、未解決のまま年をまたぐ案件を、来年の帳面へ番号を引き継いで記載する。三つ、今年の帳面そのものは閉じるが、処分はしない」
「処分しない、というのは」
「今年の帳面を見なければわからないことが、来年出てくるかもしれません。閉じることと、消すことは違います」
ミラは、それを一言一句、手元の紙に書き留めた。
朝のうちに、来訪記録から始めた。
一件ずつ、記載漏れがないかを確かめていく。
途中、一件だけ、日付の記入が薄れて読みにくい箇所があった。
ミラは、原記載には手を入れず、隣の欄の日付と来訪者の証言記録を突き合わせた。
「ここ、薄れています。前後の記録から三百十二日目の可能性が高いので、判読補足欄に『推定』として根拠と一緒に残します。原記載はそのままです」
ロイドが、その処理を横から見て頷いた。
「それで、いいと思います」
「決めつけていませんか」
ミラが、少し不安げに尋ねた。
「決めつけていません」
ロイドが答えた。
「推定と書いてあります。確定とは書いていません」
ミラは、小さく息をついた。
昼前、官倉。
「今年の数、揃っています」
ヴェクが、在庫記録の最終欄に数字を書き入れた。
「受入期に借りたギデオンの秤も、返却確認まで終わっています」
「借用記録は、ここで閉じますか」
ミラが尋ねた。
「今年分は閉じます」
ヴェクが答えた。
「来年も足りないなら、増設するか、もう一度借りるか。その時の受入量を見て決めます」
ミラは、返却日と状態確認の欄を確かめてから、今年分の借用記録を閉じた。
「官倉の記録で、来年へ引き継ぐものはありますか」
ミラが尋ねた。
「屋根の補修箇所の定期確認です」
ヴェクが言った。
「修繕そのものは終わっています。ただ、雨の後と凍結後に再発がないかを見る運用は、来年も続けます」
「終わった工事でも、点検は終わらない」
「はい。直ったことと、もう見なくていいことは別です」
ミラは、次年度の点検予定へそのまま引き継いだ。
昼過ぎ、カイとゲオルグが水路の年末点検を終えて戻ってきた。
「凍結、今のところ異常なしです」
ゲオルグが報告した。
「来年の凍結対策、今年の記録を見て早めに動けそうです」
カイが言った。
ミラは、二人の報告を来訪記録とは別の欄に書き分けた。
「水路の記録は、こちらでいいですか」
ロイドに確認する。
「いいと思います」
午後の早い時間、融通記録と風聞記録の締めに進んだ。
融通記録は、今年一年で件数が着実に増えていた。
ニルスとカール家の麦と労力の交換から始まったこの帳面が、今では毎月数件のやり取りを記録している。
「仲介申出の欄、今年新しく作った分ですね」
ミラが確認した。
「ゲオルグさんが、仲立ちを頼まれる機会が増えたので」
ロイドが答えた。
「本人同意を前提にする、という運用でしたね」
「はい。相手や条件を、仲介者が勝手に決めないようにするためです」
ミラは、その運用の趣旨も欄外に書き添えた。
風聞記録は、今年は記載が少なかった。
「噂そのものが、少なくなっているんでしょうか」
ミラが尋ねた。
「それとも」
「わかりません」
ロイドが正直に答えた。
「噂が減ったのか、記録に値する噂がなくなったのか、あるいは私たちが気づいていないだけなのか。今の材料では、どれとも言えません」
「わからないことも、書いておきますか」
「書いておいてください」
ミラは、風聞記録の最終頁に「今年度、記載件数減少。理由未確認」と一行加えた。
午後、ダグラスが自分の担当分――土地相談記録と原本保全記録の年間確認――を終え、ミラの机に届けに来た。
「一件だけ、確認をお願いします」
ダグラスが言った。
「ニルスさんの土地の件、暫定使用の記載は今年も『継続』のままです。名義の最終判断は、まだ出ていません」
「来年の帳面にも、同じ形で引き継ぎます」
ミラが答えた。
「それでいいと思います」
ダグラスは頷き、静かに自分の席へ戻った。
夕方近く、最後に残ったのが、書記役とあの方に関する二欄整理だった。
ミラは、それを開き、しばらく手を止めた。
「これも、引き継ぎますか」
ライルに尋ねた。
「引き継ぎます」
「わかっていることの欄も、わかっていないことの欄も、両方」
「両方です」
ライルは言った。
「今年中に片付かなかったことを、片付いたことにはしません」
ミラは、新しい帳面の一頁目に、旧年度からの番号をそのまま書き写した。
右の欄には、まだ多くの項目が残っている。
左の欄は、今年一年で少しずつ増えた。
増えた分だけ、右が減ったわけではない。
それでも、空欄のままではなかった。
日が傾く頃、すべての帳面の締めが終わった。
「終わりました」
ミラが、机の上に並んだ帳面を見渡した。
「お疲れさまでした」
ライルが言った。
「取りまとめまで、通せましたか」
「はい。二か所は担当の方に確認しましたが、止めずに最後まで進められました」
ロイドが、机の上の帳面を一冊ずつ数えた。
「対象の帳面、すべて締まっています」
「前回より、増えていますよね」
ミラが尋ねた。
「増えています」
ロイドが答えた。
「ただ、担当も増えました。帳面が増えたことだけを、負担が増えたと数える必要はありません」
「それで十分です」
ライルは言った。
「取りまとめることと、全部を一人で判断することは違います。確認は、間違いを防ぐための手順です」
ミラは、少しだけ目を伏せてから、また顔を上げた。
「私が、ここへ来た頃は」
ミラは、少し言葉を選んだ。
「緊張しなくていいと言われても、ずっと緊張していました」
「今日は」
「今日も、緊張しています」
ミラは、正直に言った。
「ただ、去年とは違う緊張の仕方です」
「違う、というのは」
ライルが尋ねた。
「来た頃は、失敗しないか、という緊張でした」
ミラは、少し考えながら言葉を選んだ。
「今日は、この一年分の記録に、恥ずかしいところがないか、という緊張です」
「それは、成長だと思います」
ロイドが言った。
「失敗を恐れる緊張と、責任を持つ緊張は、形は似ていても、中身が違います」
ミラは、その言葉を静かに受け止めた。
ロイドが、小さく笑った。
「それで、十分だと思います」
ヴェクも、官倉の帳面を運びながら短く頷いた。
「私も、最初に締めを任された時は、似たようなことを思いました」
「ヴェクさんも、ですか」
ミラが、意外そうに尋ねた。
「最初に責任を持つ時は、だいたいそうです」
ヴェクは、それだけ言って官倉へ戻っていった。
窓の外、水路の音が、今日も変わらず聞こえていた。
ライルは手帳を開いた。
――今年度分、締め完了。未解決案件は全件、来年度帳面へ番号を引き継いで記載。旧帳面は処分せず保管。取りまとめ担当:ミラ(初回)。
最後に、もう一行だけ書き足した。
――一年前、この帳面はまだなかった。今、ここにある帳面の数だけ、積み重ねたものがある。
商業中継地からの返事は、今日もまだ届いていない。
届かないまま年をまたぐことは、最初から想定していた。
それでも、待つことをやめる理由にはならなかった。
来年の一頁目には、今年からの続きが、そのまま書き写されている。
途切れてはいない。
ただ、まだ終わってもいない。
蝋燭を消す前に、ミラが最後にもう一度、閉じたばかりの今年度の帳面の表紙を、指先でそっとなぞった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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