第八十五話「癖、という手がかり」
着任三百二十六日目、朝。
執務所の奥の小部屋に、ライル・ロイド・ダグラスの三人が集まった。
受付の一次対応はミラ。
ヴェクは、いつも通り官倉を見ている。
用件が重なれば待ってもらう。
この確認のために、別の仕事まで崩さないことにしていた。
机の上には、商業中継地からの返信と、受領済みの記憶メモから該当箇所だけを転記した照合用写しが並んでいた。
元の記憶メモは、封をしたまま保管している。
「昨日お伝えした通りです」
ライルが言った。
「確認しておきたい記録が届きました。結論を急がず、順番に見ていきます」
「はい」
ダグラスは、短く答えた。
声は落ち着いていたが、膝の上の手は、いつもより固く組まれていた。
「今日、この確認をロイドとダグラスさんに絞ったのには、理由があります」
ライルは言った。
「これは、まだ推測の段階です。人数が多い場では、推測が事実のように広がりやすくなります」
「配慮、ありがとうございます」
ダグラスは、頭を下げた。
「配慮というより、手順です」
ライルは言った。
「広めるべき段階になったら、広めます。今は、その段階ではありません」
窓の外、朝の光がまだ弱かった。
小部屋には、蝋燭が一本、灯されているだけだった。
ロイドが、返信をもう一度、声に出して読んだ。
——照会された氏名そのものは確認できず。ただし、同時期の宿泊台帳に「ガルダ方面より来た元書記」と欄外注記された旅人あり。氏名欄は水損で判読不能。
——同じ宿泊日を参照する別帳に「宿泊料の勘定を確認する際、毎回ほぼ同じ言い回しで確認した」との記載あり。具体的文言は残っていない。
「これだけです」
ロイドが言った。
「言い方そのものは、書き残されていません」
「要約、ということですね」
ダグラスが確認した。
「そうです」
ライルが答えた。
「記帳係が、実際に聞いた言葉をそのまま写したのではなく、後から『こういう癖があった』とまとめて書いた可能性が高いです」
「では、まだ、何も証明されていない」
「はい。今のところは、材料が一つ増えただけです」
ダグラスは、それを聞いて小さく頷いた。
顔には出さなかったが、肩の力がわずかに抜けたのが見えた。
「ダグラスさんに、確かめたいことがあります」
ロイドが言った。
「あの方の下で書記役をしていた人の癖——それを、もう一度、できるだけ細かく話していただけますか」
「言葉だけ、ではなく」
「はい。どんな時に、どんな調子で、どんな場面で」
ダグラスは、目を閉じ、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと語り始めた。
「数字を確かめる時でした。金額でも、日付でも、数でも」
「決まって、同じ言い方を」
「はい。『それで、間違いありませんか』——語尾を上げず、感情も乗せず。まるで、決まった手順を踏むように」
「相手が誰でも」
「はい。相手が上役でも、農民でも、変わりませんでした」
「温かみは」
ライルが尋ねた。
「なかったと思います」
ダグラスは答えた。
「冷たいわけではありません。ただ、確認そのものが、目的でした。相手の気持ちを気遣う言葉ではなく——事実を、事実のまま留め置くための言葉でした」
「何か、具体的に覚えている場面はありますか」
ロイドが尋ねた。
「一度だけ、覚えています」
ダグラスは、少し間を置いてから話した。
「村の老人が、麦の量を数え間違えて、少し多く申告したことがありました。あの人は、老人の顔を見ずに帳面だけを見て、『それで、間違いありませんか』と聞きました。老人は慌てて訂正しました。責めるでも、庇うでもなく、ただ確認しただけでした」
「その時、何を思いましたか」
「怖い、と思いました」
ダグラスは言った。
「感情がないわけではないのに、感情を挟まない人だと感じました。当時の私は、それを冷酷だとは思いませんでした。ただ、正しいと思っていました」
「今は」
「今は、わかりません。正しさと、冷たさは、思っていたより近いのかもしれません」
ロイドが、それを丁寧に書き取った。
「宿泊料の勘定を確認する際、というのは」
ロイドが言った。
「まさに、金額を確かめる場面です。ダグラスさんの記憶と、状況としては重なります」
「重なる、というだけで」
ダグラスが尋ねた。
「はい」
ライルは頷いた。
「状況が似ていることと、言葉が同じであることは、まだ別です。ですが、少なくとも、この記録が『あり得ない場面』ではないことは確かめられました」
ダグラスは、しばらく机の上の紙を見つめていた。
「正直に、言ってもいいでしょうか」
「どうぞ」
「最初、届いたと聞いた時、少しだけ期待しました」
ダグラスは言った。
「見つかったのかもしれない、と」
「今は」
「候補かもしれない、までです」
ダグラスは、机の上の返書を見た。
「ガルダ方面から来た元書記。時期も近い。そこまでは、私にも重く見えます」
「はい」
ライルは頷いた。
「ですが、話し方については」
ダグラスが続ける。
「『毎回ほぼ同じ言い回し』としか残っていない。私が覚えている言葉と同じかどうかは、まだ比べられない」
「その通りです」
ロイドが答えた。
「ですから、今の材料だけで『同じ癖だった』とは記録しません」
「まして、誰かに教わった作法だった、とも」
ライルが言った。
「はい」
ダグラスは少し息を吐いた。
「そこは、前と変わらないんですね」
「変わりません」
ライルは答えた。
「増えたのは、商業中継地に照合候補が一人出たことです。言い回しの原文が残っていれば、その時初めて比較できます」
「原文が、なければ」
「候補のままです」
部屋が静かになった。
怖さが消えたわけではない。
だが、怖さの理由まで、こちらで作る必要はなかった。
「今日の結論を、まとめます」
ロイドが言った。
「商業中継地の旅人は、時期と『ガルダ方面から来た元書記』という注記から、追加照合候補とする。話し方については、具体的文言がないため一致判定不能」
「優先する理由は、癖ではない」
ダグラスが確認した。
「はい」
ライルは答えた。
「候補者の属性が、こちらの書記役と重なるからです。癖の記載は、原文照会をする理由の一つに留めます」
「優先する、というのは、他を捨てるという意味ですか」
ダグラスが尋ねた。
「いいえ」
ライルは首を振った。
「限られた人手と時間を、どこから使うかという順番の話です。北方面は確認不能のまま保留し、北西方面は内容の返信を待ちます。どちらも、閉じてはいません」
「では、次に動くのは」
ダグラスが尋ねた。
「商業中継地への、追加の照会です」
ライルは言った。
「今日ではなく、明日、もう少し詰めて考えます」
「どんな内容を、追加するんでしょうか」
ダグラスが尋ねた。
「今の返書は、現地側の要約でした」
ロイドが答えた。
「まず、特記帳の該当箇所を現地で再確認してもらい、具体的文言が残っているか尋ねます。残っているなら、頁番号と、認証した写しの提供を依頼します」
「原本そのものは」
「必要性が出てからです。最初から動かしません」
「見せてもらえるでしょうか」
「わかりません」
ライルは正直に言った。
「ですが、尋ねなければ、わからないままです」
ダグラスは、頷いた。
立ち上がる前に、もう一度だけ言った。
「今日、ここに呼んでいただいて、良かったです」
「なぜですか」
「一人で抱えていたら、この怖さに、気づけなかったと思います」
ダグラスは言った。
「一人で抱えず、別の目で確かめてもらうから、見えるものがあります」
ライルは、それに小さく頷いた。
三人は、それぞれの持ち場へ戻っていった。
受付に戻ったダグラスを見て、ミラが軽く尋ねた。
「大丈夫でしたか」
「大丈夫、というのは、まだわかりません」
ダグラスは答えた。
「ですが、悪い一日ではありませんでした」
ミラは、それ以上聞かず、いつも通り受付の帳面を差し出した。
ダグラスは、その帳面を受け取り、いつも通りの手つきで確認を始めた。
声は、まだ少しだけ硬さを残していたが、手の動きは乱れていなかった。
夕方。
ロイドが向かいの机で照合記録を閉じる間に、ライルは手帳を開いた。
——商業中継地の旅人、時期・「ガルダ方面から来た元書記」の注記により追加照合候補。具体的な言い回しは未確認。特記帳の原文照会を行う。
最後に、もう一行だけ書き足した。
——「癖」という要約だけでは、人は特定できない。次に確かめるのは、要約の元になった言葉。
窓の外、水路は音もなく凍っていた。
昨日、白紙と手がかりを並べた時、どちらも同じ重さだと思っていた。
今日、その重さは、わずかに傾いた。
ただし、傾いた先が正しい方角かどうかは、まだ誰にもわからない。
ライルは、蝋燭の火を見つめながら、しばらく動かなかった。
ダグラスの怖さを、代わりに引き受けることはできない。
だが、彼が一人で記憶を抱えなくて済むよう、照合できる形へ変えることはできる。
記録ができるのは、そこまでだった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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