第八十四話「確認不能と、手がかりと」
着任三百二十日目、朝。
水路の水面に、初氷の薄い膜が張っていた。
カイが竹の棒でそっと割り、流れを確かめる。
「凍りますね、そろそろ」
「前に凍結対策を始めた時より、十日ほど早いです」
ゲオルグが答えた。
「凍結対策の順番は、前回の記録通りで」
ライルが確認する。
「はい。出口側から順に、堰板を外して水を抜きます」
カイが即答した。
前の冬支度で、一度経験した作業だった。
作業前に確認表へ目を通した後は、誰も紙を持って歩かなくても動けていた。
覚えているから紙が要らないのではない。
最初に同じ順番を確認したから、現場では迷わず動ける。
ニルスが、畑の様子を見に来たついでに立ち寄った。
「今年は、水路が凍っても、心配しなくていいんですね」
「一度、やっていますから」
カイが答えた。
「一度やったことは、二度目は怖くない。そういうものですか」
ニルスが尋ねた。
「怖くはあります」
カイが言った。
「ただ、何をすればいいかは、わかっています」
ニルスは、その答えに小さく笑い、水路沿いを歩いていった。
「照会の方は」
ゲオルグが、水路の作業の合間に尋ねた。
「まだ、届いていません」
ライルは答えた。
「一番近い先からは、届いたと聞きましたが」
「届いたのは、受け取ったという知らせだけです。中身は、まだ来ていません」
ゲオルグは、それ以上聞かなかった。
待つことに慣れてきているのは、村の側も同じだった。
昼前、官倉。
「ギデオンさんの秤、今年分の借用記録ができました」
ミラが一枚の紙を差し出した。
借用期間。
返却予定日。
破損時の扱い。
使用前後の点検方法。
今年の受入が終われば、いったん返す。
来年も借りるのか、官倉側で秤を増やすのかは、その後に決める。
「これで、少なくとも今年の扱いでは悩まなくて済みます」
ヴェクが言った。
「悩まなくて済む分、他のことに悩めます」
ライルが答えた。
ヴェクは、それには何も言わず、小さく頷いただけだった。
「この書式、秤以外にも使えますか」
ミラが尋ねた。
「項目は流用できます」
ライルは答えた。
「ただし、道具によって点検方法は違います。借用期間、返却、破損時の扱いは共通欄にして、点検欄だけ道具ごとに変えましょう」
「では、共通様式の案として残します」
ミラは、そのまま帳簿総目録の作業欄へ一項目を書き加えた。
「大きな話は、まだ動いていないんですか」
ヴェクが、帳面から顔を上げずに尋ねた。
「動いています」
ライルは答えた。
「動いていることと、見える形になることは、別です」
「見えなくても、動いてはいる」
「はい」
「なら、いいです」
ヴェクは、それ以上聞かず、また帳面に目を戻した。
誰も、大きな話の進み方を急かさなかった。
急かしても、水路が早く凍るわけでも、返信が早く届くわけでもないことを、この一年で誰もが知っていた。
昼過ぎ、執務所に使者が到着した。
「さらに北の土地からの返信です」
ロイドが受け取り、すぐに開いた。
文面は短かった。
——問い合わせの人物について、当地の人事記録を確認した。当該時期の記録は保管状態が悪く、判読できない箇所が多い。担当していた部署も、その後の統合により現存しない。よって、該当・非該当のいずれも確認できない。
ロイドが、それを二度読み返した。
「いない、とも、いる、とも言えない、ということですね」
「そうです」
ライルは頷いた。
「空白には、二種類あります。何もなかった空白と、確かめようがなかった空白と」
「これは、後者」
「はい。今のところは」
ロイドは、照合票にそのまま書き加えた。
——さらに北方面:確認不能(記録劣化・部署統合)。該当・非該当いずれも判定できず。
「閉じませんか」
ロイドが尋ねた。
「閉じません」
ライルは答えた。
「確認できなかった、という事実だけを残します。もし後で別の経路から手がかりが出れば、また開けます」
「向こうの役所に、非はないと」
「非があるかどうかも、今は判断しません」
ライルは言った。
「記録が崩れる理由は、悪意だけではありません。人手不足、火事、雨漏り。理由がわからないまま『非がある』と決めつけるのは、こちらが一番嫌ってきたやり方です」
ロイドは、その言葉に頷き、それ以上は書き加えなかった。
その日は、それ以上の動きはなかった。
水路の凍結対策が、日没前に一通り終わった。
五日後。着任三百二十五日目、朝。
いつも通り、水路の見回りから一日が始まった。
凍結した部分に異常はなく、堰板の具合も良好だった。
昼前、商業中継地から、二通目の使者が到着した。
封を開けたロイドの手が、一瞬止まった。
「今度は」
ライルが尋ねた。
「少し、違います」
ロイドが、文面を読み上げた。
——照会された氏名そのものは、当地の人事・滞在記録から確認できなかった。
——ただし、照会時期と同じ頃、宿泊台帳に「ガルダ方面より来た元書記」と欄外注記された旅人が数日滞在している。氏名欄は水損により判読不能。
——同じ宿泊日を参照する商人組合の別帳(苦情・特記事項)には、当該旅人について「宿泊料の勘定を確認する際、毎回ほぼ同じ言い回しで確認した」との記載が一件ある。具体的な文言は残っていない。
「氏名は、確認できていない」
ライルが確認した。
「はい」
ロイドが答えた。
「代わりに、『ガルダ方面より来た元書記』という欄外注記があります。ただ、それがこちらの書記役を指すとは限りません」
「言い回しについては」
「毎回ほぼ同じ言い回しで確認した、とあるだけです。何と言っていたかまでは残っていません」
「なぜ、この注記だけが残ったんでしょうか」
ミラが横から尋ねた。
「苦情や特記事項を記す帳面、とありました」
ロイドが言った。
「何か揉め事があって、その時の様子を書き残したのかもしれません。あるいは、記帳係が単に気になって書いただけかもしれません。今は、どちらとも言えません」
二通の返信が、机の上に並んだ。
一方は、何も語らない空白。
もう一方は、輪郭だけを持った小さな影。
「書記役の候補と見ていいでしょうか」
ロイドが尋ねた。
「候補として照合する理由はできました」
ライルは答えた。
「時期が近い。ガルダ方面から来た元書記という注記がある。ただし氏名は読めない。そこまでです」
「もし、そうでなかったら」
ミラが尋ねた。
「もし、本当に書記役だったとして——氏名欄が読めないのは、名を伏せたからでしょうか」
「そこも違います」
ライルは言った。
「返書には水損で判読不能とあります。本人が名を隠した事実はありません」
「では、そこから動機は読めない」
「はい。書かれていない理由を、こちらで足さないでください」
ロイドが、二通の返信をもう一度並べ直した。
「一つ気になるのは」
ロイドが言った。
「北方面の記録は、部署の統合で失われたとあります。商業中継地の記録は、たまたま特記帳に残っていた。両方とも、狙って消されたようには見えません」
「今のところは」
ライルは頷いた。
「あの方の綴りの欠落や、書記役の許可証控えの欠落とは、性質が違うように見えます。ただ、違って見えることと、実際に違うことは、まだ同じではありません」
「ですが、確かめる価値はあります」
ライルは、二通をそれぞれ照合票の脇に留めた。
「ダグラスさんに、見てもらいます」
「今日、ですか」
「明日にします」
ライルは言った。
「今日、急いで結論を出す必要はありません。落ち着いて、比べてもらいたいので」
ロイドが頷いた。
「北方面:確認不能。商業中継地:確認癖に関する注記あり、詳細未照合、と記録します」
「それで結構です」
午後、ダグラスが官倉の点検から戻ったところを、ロイドが呼び止めた。
「明日、少しお時間をいただけますか」
「何か、届きましたか」
ダグラスの声が、わずかに硬くなった。
「まだ、何とも言えません」
ロイドは、慎重に言葉を選んだ。
「商業中継地から、確認しておきたい記録が届きました。明日、一緒に見ていただきたいんです」
「わかりました」
ダグラスは、短く頷いた。
それ以上は聞かず、それ以上は言わず、いつも通り官倉の帳面へ戻っていった。
その後ろ姿を、ロイドはしばらく見ていた。
「今、伝えすぎましたか」
ロイドが、ライルに尋ねた。
「いえ」
ライルは答えた。
「何も知らせないまま明日を迎えさせる方が、かえって不親切です。ただ、期待させすぎる言い方は避けました」
「はい」
夕方、ミラが借用記録の綴りを棚へ戻しながら、ふと尋ねた。
「今日届いたもの、何か進みましたか」
「進んだとも、進んでいないとも言えます」
ライルは答えた。
「一つは、確かめようがなかった。もう一つは、確かめる前の材料が増えました」
「それも、記録のうちですか」
「そうです」
ライルは頷いた。
「わからないことが増えた日も、わかったことが増えた日も、同じように記録します」
窓の外、水路は今夜も静かに凍りかけていた。
向かいの机では、ロイドが二通の返信を別々の照合票へ綴じている。
ライルは手帳を開いた。
——北方面:確認不能。商業中継地:確認癖のある旅人の記録あり、氏名不明、文言未詳。明日、ダグラスさんと照合する。
最後に、もう一行だけ書き足した。
——確認不能が一件。追加照合に値する候補が一件。どちらも、結論ではない。
三方向へ送った照会のうち、内容のある答えが一つも出ないまま終わる可能性も、最初から想定していた。
その中で、たった一つでも影が見えたことは、進んだと言っていいはずだった。
だが、影は影でしかない。
名前でも、確証でもない。
明日、その影に、輪郭を与えられるかどうかが決まる。
与えられなければ、また白紙が増えるだけだ。
それでも、確かめずに終わらせるわけにはいかなかった。
それだけを書き、ロイドと一緒に戸締まりを確認した。
最後に蝋燭を消し、二人で執務所を出た。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




