第七十三話「一つの音」
着任二百八十六日目、朝。
執務所の扉を開けると、ミラが顔を上げた。
「おかえりなさい」
「ただいま、戻りました」
ロイドが答えた。
ヴェクが官倉の帳面を持ったまま、軽く頭を下げた。
カイとゲオルグは、水路の見回りに出ているとのことだった。
「留守中、変わったことは」
ライルが尋ねた。
「ありません」
ミラが即答した。
「毎日、そう書けたことが、少し不思議なくらいです」
その言葉に、誰も何も付け加えなかった。
だが、空気は、確かに軽かった。
昼過ぎ、水路の見回りから戻ったカイとゲオルグが、顔を見るなり足を止めた。
「戻られたんですね」
カイが言った。
「戻りました」
ロイドが答えた。
「留守中、集荷の記録は」
「弟に、少しずつ見せています」
カイは、少し照れたように言った。
「まだ、任せてはいませんが」
「無理はしない、でしたね」
ロイドが言うと、カイは小さく頷いた。
ゲオルグは、ダグラスの顔をしばらく見てから、何も言わずに頭を下げた。
ダグラスも、同じように頭を下げた。
言葉はなかったが、それで十分なやり取りだった。
二つの椅子が、また埋まった。
ダグラスは、荷を置くとすぐに、外へ出た。
誰にも断らず、迷いのない足取りだった。
水路沿いを、しばらく歩いた。
北側の継ぎ目、出口、畑の縁。
どこも、出発前と変わっていなかった。
水の音も、同じだった。
継ぎ目のところで、ダグラスはしゃがみ込み、指先で水面に触れた。
冷たさも、流れの速さも、記憶にあるままだった。
通りかかった農民が「お帰りですか」と声をかけると、「はい」とだけ答えた。
多くは語らなかったが、その声は、出発前より落ち着いていた。
しばらく立って、それだけを確かめると、執務所へ戻った。
「戻りました」
「はい」
ライルが応じた。
「話す前に、水路を見ておきたかった、と伺っています」
「変わっていませんでした」
ダグラスは、静かに言った。
「それだけ、確かめたかったんです」
「今日、話しますか」
ライルが尋ねた。
「はい」
迷いのない声だった。
「今日、話します」
ライルは、少し間を置いてから言った。
「場所は」
「ここで、構いません」
ダグラスは、執務所の中を見渡した。
「ロイドさんにも、いてほしいです」
「私で、いいんですか」
ロイドが尋ねた。
「はい」
ダグラスは頷いた。
「フェルンでは、誰に聞かれるかわからないことが、怖かった。ここでは、逆です。聞かれないまま話す方が、怖い」
「記録しますか」
ロイドが尋ねた。
「してください」
ダグラスは即答した。
「今日から、ではなく、今、この場から。最初の一言から」
ロイドは、帳面を開いた。
いつもと同じ姿勢、同じ速さで、筆を構えた。
新しい頁の一番上に「ダグラス氏証言・自発的申告」とだけ書き、日付を添えた。
ライルは、机を挟んでダグラスと向き合った。
窓の外は、いつも通りの午後だった。
「始める前に、確認します」
ライルが言った。
「これは、正式な証言として残します。途中で止めたくなったら、いつでも止めてください」
「止めません」
ダグラスは、迷わず答えた。
「今日、止めたら、また次の機会を探すことになります。それは、もう、したくありません」
「わかりました」
ライルは、それ以上は促さず、静かに待った。
ダグラスは、しばらく黙っていた。
言葉を選んでいるのではなく、順番を確かめているように見えた。
やがて、まっすぐライルを見て、口を開いた。
「呼び名の話を、します」
ダグラスは、そう切り出した。
「聞いたのは、あの方が来なくなる少し前です。古い書類を運び出す、少し前でした」
「はい」
「扉の外で、あの人たちのうち二人が、短く言葉を交わしていました。聞こえたのは、その一部だけです」
ダグラスは、そこで一度、言葉を止めた。
「『鍵は、もう三年目だ』『大人しくしていれば、それでいい』——聞こえたのは、その二つです」
部屋が、静かになった。
ロイドの筆が、一度止まり、また動いた。
「鍵、というのが」
ライルが、確かめるように言った。
「呼び名です」
ダグラスは頷いた。
「名前ではなく、役目のような呼び方だと思ったのは、後になってからです」
「誰を指していたと思いますか」
「わかりません」
ダグラスは、はっきり答えた。
「当時、鍵を扱えたのは、あの方、書記役、そして私でした。『鍵』がその三人のうち誰かを指したのか。別の役目を指したのか。それすら、今は決められません」
「では、『もう一人の同僚を指した』とは記録しない」
「はい。以前は、そう考えたこともありました。ですが、今は推測です」
その一言に、ライルは、すぐには返さなかった。
「もう一つ、伺います」
少し置いてから、そう言った。
「フェルンで、ヨナスさんが口にした響きと、同じだと感じたのは、いつでしたか」
「証言を聞いた、その場でです」
ダグラスは答えた。
「短く、硬い音が一つ。それだけで、同じだと決めるのは、乱暴だとわかっています。それでも、あの時、体が先に反応しました」
「向けられていた相手は」
「わかりません。あの方だったのか、もう一人の同僚だったのか、それとも——私自身だったのか」
「同じ言葉を、他の場面で聞いたことは」
「ありません。あの一度だけです」
「声の調子は、覚えていますか」
ライルが尋ねた。
「特別なものではありませんでした」
ダグラスは、記憶をたどるように答えた。
「怒っても、焦ってもいませんでした。台帳の数字を読み上げるような言い方でした」
「台帳の数字」
「はい。人を指す言葉というより、物か、役目を指す言葉のように聞こえました」
ロイドの筆が、その一言を丁寧に書き留めた。
「その二人は、それぞれ、どちらが年上に見えましたか」
「わかりません。顔は、見ていません。声だけです」
「声に、訛りや、癖は」
「一人には、聞き慣れない言い回しがありました。どこのものかは、わかりません。もう一人は、覚えていません」
ライルは、それ以上、重ねて聞かなかった。
聞くべきことは、聞き終えていた。
「記録します」
ライルは言った。
「直接聞いた言葉は、そのまま。誰を指したかは不明。『役目のように聞こえた』はダグラスさんの解釈。ヨナスさんの証言との一致も未確認」
「はい」
「四つを、同じ欄には入れません」
「はい」
「意味づけは、まだしません。今日はここまでです」
ロイドが、帳面に最後の一行を書き終えた。
筆を置く音が、いつもより小さく聞こえた。
「話せて、良かったですか」
ライルが尋ねた。
ダグラスは、しばらく考えてから答えた。
「良かった、とは、まだ言えません」
「そうですか」
「ですが、抱えたまま歩くより、今の方が、足取りは軽い気がします」
その言葉には、飾りがなかった。
「フェルンで、決めていたんです」
ダグラスは、続けた。
「話したら、少しは楽になるだろうか、と。今、答えが出ました」
「どんな答えですか」
「楽には、なりません。ただ、一人で持っているより、二人で持っている方が、まだ、まっすぐ立っていられる気がします」
ロイドが、顔を上げた。
「私も、その一人に入れていただけたなら」
「入っています」
ダグラスは、短く答えた。
「最初から、そのつもりで、いてほしいと頼みました」
ロイドは、それ以上何も言わず、静かに頷いた。
「今日は、これで終わります」
ライルは言った。
「ゆっくり休んでください」
「はい」
ダグラスは、深く頭を下げて退出した。
その背中は、来る前と、どこか違って見えた。
扉が閉まってから、ロイドがしばらく黙って帳面を見つめていた。
「怖くは、ないですか」
ロイドが、ふと尋ねた。
「怖い、というのとは、少し違います」
ライルは答えた。
「これまで、断片が一つずつ増えるたびに、慎重になろうとしてきました。今日もそうします」
「ですが」
「ですが、断片の質が、今日は少し変わった気がします」
それだけ言うと、ライルはそれ以上続けなかった。
ロイドも、それ以上は聞かなかった。
「今日の記録、清書しておきます」
ロイドは言った。
「お願いします」
ロイドが帳面を持って退出すると、執務所には静けさだけが残った。
夜。
執務所には、ライルとロイドが残っていた。
ロイドは向かいの机で、今日の証言記録の封と索引を整えている。
閉庁後に一人にならない運用は、今も変えていない。
ライルは、鍵のかかった引き出しを開けた。
旧受領台帳の欠落した綴りの写し。
布切れの意匠を写した紙。
辞令書の余白印の写し。
鍵を持っていた三人についての、これまでの記録。
今日、ロイドが清書したばかりのダグラスの証言。
一枚ずつ、机の上に並べていく。
いつもと同じ手順だった。
急がず、決めつけず、事実だけを並べる。
今日、新しく増えたのは、「鍵」という語が人や役目を指して使われた可能性のある証言だった。
これまでの記録にある「鍵」は、施錠棚を開ける道具の意味だ。
鍵を持っていた三人。
二本に分けた現在の鍵。
受け渡し記録。
それらと、今日の呼び名を同じ意味として扱う理由はない。
音が同じだからといって、証拠を一つにまとめてはいけない。
ライルは、今日の証言だけを別紙に置いた。
——呼称「鍵」。意味・対象者・使用範囲、未確認。
その一行が、今増えた事実だった。
だが、今日は、いつもと違う手が、一枚の紙の上で止まった。
声には、出さなかった。
結論も、まだ言葉にはしなかった。
ただ、指先が、その紙の上で、しばらく動かなかった。
蝋燭の火が、一度だけ大きく揺れて、また落ち着いた。
ライルは、その紙をすぐには片付けず、しばらくの間、机の上に置いたままにしていた。
窓の外、ガルダの夜は、いつも通り静かだった。
その静けさの中で、ライルは、しばらく紙を見つめていた。
向かいでは、ロイドの筆が静かに動いていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




