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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第九章:消えた名前を、追う

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第八十一話「ここにも、なかった」

 着任三百九日目、朝。


 水路の水面に、朝霧が薄く残っていた。


 秋の点検は、去年より半日早く始まった。


 カイが土手の落ち葉を掻き寄せ、ゲオルグが水量を目測で確認していく。


「去年より、少し多いですね」


 ゲオルグが言った。


「詰まりそうな場所は」


 ライルが尋ねた。


「今のところは、ありません」


 カイが答えた。


「下流の合流部だけ、明日もう一度見ておきます」


 二人の動きに、迷いはなかった。


 ライルが指示を出す前に、点検の順番も、記録する項目も、すでに決まっていた。


 少なくとも、ライルが横から順番を指示しなくても、カイとゲオルグは同じ項目を確認できる。


 手順が、人の頭の中だけにある状態からは、抜け出しつつあった。


 ライルは点検の間、ほとんど何も言わなかった。


 言うことがなかったからだ。


「この水路を動かし始めた頃は、まだ点検の項目を紙に書き出している最中でしたね」


 ゲオルグが、ふと言った。


「今は、書かなくても、体が覚えています」


「それでいいんです」


 ライルは答えた。


「紙は、覚えている人がいなくても、同じ順番で確かめられるようにするためにあります」


 水音だけが、いつも通り流れていた。


 土手の向こうで、農家の子供たちが、落ち葉を集めて遊んでいた。


 収穫を控えたこの時期、子供が外で遊ぶ余裕があること自体、去年までは当たり前ではなかった。


 カイが、その様子を見て、少しだけ目を細めた。


「弟も、あそこにいます」


 カイが言った。


「今年は、畑の手伝いより先に、あれをやらせてもらっています」


「いいことです」


 ライルは短く答えた。


 それ以上、何も言わなかった。


 言葉にするほどのことではない。


 ただ、そうであることが、今のガルダだった。


 昼前、官倉。


「在庫、確認できました」


 ヴェクが帳面を差し出した。


「数、変化なしです」


「屋根は」


「雨は、まだです。乾いています」


 ミラが、来訪記録の余白に、点検完了の一行を書き添えていた。


「今日は、静かですね」


 ミラが言った。


「静かなのも、記録のうちです」


 ライルが答えた。


 異常はない。


 異常がないことも、確かめなければ、ただの思い込みになる。


 短いやり取りで、官倉の点検は終わった。


 執務所に戻ると、ロイドはすでに机に向かっていた。


 昨日の二枚の照合票が、机の端に並んでいる。


 一枚目、前任者「病没」記録——外部照合待ち。


 二枚目、当時書記役——転出先・現在地未確認。


「ガルダ側で追える分から、進めます」


 ロイドが言った。


「二枚目からで」


「はい」


 ロイドが答えた。


「病没の記録は、医療と埋葬の照合が要ります。ここでは確かめようがありません」


「書記役の方は」


「まず、当時の物資調達記録を見ました」


 ロイドが言った。


「異動の際、身の回りの品を運び出すための荷馬車手配が、記録に残ることがあります」


「ありましたか」


「いいえ。手配そのものが、確認できませんでした。徒歩で発ったのか、記録が残らない形で運んだのか、それだけではわかりません」


 一つ、確かめては、何も出ない。


 それでも、確かめた分だけ、次に見るべき場所がはっきりしていく。


「給金支払い記録と、旧人事綴りが、ここに残っています」


 ロイドが、棚から二冊の帳面を下ろした。


 埃を払い、開く。


 書記役の在籍期間は、給金支払い記録にはっきりと残っていた。


 名前、支払月、額。


 三年分以上、途切れなく記されている。


「ここまでは、はっきりしています」


 ロイドが指でなぞった。


「問題は、この先です」


 在籍最後の月の記録を境に、給金の記載は止まっていた。


 転出したのなら、当然のことだった。


 だが、転出そのものを示す記録が、まだ見つかっていない。


「念のため、日々の来訪記録も確認します」


 ロイドが言った。


「転出の前後に、何か変わった動きがなかったか」


 当時の来訪記録は、判読しづらい箇所が多かったが、丁寧に追っていくと、書記役の名が最後に現れる日まで、目立った変化は見当たらなかった。


 いつも通りの来訪、いつも通りの受付。


 その先が、唐突に途切れているだけだった。


「ここも、何もありませんね」


 ミラが、横から覗き込んで言った。


「何もない、というのも、記録には残ります」


 ロイドが答えた。


 ロイドは、旧人事綴りの綴じを一枚ずつ確認していった。


 着任・異動・退任、それぞれの項目に、定型の記載がある。


 書記役の欄には、着任の記載はあった。


 退任の記載は——


「あります」


 ロイドが言った。


「日付だけです」


「日付だけ、というと」


 ライルが尋ねた。


「理由、次の赴任先、確認者。どれも空欄です」


 それだけなら、単なる記載漏れとも言えた。


 人手が足りない年は、そういうことも起こる。


 だが、もう一つ、確かめるべき記録があった。


「役人が領外へ正式に異動する時は、通行許可証を発行します」


 ロイドが言った。


「本人用とは別に、執務所側へ発行索引と控えを残す決まりです」


「今の運用でも」


「はい。書式は変わっていますが、発行した事実と控えを残す考え方は同じです」


 ロイドが、直近数年分の通行許可証控えの綴りを取り出した。


 名前ごとに、年月日、行き先、発行者の署名が並んでいる。


 書記役が転出したはずの年の綴りを、端から順に確認していく。


 該当する時期のページを、二度、三度とめくり直した。


「ありません」


 ロイドが、静かに言った。


「発行した記録の索引には、名前があります。ですが、控え自体が——ここにも、ありません」


 索引には、書記役の名前と発行日が記されていた。


 だが、その日付に対応する控えだけが綴りの中にない。


 綴じ直した痕跡があるかどうかも、目視だけでは判定できない。


 最初から控えが作られなかったのか。


 別の束へ移されたのか。


 後から失われたのか。


 今は、どれとも言えなかった。


「隣のページも、確認します」


 ロイドが、綴りをさらにめくった。


 前後の年に発行された控えは、どれも綴じ穴に紙が残っていた。


 欠けているのは、書記役の分だけだった。


「一件だけ、ですか」


 ライルが尋ねた。


「今のところは。ただ、他の年も、まだ全部は見ていません」


「見ておいてください。一件だけなのか、他にもあるのかで、意味が変わります」


「わかりました」


「ダグラスさんを、呼びましょう」


 ロイドが言った。


 しばらくして、ダグラスが呼ばれた。


 綴りを見せられ、しばらく黙って、ページをたどった。


「この時期の綴り方は、覚えています」


 ダグラスが言った。


「異動する役人には、控えを取る運用でした」


「例外は」


 ライルが尋ねた。


「私の記憶では、急な処分でも後から控えを作っていました。ただ、当時の全件を私が確認したわけではありません」


 ダグラスは、そこで一度、言葉を切った。


「私が扱った分については、覚えている限り、控えを残しています」


「この一件は」


「この一件を、私が処理した記憶はありません」


 ダグラスは、綴りの余白を見た。


「ただ、誰が処理したかも思い出せません」


「当時、担当は固定でしたか」


 ロイドが尋ねた。


「いいえ。書記役本人が作ることもありましたし、その日の当番が控えを綴ることもありました」


「では、担当者不明」


「はい。そこから先は、記憶で埋めないでください」


「わかりました」


 ロイドは、そのまま記録した。


「一つ、確かめてもいいでしょうか」


 ダグラスが言った。


「先日お預けした記憶メモに、何か書いていないか、自分でも見直してみます」


「あれは、フェルンでのことを中心に書かれていたのでは」


「はい。ですが、日付を遡って書いた箇所もあります。念のためです」


「お願いします」


 ダグラスは、深く頭を下げて、いったん部屋を出た。


 夕刻、戻ってきたダグラスの手には、何もなかった。


「該当する記述は、ありませんでした」


 ダグラスが言った。


「お手数をおかけしました」


「いえ」


 ダグラスは、静かに首を振った。


「見て、なかったことも、確かめたことのうちです」


 ロイドが、新しい紙を取り、書き始めた。


 ——書記役、転出時の通行許可証控え、未発見。発行索引には氏名・発行日の記載あり。該当控えは現綴り内で確認できず。作成有無・移管・後日欠落の別は未判定。担当者不明。


「索引はある。控えは、今の綴りでは見つからない」


 ロイドが読み返した。


 ライルは頷いた。


 前任者の記録欠落と似て見える部分はある。


 だが、前任者側は綴りの頁欠落。


 今回は、発行索引に対応する控えが未発見。


 欠け方まで同じとは言えない。


 今記録できるのは、その違いを含めた「未発見」だった。


「これは、監査室への正式報告に含めますか」


 ロイドが尋ねた。


「含めます」


 ライルが答えた。


「ただし、推測は書きません。索引にはあった、控えはなかった。それだけです」


「わかりました」


 ロイドが頷いた。


 ライルは、手帳を開いた。


 ——書記役の転出許可証。発行索引あり、対応控えは現綴りで未発見。前任者の頁欠落とは別事象として記録。


 窓の外、水路の音が続いていた。


 秋の空気が、少しずつ冷たくなり始めていた。


「今日は、これで」


 ロイドが、帳面を閉じた。


「明日、候補地を絞る作業に入ります」


「はい」


 ライルは頷いた。


 ミラが、今日の来訪記録と点検記録を一冊にまとめ、棚へ戻した。


「明日も、水路と官倉は、いつも通りですか」


 ミラが尋ねた。


「いつも通りです」


 ライルは答えた。


「大きな話が動いていても、小さな仕事は、そのままです」


 答えの出ない一日だった。


 物資調達記録には、転出時の荷馬車手配を確認できなかった。


 来訪記録にも、目立つ変化はなかった。


 通行許可証は、発行索引だけがあり、控えを確認できなかった。


 三つは同じ種類の「空白」ではない。


 だから、まとめて一つの異常にはしない。


 それでも、書記役がガルダを離れた経路を裏づける資料が、まだ一つも見つかっていない。


 その状態自体は、次の照合理由になった。


 ライルは、そう考えながら、蝋燭の火を弱めた。


 だが、確かめるべき順番は、また一つ、はっきりした。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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