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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第九章:消えた名前を、追う

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第八十三話「複数、という報告」

 着任三百十七日目、朝。


 収穫の列は、ようやく落ち着き始めていた。


 残るは数戸のみで、今日中にはすべて片付く見込みだった。


 ニルスが、最後の麦袋を担いで現れた。


「今年は、無事に納まりそうです」


「はい」


 ライルは頷いた。


「土地のことは、まだ、何も進んでいませんが」


 ニルスが、少し声を落として言った。


「動いていないわけでは、ありません」


 ライルは答えた。


「動きが見える形になるまで、時間がかかっているだけです」


 ニルスは、それ以上何も言わず、麦袋を秤の前へ運んだ。


 官倉の秤は、まだ三台のままだった。


「ギデオンさんの秤、返さなくていいんですか」


 ミラが尋ねた。


「もう少し借りたままにします」


 ヴェクが答えた。


「来年も、同じ時期に足りなくなります。今のうちに、正式に借用の記録を作っておきます」


 小さなことだった。


 だが、去年より一歩、先を見た対応だった。


 ゲオルグが、官倉の脇を通りかかり、その様子を見て軽く頷いた。


「三台の秤、まだ並んでいますね」


「もう少し、置いておきます」


 ヴェクが答えた。


「片付けるのは、いつでもできます」


 ゲオルグは、それ以上聞かず、水路の方へ歩いていった。


 水路の点検も、変わらず続いていた。


 カイとゲオルグが、朝のうちに下流の合流部を確認し、問題なしと記録して戻ってきた。


 いつも通りの一日が、いつも通りに始まっていた。


 昼前、監査室の封を持った使者が、執務所に到着した。


「特別監察案件、経過報告です」


 使者が言った。


「アルノ様からの言付けも、含まれています」


 ロイドが受領の署名をし、封を開いた。


 文面は、いつも通り簡潔だった。


 ——広域照合の一環として、複数地域の退任・死亡記録の再点検を進めている。


 ——確認者署名の欠落、記録の一部欠落という、共通する記載不備が、複数の地域で見受けられ始めている。


 ——ただし、件数・地域については、現時点で特定を差し控える。誤った期待を持たせるべきではないと判断したため。


 ——照合が進み次第、改めて連絡する。


 それだけだった。


 使者は、返信の要否を尋ねた。


「今は、要りません」


 ロイドが答えた。


「受領したことだけ、記録してください」


 使者は頷き、受領の控えを受け取ると、来た時と同じ静かな足取りで発っていった。


 封筒だけが、机の上に残された。


「複数の地域、ですか」


 ミラが、文面を読み返しながら言った。


「いくつ、とは書いていませんね」


「書いていません」


 ロイドが答えた。


「地域の名前も」


「ありません」


 ライルは、その文面をもう一度見た。


 書けることと、まだ開示しないことが、はっきり分かれている文章だった。


 断定を避けながら、進捗がないとも書かない。


 これまで受け取ってきた正式書面と、よく似た書き方だった。


「これは、どう受け止めればいいでしょうか」


 ロイドが尋ねた。


「事実として受け止めます」


 ライルが答えた。


「複数の地域で、同じ形の記載不備が見つかりつつある。それ以上でも、それ以下でもありません」


「ガルダとフェルン以外にも、という意味でしょうか」


 ミラが尋ねた。


「そこは書かれていません」


 ライルは答えた。


「『複数地域』が、既に照合している二地域を含むだけなのか、別の地域まで見つかったのか。文面だけでは判定できません」


 ライルは、報告書を手帳の間に挟んだ。


「同じだと決めてから見ると、同じところしか見えなくなります。これは、前に確かめたことです」


 ロイドが頷いた。


 その時、部屋の隅で書類を整理していたダグラスが、手を止めた。


「一つ、伺ってもいいですか」


 ダグラスが言った。


「どうぞ」


「複数、というのは、二か三か、それとも、もっと多いんでしょうか」


「書かれていません」


 ライルが答えた。


「知りたいですか」


「知りたいです。ですが、今、教えてもらえるとも思っていません」


 ダグラスは、そう言って、また手元の書類に目を戻した。


「数字が出るまで、今まで通り、記録を続けます」


「それで、十分です」


 ライルが言った。


「記録しておきます。『広域照合中、複数地域で同種の記載不備を確認中との報告。既知地域との重複範囲、件数、地域名は未開示』」


「それで結構です」


 午後、水路沿いから戻ったゲオルグが、一枚の紙を持って執務所に立ち寄った。


「継立場で、これを預かりました」


 北西の街道の使者から届いた、短い書状だった。


 開いてみると、数行だけの文面だった。


 ——書状、確かに受領した。当地の記録を確認の上、追って正式に回答する。


 名前についての手がかりは、何も書かれていなかった。


 届いたという事実だけが、記されていた。


「返事が、来ましたね」


 ミラが言った。


「中身は、まだです」


 ロイドが答えた。


「ですが、届いたことは、確かです。無視されたわけではありません」


 三通のうち、まだ届いたのは一通だけだった。


 残る二通の行き先からは、何の連絡もない。


「あと二か所は」


「もう少し、かかります」


 ロイドが言った。


「一番遠い先は、往復で二十日近くかかると見ています」


 ミラが、届いた一通を照合票の脇に留めた。


「これも、進んだうちに入りますか」


「入ります」


 ロイドが答えた。


「少なくとも、正式便が相手先へ届いたことは確認できました」


「残り二か所から返事がなければ」


「まず、想定日数を過ぎた時点で配送と受領の確認です」


 ロイドは言った。


「返答がないことと、届いていないことを混ぜません。届いていて回答待ちなのか、経路で止まったのかを先に分けます」


 そう言って、照合票に「北西方面:到着確認済み、内容待ち」と書き加えた。


「待ちますか」


「待ちます」


 ライルは答えた。


「急いで結論を出すより、揃うのを待つ方が、確かです」


 夕方、来訪が一段落した後、ライルは机の上を片付けながら、これまでの資料を一度、目で追った。


 辞令書の余白印の写し。


 「鍵、二年目。交代未了」という旧資料の一例。


 アルノが残していった参照票。


 そして今日届いた、二枚の新しい紙——複数地域での記載不備を示唆する報告と、北西方面からの到着確認。


 どれも、単独では何も語らない。


 だが、並べて置くと、紙と紙の間に、わずかな重みが生まれる気がした。


 その重みに名前をつけることは、まだできない。


 ライルは、資料を一つずつ、決められた場所へ戻した。


 順番を間違えないように。


 そのあと、ライルとロイドは、戸締まり前の水路確認を兼ねて外へ出た。


 秋の陽が、もう傾き始めていた。


 水音は、去年と変わらなかった。


 だが、今、自分が確かめようとしていることは、去年とは違っていた。


 書記役の行方。


 あの方に残る「病没」記録の真偽。


 辞令書の余白印。


 鍵という呼び名。


 そして今、ガルダとフェルンだけではないと示唆する、監査室の慎重な一文。


 一つ一つは、まだ、線でつながってはいない。


 だが、輪郭のようなものが、少しずつ形になり始めている。


 ライルは、その輪郭に、まだ名前をつけなかった。


 名前をつければ、そこから先は、名前に合う証拠だけを探してしまう。


 それは、この一年で、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。


 それでも、辞令書の余白印がある以上、自分の赴任も照合対象の一つではある。


 誰がガルダへの人事を決めたのか。


 誰が余白印を付したのか。


 同じ人物かどうかも、まだわからない。


 外の照合が進めば、その二つを分けて確かめられる日が来るかもしれない。


 今は、それ以上の意味を付けなかった。


 ライルは、水路の縁にしゃがみ、水面に手を触れた。


 少し後ろで、ロイドが合流部の点検札を確認している。


 水は冷たかった。


 冬が、近づいていた。


 この水も、いずれ凍り、また春に流れ出す。


 去年、初めてこの水路を見た時は、底が土砂で埋まり、流れそのものが止まっていた。


 今は、当たり前のように流れている。


 当たり前になるまでに、何度も同じ場所を確かめ直した。


 今追っているものも、同じやり方で確かめるしかない。


 急がず、飛ばさず、一つずつ。


 ライルは、立ち上がり、袖の水気を払った。


 執務所に戻ると、ロイドが灯りをつけて待っていた。


「今日の分、記録し終わりました」


「ありがとうございます」


 ライルは、手帳を開いた。


 ——広域照合中、複数地域で同種の記載不備を確認中との報告。既知地域との重複範囲・件数・地域名は未開示。北西方面への所在照会一件、到着確認済み。回答待ち。


 最後に、もう一行だけ書き足した。


 ——比較対象は増えた。因果関係は、まだ一つも確定していない。


 それだけを書き、手帳を閉じた。


「明日は」


 ロイドが尋ねた。


「残り二通の返事を待ちながら、いつも通りの仕事をします」


 ライルは答えた。


「収穫の締めくくり、水路の冬支度、来年の秤の借用記録」


「大きな話は」


「動く時が来れば、動きます。今は、その時ではありません」


 ロイドは、静かに頷いた。


「ダグラスさんが、先ほど、少し不安そうでした」


「複数の地域、という言葉のことですか」


「はい」


「無理もありません」


 ライルは言った。


「自分が関わった時代と似た記載不備が、別の地域にもあるかもしれないと聞けば、落ち着かないのは当然です」


「何か、伝えますか」


「明日、伝えます。今日はもう、遅い時間です」


 窓の外、水路の音が、いつも通り続いていた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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