第八十三話「複数、という報告」
着任三百十七日目、朝。
収穫の列は、ようやく落ち着き始めていた。
残るは数戸のみで、今日中にはすべて片付く見込みだった。
ニルスが、最後の麦袋を担いで現れた。
「今年は、無事に納まりそうです」
「はい」
ライルは頷いた。
「土地のことは、まだ、何も進んでいませんが」
ニルスが、少し声を落として言った。
「動いていないわけでは、ありません」
ライルは答えた。
「動きが見える形になるまで、時間がかかっているだけです」
ニルスは、それ以上何も言わず、麦袋を秤の前へ運んだ。
官倉の秤は、まだ三台のままだった。
「ギデオンさんの秤、返さなくていいんですか」
ミラが尋ねた。
「もう少し借りたままにします」
ヴェクが答えた。
「来年も、同じ時期に足りなくなります。今のうちに、正式に借用の記録を作っておきます」
小さなことだった。
だが、去年より一歩、先を見た対応だった。
ゲオルグが、官倉の脇を通りかかり、その様子を見て軽く頷いた。
「三台の秤、まだ並んでいますね」
「もう少し、置いておきます」
ヴェクが答えた。
「片付けるのは、いつでもできます」
ゲオルグは、それ以上聞かず、水路の方へ歩いていった。
水路の点検も、変わらず続いていた。
カイとゲオルグが、朝のうちに下流の合流部を確認し、問題なしと記録して戻ってきた。
いつも通りの一日が、いつも通りに始まっていた。
昼前、監査室の封を持った使者が、執務所に到着した。
「特別監察案件、経過報告です」
使者が言った。
「アルノ様からの言付けも、含まれています」
ロイドが受領の署名をし、封を開いた。
文面は、いつも通り簡潔だった。
——広域照合の一環として、複数地域の退任・死亡記録の再点検を進めている。
——確認者署名の欠落、記録の一部欠落という、共通する記載不備が、複数の地域で見受けられ始めている。
——ただし、件数・地域については、現時点で特定を差し控える。誤った期待を持たせるべきではないと判断したため。
——照合が進み次第、改めて連絡する。
それだけだった。
使者は、返信の要否を尋ねた。
「今は、要りません」
ロイドが答えた。
「受領したことだけ、記録してください」
使者は頷き、受領の控えを受け取ると、来た時と同じ静かな足取りで発っていった。
封筒だけが、机の上に残された。
「複数の地域、ですか」
ミラが、文面を読み返しながら言った。
「いくつ、とは書いていませんね」
「書いていません」
ロイドが答えた。
「地域の名前も」
「ありません」
ライルは、その文面をもう一度見た。
書けることと、まだ開示しないことが、はっきり分かれている文章だった。
断定を避けながら、進捗がないとも書かない。
これまで受け取ってきた正式書面と、よく似た書き方だった。
「これは、どう受け止めればいいでしょうか」
ロイドが尋ねた。
「事実として受け止めます」
ライルが答えた。
「複数の地域で、同じ形の記載不備が見つかりつつある。それ以上でも、それ以下でもありません」
「ガルダとフェルン以外にも、という意味でしょうか」
ミラが尋ねた。
「そこは書かれていません」
ライルは答えた。
「『複数地域』が、既に照合している二地域を含むだけなのか、別の地域まで見つかったのか。文面だけでは判定できません」
ライルは、報告書を手帳の間に挟んだ。
「同じだと決めてから見ると、同じところしか見えなくなります。これは、前に確かめたことです」
ロイドが頷いた。
その時、部屋の隅で書類を整理していたダグラスが、手を止めた。
「一つ、伺ってもいいですか」
ダグラスが言った。
「どうぞ」
「複数、というのは、二か三か、それとも、もっと多いんでしょうか」
「書かれていません」
ライルが答えた。
「知りたいですか」
「知りたいです。ですが、今、教えてもらえるとも思っていません」
ダグラスは、そう言って、また手元の書類に目を戻した。
「数字が出るまで、今まで通り、記録を続けます」
「それで、十分です」
ライルが言った。
「記録しておきます。『広域照合中、複数地域で同種の記載不備を確認中との報告。既知地域との重複範囲、件数、地域名は未開示』」
「それで結構です」
午後、水路沿いから戻ったゲオルグが、一枚の紙を持って執務所に立ち寄った。
「継立場で、これを預かりました」
北西の街道の使者から届いた、短い書状だった。
開いてみると、数行だけの文面だった。
——書状、確かに受領した。当地の記録を確認の上、追って正式に回答する。
名前についての手がかりは、何も書かれていなかった。
届いたという事実だけが、記されていた。
「返事が、来ましたね」
ミラが言った。
「中身は、まだです」
ロイドが答えた。
「ですが、届いたことは、確かです。無視されたわけではありません」
三通のうち、まだ届いたのは一通だけだった。
残る二通の行き先からは、何の連絡もない。
「あと二か所は」
「もう少し、かかります」
ロイドが言った。
「一番遠い先は、往復で二十日近くかかると見ています」
ミラが、届いた一通を照合票の脇に留めた。
「これも、進んだうちに入りますか」
「入ります」
ロイドが答えた。
「少なくとも、正式便が相手先へ届いたことは確認できました」
「残り二か所から返事がなければ」
「まず、想定日数を過ぎた時点で配送と受領の確認です」
ロイドは言った。
「返答がないことと、届いていないことを混ぜません。届いていて回答待ちなのか、経路で止まったのかを先に分けます」
そう言って、照合票に「北西方面:到着確認済み、内容待ち」と書き加えた。
「待ちますか」
「待ちます」
ライルは答えた。
「急いで結論を出すより、揃うのを待つ方が、確かです」
夕方、来訪が一段落した後、ライルは机の上を片付けながら、これまでの資料を一度、目で追った。
辞令書の余白印の写し。
「鍵、二年目。交代未了」という旧資料の一例。
アルノが残していった参照票。
そして今日届いた、二枚の新しい紙——複数地域での記載不備を示唆する報告と、北西方面からの到着確認。
どれも、単独では何も語らない。
だが、並べて置くと、紙と紙の間に、わずかな重みが生まれる気がした。
その重みに名前をつけることは、まだできない。
ライルは、資料を一つずつ、決められた場所へ戻した。
順番を間違えないように。
そのあと、ライルとロイドは、戸締まり前の水路確認を兼ねて外へ出た。
秋の陽が、もう傾き始めていた。
水音は、去年と変わらなかった。
だが、今、自分が確かめようとしていることは、去年とは違っていた。
書記役の行方。
あの方に残る「病没」記録の真偽。
辞令書の余白印。
鍵という呼び名。
そして今、ガルダとフェルンだけではないと示唆する、監査室の慎重な一文。
一つ一つは、まだ、線でつながってはいない。
だが、輪郭のようなものが、少しずつ形になり始めている。
ライルは、その輪郭に、まだ名前をつけなかった。
名前をつければ、そこから先は、名前に合う証拠だけを探してしまう。
それは、この一年で、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。
それでも、辞令書の余白印がある以上、自分の赴任も照合対象の一つではある。
誰がガルダへの人事を決めたのか。
誰が余白印を付したのか。
同じ人物かどうかも、まだわからない。
外の照合が進めば、その二つを分けて確かめられる日が来るかもしれない。
今は、それ以上の意味を付けなかった。
ライルは、水路の縁にしゃがみ、水面に手を触れた。
少し後ろで、ロイドが合流部の点検札を確認している。
水は冷たかった。
冬が、近づいていた。
この水も、いずれ凍り、また春に流れ出す。
去年、初めてこの水路を見た時は、底が土砂で埋まり、流れそのものが止まっていた。
今は、当たり前のように流れている。
当たり前になるまでに、何度も同じ場所を確かめ直した。
今追っているものも、同じやり方で確かめるしかない。
急がず、飛ばさず、一つずつ。
ライルは、立ち上がり、袖の水気を払った。
執務所に戻ると、ロイドが灯りをつけて待っていた。
「今日の分、記録し終わりました」
「ありがとうございます」
ライルは、手帳を開いた。
——広域照合中、複数地域で同種の記載不備を確認中との報告。既知地域との重複範囲・件数・地域名は未開示。北西方面への所在照会一件、到着確認済み。回答待ち。
最後に、もう一行だけ書き足した。
——比較対象は増えた。因果関係は、まだ一つも確定していない。
それだけを書き、手帳を閉じた。
「明日は」
ロイドが尋ねた。
「残り二通の返事を待ちながら、いつも通りの仕事をします」
ライルは答えた。
「収穫の締めくくり、水路の冬支度、来年の秤の借用記録」
「大きな話は」
「動く時が来れば、動きます。今は、その時ではありません」
ロイドは、静かに頷いた。
「ダグラスさんが、先ほど、少し不安そうでした」
「複数の地域、という言葉のことですか」
「はい」
「無理もありません」
ライルは言った。
「自分が関わった時代と似た記載不備が、別の地域にもあるかもしれないと聞けば、落ち着かないのは当然です」
「何か、伝えますか」
「明日、伝えます。今日はもう、遅い時間です」
窓の外、水路の音が、いつも通り続いていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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