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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第七十四話「形が、見える」

 着任二百八十七日目、朝。


 ライルは、いつもより早く執務所に入った。


 机の上には、昨夜のまま、紙が並んでいた。


 旧受領台帳の欠落した綴りの写し。


 布切れの意匠を写した紙。


 辞令書の余白印の写し。


 鍵を持っていた三人についての記録。


 旧受領札番号五十七の重複を示す帳面。


 フェルンでの照会結果——七年前の「病没」記録。


 そして、昨日清書されたばかりの、ダグラスの証言。


 ロイドが出勤すると、ライルはすでに机の前に立っていた。


「今日は、これを並べ直します」


 ライルは言った。


「手伝ってもらえますか」


「はい」


 ロイドは、迷わず頷いた。


 少し遅れてミラも加わった。


 三人で、机を囲んだ。


「順番に、確認します」


 ライルは言った。


「結論を先に置きません。事実だけを、一つずつ並べます」


 辞令書の余白印。


 照会書に使われた公印とは別物だが、意匠の一部に似て見える特徴がある。


 林際で回収した布片の意匠。


 誰の衣服から落ちたものかは未確認。


 欠落直前頁で、斜光下に確認された図形様痕跡。


 印として押されたものかどうかも、まだ判定できていない。


 この三つは、「共通する特徴を持つが、同一性は未判定」のまま、これまで保全されてきた。


「ここまでは、変わりません」


 ライルは言った。


「今日、新しく並ぶのは、これです」


 当時、施錠棚の鍵を扱えた三人という記録。


 前任者。


 書記役。


 管理担当だったダグラス。


 前任者には「病没」とだけ残る記録がある。


 書記役は、その後ガルダを離れたとの伝聞。現在地は未確認。


 ダグラスだけが、今もこの執務所にいる。


 そこに、ダグラスの証言が重なる。


 「鍵は、もう三年目だ」——名前ではなく、役目のような呼び方。


 「私自身も、鍵を任されていた一人でした」というダグラス自身の言葉。


 そして、フェルンの倉庫番ヨナス。


 名前ではなく「役目のような呼び方」で呼ばれていたという証言。


「呼び名の使われ方も、並べます」


 ライルは続けた。


「ヨナスさんは『役目のような呼び方』とだけ言い、内容は明かしませんでした。ダグラスさんは『鍵』という言葉そのものを口にしました」


「同じもの、と考えていいんでしょうか」


 ミラが尋ねた。


「まだです」


 ライルは首を振った。


「響きが一致するかどうかは、ヨナスさん本人が語っていない以上、確認のしようがありません。似ている、というところまでです」


「同じ言葉かどうかは、確定していません」


 ロイドが、確認するように言った。


「はい」


 ライルは頷いた。


「ヨナスさんは、響きの一部しか語っていません。ダグラスさんの証言と、完全に一致したとは言えません」


「それでも」


「それでも、比較する理由はあります。どちらも、本人名ではない呼び方についての証言です。ただし、同じ語か、同じ仕組みかは未確認です」


 ライルは、旧受領札五十七の記録を、その隣に置いた。


 受領札番号五十七の二通のうち、一通が商務分家の書状だったこと。


 フェルンが、商務分家の実務地域にあること。


 フェルンで、「病没・確認者署名なし・周辺記録欠落」という共通特徴を持つ別件が確認されたこと。


 そして、制度導入の実地検証候補としてフェルンが挙がったこと。


「これも、証拠にはなりません」


 ライルは言った。


「因果関係の証拠にはなりません。ただ、商務分家という同じ名称が複数の未解決事項に現れている。比較対象として残す価値はあります」


 ミラが、静かに紙を見つめていた。


「一人の誰かが、全部やったという話なんでしょうか」


 ミラが、ぽつりと言った。


 ライルは首を振った。


「今は、そこも決めません」


「一人か、複数かも」


「はい」


 ライルは答えた。


「『鍵』という呼び名をダグラスさんが聞いたのは一度。ヨナスさんは実際の語を全部話していない。年代も、使われた場面も違います」


 ロイドが頷く。


「同じ人間が長く関わった可能性。複数人が同じ呼び方を使った可能性。まったく別の呼び方だった可能性」


「どれも、まだ残ります」


 ライルは言った。


「今日できるのは、仮説を一つに絞らないことです」


 ミラが、五十七の帳面と、フェルンの照会結果を、そっと隣り合わせに置き直した。


「北西の貴族家の、商務分家」


 ミラが言った。


「その名が、何度か出てきている、ということですよね」


「はい」


 ライルは頷いた。


「本家が知っているかどうかは、まだわかりません。分家そのものが入れ物として使われているのか、分家自身が関わっているのかも、まだわかりません」


 ロイドが、少し声を落とした。


「少なくとも、似た特徴を持つ記録はフェルンにもありました」


 ロイドが言った。


「はい」


 ライルは答えた。


「そこまでは事実です。原因が同じかどうかは、まだ別です」


「結論は、まだ出しません」


「ヨナスさんが、ガルダの過去と直接つながる人物かどうかも」


 ロイドが尋ねた。


「未確認です」


 ライルは、はっきり答えた。


「東方から来たという宿主人の伝聞も、正確な時期も、本人の過去も確認していません。似ていると決めてから見ると、似ているところしか見えなくなります」


「はい」


 ロイドは頷いた。


 しばらく、三人とも黙って、机の上の紙を見ていた。


「ダグラスさんを、呼んできます」


 ライルが言った。


 ロイドが、廊下へ出た。


 少しして、ダグラスが入ってきた。


 昨日と同じ場所に、同じように立った。


「証言、整理できました」


 ライルは言った。


「今日から、これは記録の一部です」


 ダグラスは、何かを待つように、少しだけ肩に力を入れた。


「一つの資料として、他の記録と並びます。特別に重く扱うことも、軽く扱うこともしません」


「それだけ、ですか」


 ダグラスが、確かめるように尋ねた。


「それだけです」


 ライルは、まっすぐ答えた。


「あなたの証言が正しかったかどうかは、これから他の材料と照らして確認していきます。今日、私があなたを裁くことも、赦すこともしません。それは、私の役目ではありません」


 ダグラスは、しばらく黙っていた。


「楽には、なりませんね」


 やがて、そう言った。


「なりません」


 ライルは頷いた。


「ただ、宙ぶらりんではなくなります。あなたの証言は、今日、記録の一部になりました。それは、消えません」


「消えない、というのは」


「あなたが何を話したか、いつ、誰の前で話したか。それが、事実として残ります。良くも悪くも、そこから逃げられなくなる、ということです」


 ダグラスは、その言葉を、ゆっくり噛みしめるように受け取った。


「それで、十分です」


 静かに、そう言った。


「今、必要なのは、赦しではありません。忘れられないことです」


 ライルは、それ以上、何も言わなかった。


 ただ、深く頷いた。


「一つ、伺ってもいいですか」


 ダグラスが言った。


「どうぞ」


「私の証言は、あの方や、ヨナスさんの正体を、明らかにする助けになりましたか」


 ライルは、少し考えてから答えた。


「助けにはなりました。ただ、正体を明らかにした、とは言えません」


「まだ、遠いですか」


「近づきました。ですが、近づいたことと、着いたことは、別です」


 ダグラスは、その言葉に、小さく頷いた。


「それで、いいと思います」


「なぜですか」


「早く着くことより、間違えずに着くことの方が、大事な気がするからです」


 その言葉は、かつて台帳を隠していた男の口から出たとは思えないほど、静かで確かなものだった。


「次は、どうしますか」


 ロイドが尋ねた。


「ここまでの材料を、まとめます」


 ライルは言った。


「監査室と、アルノ様へ、報告します」


「今回は、これまでと違いますか」


「違います」


 ライルは、机の上の紙を、もう一度見渡した。


「これまでは、断片でした。今日、初めて、形が見えました。完全な形ではありません。ですが、伝えるべき形には、なりました」


「どこまで、書きますか」


 ロイドが尋ねた。


「確認できたことと、材料が示す可能性、両方を分けて書きます」


 ライルは言った。


「断定はしません。ですが、可能性を可能性のまま伝えることも、今回は必要だと思います」


「これまでは、確認できたことだけを送っていました」


「はい」


 ライルは頷いた。


「今回は、少し違います。呼び名という言葉が、複数の場所で、同じ形で使われている——それ自体が、伝えるべき事実です」


 窓の外、朝の光が、少しずつ強くなっていた。


 ライルは、白紙を一枚、机の中央に置いた。


「報告書を、書きます」


 その一言で、部屋の空気が、静かに次の段階へ動き始めた。


「今回は、私も一枚、付けてもらえますか」


 ダグラスが言った。


「証言をした本人として、追加で残しておきたいことがあります」


「補足陳述としてなら」


 ライルは頷いた。


「本体の分析とは分けます。何を見聞きしたか、何を推測しているかも、ご自身の言葉で分けてください」


「はい」


 ロイドが、報告書本体の下書きと、ダグラスの補足陳述用紙を別に用意した。


 いつもの手順だった。


 ミラが、机の隅に積まれた資料を、日付順に並べ直し始めた。


 誰も、急いではいなかった。


 だが、誰も、手を止めてもいなかった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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