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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第九章:消えた名前を、追う

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第八十六話「今、わかっていること」

 着任三百二十九日目、朝。


 水路はほとんど凍りつき、外は白く乾いた冬の空気に覆われていた。


 執務所の中は、いつも通り暖かかった。


 ミラが暖炉に薪を足しながら、来訪者名簿の表紙を新しいものに替えていた。


「今年の分は、もう綴じてしまいますか」


「締め日までは、このままです」


 ライルは答えた。


「未解決案件が残っていても、名簿は期間で閉じます。次の綴りへ案件番号を引き継げば、終わるまで古い名簿を開け続ける必要はありません」


「わかりました」


 ミラは、表紙を棚へ戻し、代わりに古い名簿の続きを机に広げた。


「照会状、書き終わりました」


 ロイドが、一枚の書状をライルの前に置いた。


 商業中継地の商人組合宛て、追加の照会状だった。


 文面には、前回の返信への礼と、二点だけの依頼が記されていた。


 ——別帳の該当箇所を現地で再確認し、「毎回ほぼ同じ言い回し」と要約された元の記載に、具体的文言が残っているか確認いただきたい。


 ——具体的文言が残っている場合、頁番号を明記した認証写しを提供いただきたい。


「現地に行く、とは書きませんでした」


 ロイドが言った。


「まず、向こうで原文を再確認してもらいます。原本そのものを動かす必要はありません」


「順番として、正しいと思います」


 ライルは頷いた。


「具体的な言葉が残っているかどうかで、次に確かめることが変わります」


「もし、見せてもらえなかったら」


「その時は、その時に考えます」


 ライルは言った。


「先に断られた場合の言い訳を用意するより、まず尋ねることが先です」


「現地確認という選択肢は」


 ロイドが尋ねた。


「捨ててはいません」


 ライルは答えた。


「ただ、今この段階で人を送るのは、順番として早いと思います。原本の文言を見てから、行く必要があるかどうかを判断します」


「行くとしたら、誰が」


「まだ、決めていません」


 ライルは言った。


「決める段階になったら、決めます。今日は、そこまで考えません」


 ロイドは、その言葉に頷き、封をした。


「宛先は、前回と同じ担当者宛てで」


「はい。担当者が変わっていれば、そちらで振り分けてもらいます」


 ロイドが、宛名を丁寧に書き入れた。


 筆先が乱れることは、もうなかった。


 この一年で、何十通もの書状を、同じ丁寧さで書き続けてきた結果だった。


「私にも、何か手伝えることがあれば」


 ダグラスが、静かに申し出た。


「照会の内容そのものには、関わりません」


 ライルは答えた。


「ただ、認証写しが届いた時に備えて、当時の言い回しについて、思い出せる範囲を別紙に書いておいてください」


「今すぐ、確かめる材料としてではなく」


「はい。向こうの文言を見る前に、こちらの記憶を固定しておくためです。後から合わせて思い出したことにしないように」


「わかりました」


 ダグラスは、少し考えてから続けた。


「先日話した場面以外にも、思い出せることがあるかもしれません。急がずに、書き出してみます」


「急がなくて、構いません」


 ライルは言った。


「思い出せないことを、無理に埋めないでください。それだけ、お願いします」


「わかっています」


 ダグラスは、小さく笑った。


「もう、何度も言われましたから」


 その笑い方には、以前より、力みが少なかった。


 ダグラスは頷き、自分の机へ戻っていった。


 昼前、水路の点検から戻ったカイとゲオルグが、凍結に大きな変化がないことを報告した。


「前の冬支度の時より、落ち着いていますね」


 ゲオルグが言った。


「準備を早くした分だけ、慌てずに済んでいます」


 カイが答えた。


 特別なことは、何も起きなかった。


 それが、今のガルダの日常だった。


 昼過ぎ、監査室からの使者が到着した。


「広域照合の経過報告です」


 ロイドが受領記録へ署名し、封を開いた。


 文面は簡潔だった。


 ——広域照合について、続報。確認できた記載不備の件数は、十に届かない範囲にとどまる見込みである。ただし調査は継続中であり、この数字が最終のものとは限らない。地域名は依然として開示を差し控える。


「十に届かない」


 ロイドが繰り返した。


「多いと見るべきか、少ないと見るべきか」


「どちらとも、まだ言えません」


 ライルは答えた。


「一つの土地に一件ずつなら、十に届かない数の土地が関わっているということです。一つの土地に複数件あるなら、関わる土地はもっと少ないかもしれません」


「数字だけでは、広がりの形がわからない」


「はい。範囲がわかっても、地図にはなりません」


「なぜ、地域名はまだ出ないんでしょうか」


 ミラが、遠慮がちに尋ねた。


「理由は、この文面には書かれていません」


 ライルは答えた。


「調査途中だからかもしれない。関係者への配慮かもしれない。そこは推測しません。今受け取ったのは、件数の幅だけです」


「早合点した方が、動きやすいこともあります」


「動きやすさより、正しさを優先する。それは、こちらも同じやり方です」


 ミラは、それに小さく頷いた。


「これまでの正式報告と、同じ書き方ですね」


 ロイドが言った。


「はい」


 ライルも頷いた。


「確認できた範囲だけを書いています」


 ロイドは、それを照合票に書き加えた。


 ——広域照合、確認件数は十未満の見込み(継続中、最終ではない)。地域名は非開示。


「今日は、いい機会かもしれません」


 ロイドが言った。


「今、わかっていることを、一度整理しませんか」


「お願いします」


 ライルは頷いた。


 ロイドが、大きな紙を広げ、二つの欄を作った。


 左に「わかっていること」、右に「わかっていないこと」。


「一つずつ、確認しながら書きます」


 ロイドが言った。


「異論があれば、その場で言ってください」


「わかりました」


 ライルは、椅子を少し引いて座り直した。


「まず、辞令書の余白印から」


 ロイドが言った。


「旧資料の印影と、主要な特徴が一致する。同系統意匠の可能性が高い」


「はい」


「旧資料では、その意匠が正本保全・写し別置・別経路照合の指示と併記されている」


「そこまでが、確認できたことです」


 ライルが答えた。


「『文書保全の印』と用途を一つに決めることも、辞令書に同じ目的で押されたと決めることも、まだできません」


 ロイドが、その通りに書き分けていった。


「次に、『鍵』という呼び名」


「ダグラスさんは『鍵は、もう三年目だ』と聞いたと証言している。旧資料には『鍵、二年目。交代未了』という一例がある」


「同じ呼称・同じ役目かどうかは」


「わかっていません」


 一つずつ、確認しながら進んでいく作業だった。


 急ぐ理由はなかった。


 ロイドが、一つずつ書き込んでいった。


 わかっていること——辞令書の余白印は、アルノが持参した旧資料の印影と主要特徴が一致し、同系統意匠の可能性が高い。旧資料では、その意匠が正本保全・写し別置・別経路照合の指示と併記されている。ダグラスは「鍵は、もう三年目だ」と聞いたと証言し、旧資料には「鍵、二年目。交代未了」という一例がある。前任者は記録を残そうとしていた資料があり、その後執務所からいなくなった。人事綴りには「病没」とあるが、確認者署名はない。書記役は在籍最終月まで給金記録があり、通行許可証の発行索引にも氏名・発行日がある一方、対応する控えは現綴りで未発見。商業中継地には、同時期に「ガルダ方面より来た元書記」と注記された旅人の記録があり、氏名欄は水損で判読不能。同じ宿泊日を参照する別帳には「毎回ほぼ同じ言い回しで確認した」とあるが、具体的文言は未確認。監査室の広域照合では、複数地域で同種の記載不備を確認中で、件数は十未満の見込みと報告されている。


 わかっていないこと——余白印を辞令へ付した人物・時点・目的。「鍵」が具体的に誰・何を指すのか、旧資料の「鍵」とダグラスの証言が同じ用例か。前任者が本当に死亡したのか、「病没」記録がどう作られたのか。書記役が実際にどこへ移動したのか、現在どこにいるのか。商業中継地の旅人が書記役本人か、その別帳の具体的文言がダグラスの記憶と一致するか。広域照合の正確な件数、地域名、既知のガルダ・フェルン以外を含むか。そして、これらの事象に共通原因があるのか。


「並べると、わかっていないことの方が、まだ多いですね」


 ロイドが言った。


「はい」


 ライルは、その紙をしばらく見つめた。


「ですが、着任した頃は、わかっていることの欄自体を作れませんでした」


「それは、そうですね」


 ロイドは、少しだけ表情を緩めた。


「今日、追加照会を出しました。商業中継地の返事次第で、右の欄から左の欄へ、何か移るかもしれません」


「移らないかもしれません」


「それも、確かめてみないとわかりません」


 ミラが、書き上がった紙を覗き込んだ。


「こうして並べると、私が知らないことも多いです」


「知らなくて当然のことも、多いです」


 ライルは言った。


「全部を一人で抱える必要はありません。今、誰が何を知っているかが、はっきりしていれば、それで十分です」


「はっきりさせるために、この紙があるんですね」


「はい」


 ダグラスが、その紙を横から見て、静かに言った。


「私が知っていることも、いくつかは、まだ右側にあります」


「思い出した時に、教えてください」


 ライルは言った。


「急かしません」


 ダグラスは頷き、新しい日付の「追加記憶メモ」を一枚取り、自分の机へ戻った。


 すでに受領・封印した元の記憶メモへ、後から書き足すことはしない。


 夕方。


 ロイドが向かいの机で今日の受領記録を閉じる間に、ライルは手帳を開いた。


 ——本日、商業中継地へ追加照会を発送。特記帳該当箇所の現地再確認と、具体的文言が残る場合の認証写し提供を依頼。現地確認は返答後に判断。監査室より続報、広域照合の件数は十未満の見込み、地域名は非開示。わかっていること・わかっていないことを一覧にまとめた。


 最後に、もう一行だけ書き足した。


 ——道は、まだ一本に絞られていない。だが、今わかっていることを、今日、初めて一枚の紙の上に並べられた。それだけでも、進んだと言っていい。


 二欄の紙は、内部照合用の資料として番号を付け、施錠棚へ戻すことにした。


 明日以降、確認のたびに取り出し、変更履歴を残す。


 右の欄の項目が一つ左へ移る時は、旧版を残したまま、日付を付けた新版を作る。


 昨日まで何が未確認だったのかも、消さない。


 全部が左へ移る日は、まだ遠い。


 それでも、今日という日に、境界線がどこにあるかを、はっきりさせられたことは確かだった。


 窓の外、凍りついた水路が、月明かりの下で静かに白く光っていた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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