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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第九章:消えた名前を、追う

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第八十二話「待つ、という仕事」

 着任三百十日目、朝。


 執務所の前に、いつもより長い列ができていた。


 収穫の最盛期だった。


 麦袋を担いだ農民が、官倉の前で順番を待っている。


 列には、顔なじみの農家が何人もいた。


「今年も、無事に収穫できました」


 一人が、順番を待ちながら言った。


「天候にも、恵まれましたね」


「はい。ですが、恵まれただけじゃないとも思っています」


 それ以上は語らず、列の前を見た。


「今日は、多いですね」


 ミラが言った。


「受入予定が、今日と明日にかなり集中しています」


 ヴェクが、計量器具を並べながら答えた。


 官倉の秤は、二台しかなかった。


 一台は古く、目盛りの読みに時間がかかる。


 もう一台は正確だが、扱える者がヴェク一人だった。


「このままだと、昼までに半分も終わりません」


 ヴェクが言った。


 珍しく、その声に焦りがにじんでいた。


「秤を、増やせますか」


 ライルが尋ねた。


「新しく作るには、日数が要ります。今からでは間に合いません」


「借りられる先は」


「鍛冶のギデオンが、小さい秤を一台持っています。ただ、官倉の受入量を正式に量る道具ではありません」


「基準分銅はありますか」


「あります」


 ヴェクが、官倉の奥から木箱を出した。


 定期点検に使う、重さの決まった分銅だった。


「では、借りる前に三点で確かめましょう」


「三点」


「軽い重さ、中ほど、受入でよく使う重さです。基準分銅を組み合わせて、三台とも確認する」


 ギデオンの秤が運び込まれた。


 ヴェクとミラが立ち会い、基準分銅を順に載せる。


 古い官倉秤は、重くなるほどわずかに目盛りが遅れた。


 借りた秤には、一定のずれがあった。


 正確な方の官倉秤は、基準分銅と一致した。


「この二台は、補正表を付ければ使えます」


 ヴェクが言った。


「ただ、今日いきなり全部を任せるのは怖いです」


「では、最初の五件は二台で照合してください」


 ライルが答えた。


「その後も、十件ごとに正確な秤へ戻して確認する。途中で差が広がれば、借りた秤は止める」


「農家の方には」


「入口に書きます」


 ミラが紙を取った。


 ——本日、臨時秤一台を使用。


 ——使用前に基準分銅で三点確認。


 ——補正表を公開。


 ——最初の五件および以後十件ごとに基準秤と再照合。


「どの秤で量ったかも、受領札へ残しますか」


「残してください」


 ライルは言った。


「後で差が見つかった時、誰の荷を再確認すればいいかわかるように」


 ヴェクは、少し黙ってから頷いた。


「面倒ですが——これなら使えます」


「面倒でも、後から確かめられる方が早いです」


 ミラは、まず借りた秤の扱い方をヴェクから教わった。


 最初の五件は、ヴェクが横で目盛りの読み方を確認する。


 問題がなければ、ミラが臨時秤を担当する。


 古い秤はヴェク。


 正確な秤は、再照合と判断が必要な荷を優先する。


 列が、動き始めた。


 ゲオルグが、順番を書いた紙を手に持ち、列の農民に声をかけていく。


「次の方、こちらへ」


 滞りは、少しずつ解消していった。


 昼過ぎには、列の半分が片付いていた。


「今年は、去年より早いですね」


 ニルスが、順番を待ちながら言った。


「秤が、足りなかったはずですが」


「借りて、合わせました」


 ライルが答えた。


「合わせる、ですか」


「三台のずれを基準分銅で確かめて、補正表を公開しています」


 ニルスは、少し考えてから頷いた。


「そういうやり方が、あるんですね」


 特別なことは、何もしていなかった。


 足りないものを、あるもので補い、その補い方を記録しただけだった。


 日が傾く頃には、列はすべてなくなっていた。


「今日の分、全戸終わりました」


 ヴェクが、額の汗を拭いながら言った。


「明日も、この調子で」


「明日は、もう少し早く終わるはずです」


 ミラが答えた。


「今日、慣れましたから」


 三台の秤は、夕方の光の中で、静かに並んでいた。


 道具そのものは、何一つ増えていない。


 増えたのは、使い方だけだった。


 夕方、執務所。


 ロイドとミラが、地図を広げていた。


「候補地を、絞りました」


 ロイドが言った。


「絞った、というより——絞れませんでした」


「どういうことですか」


 ライルが尋ねた。


「発行索引には、書記役の名前と発行日まではあります。ですが、行き先欄は空欄で、許可証番号も残っていません」


 ロイドが言った。


「同じ日の北側関所記録を確認すると、『役人転出』として通過した許可証が三件あります。古い関所帳は氏名を書かず、許可証番号と次の継立場だけを残す様式でした」


 ロイドが、地図の上に三つの印をつけた。


 一件は北西街道へ。


 一件はさらに北へ。


 一件は途中の分岐から商業中継地の方角へ。


「この三件のどれかが書記役のものだと確認できたわけではありません」


「同じ日、同じ区分だった三件」


「はい。初回照会を出す理由にはなりますが、候補地が三つに絞れた、とまでは書きません」


 地図の三点は、行き先ではなく、照合先だった。


「どれか一つに、確信はありますか」


「ありません」


 ロイドは、正直に答えた。


「どれを先に見るべきだと思いますか」


「優先順位は付けません」


 ロイドは答えた。


「三件とも同じ日に記録された転出区分です。近いから、知っている商人の経路だから、という理由で一つを重く見ると、最初から見方が偏ります」


「だから、三か所すべてに同じ条件で照会を出します」


「同時に」


「はい。一つに絞って外れれば、それだけ時間を失います。今は、時間より確度を優先すべきだと思います」


「使者は、足りますか」


 ライルが尋ねた。


「三方向へ専任を出す必要はありません」


 ロイドが答えた。


「内政調整局の正式便に載せ、各継立場から管轄役所へ回してもらいます。返信も同じ経路です」


「個人の所在照会です。宿や商人へは流さないでください」


「はい。受領者と転送先が残る経路だけを使います」


 ライルは頷いた。


「三通、同じ書式で用意してください」


 照会状の文面は、名前と在籍期間、当時の役職を淡々と記すだけのものだった。


 だが、名前だけでは足りないかもしれない。


 人は、名前を変えることができる。


 その考えが、ロイドとライルの間で、すでに共有されていた。


「ダグラスさんに、聞いてみます」


 ロイドが言った。


「名前以外で、覚えていることがないか」


 ダグラスが呼ばれた。


「顔は、はっきりとは思い出せません」


 ダグラスは、少し考えてから言った。


「ただ、話し方には、癖がありました」


「癖、というと」


「何かを確かめる時、いつも同じ言い方をしていました」


 ダグラスが、記憶をたどるように言った。


「『それで、間違いありませんか』——語尾を上げず、確認する時に必ずそう言うんです。普通は、もう少し柔らかく聞きます。ですが、あの人は、いつも同じ形でした」


「同じ形、を崩さない人だった」


 ライルが言った。


「はい」


 ダグラスが頷いた。


「几帳面な人でした。あの方に、少し似ていたかもしれません」


 その一言に、ロイドの筆が、一瞬だけ止まった。


「似ていた、というのは、性格がですか」


 ライルが尋ねた。


「性格も。それに、書く時の姿勢も」


 ダグラスは、そこで首を振った。


「ただ、それだけです。同じ人だと言っているわけでは、ありません」


「わかっています」


 ライルは静かに言った。


「似た話し方だったとしても、意味づけはしません」


 ライルが言った。


「癖は、たまたま似ることもあります。誰かに教わったと考える材料もありません」


「では、照会状には」


「初回は名前、当時の役職、在籍期間だけでいいと思います」


 ロイドが答えた。


「こちらから特徴を渡すと、受け手がそれに合う人物を探してしまうかもしれません」


「言い回しは、使わないんですか」


「候補者が出た後の照合用に、内部メモとして残します」


 ロイドは別紙に書いた。


 ——補助識別情報。ダグラス氏の記憶では、確認時に「それで、間違いありませんか」と語尾を上げずに問う傾向あり。初回所在照会には記載しない。


 三通は、宛先ごとに封を分け、正式便へ載せるための受渡簿に記入した。


「発つのは、明日の朝です」


 ロイドが言った。


「一番近い先でも、往復に十日はかかります」


「十日、ですか」


 ミラが言った。


「長いですね」


「長いです」


 ライルは頷いた。


「ですが、今日できることは、もう終わりました」


 三通の照会状が、それぞれの行き先ごとに束ねられ、明日の出立に備えて棚へ置かれた。


 あとは、届くかどうかだった。


 届いた先で、何を思い出してもらえるかも、わからない。


 それでも、出さなければ、何も始まらない。


「待つのも、仕事のうちですか」


 カイが、夕刻に立ち寄った際、ぽつりと尋ねた。


「そうです」


 ライルは答えた。


「何もしていないように見えて、実際は違います。何を待っているかを、はっきりさせておく。それも、記録の仕事です」


 カイは、少し考えてから頷いた。


「水路も、そうでしたね」


「そうでした」


「あの時も、詰まっている場所を見つけるまでは、何も変わらないように見えました」


 カイが言った。


「見えないところで、動いてはいたんです」


「今回も、同じだと思っています」


 ライルは答えた。


「土の下を流れているか、街道の先を流れているか、その違いだけです」


 窓の外、収穫を終えた畑が、夕日に染まり始めていた。


 今日という一日は、目立った答えを何も出さなかった。


 秤は三台とも、明日また同じように使われる。


 照会状は、まだどこにも届いていない。


 それでも、足りない道具を補う仕組みと、行き先のわからない相手を探す仕組みを、どちらも今日のうちに形にした。


 どちらも、すぐには結果が出ない。


 だが、形にしなければ、結果が出る日も来ない。


 できることは、それだけだった。


 それだけを、確実にやった一日だった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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