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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第七十三話「一つの音」

 着任二百八十六日目、朝。


 執務所の扉を開けると、ミラが顔を上げた。


「おかえりなさい」


「ただいま、戻りました」


 ロイドが答えた。


 ヴェクが官倉の帳面を持ったまま、軽く頭を下げた。


 カイとゲオルグは、水路の見回りに出ているとのことだった。


「留守中、変わったことは」


 ライルが尋ねた。


「ありません」


 ミラが即答した。


「毎日、そう書けたことが、少し不思議なくらいです」


 その言葉に、誰も何も付け加えなかった。


 だが、空気は、確かに軽かった。


 昼過ぎ、水路の見回りから戻ったカイとゲオルグが、顔を見るなり足を止めた。


「戻られたんですね」


 カイが言った。


「戻りました」


 ロイドが答えた。


「留守中、集荷の記録は」


「弟に、少しずつ見せています」


 カイは、少し照れたように言った。


「まだ、任せてはいませんが」


「無理はしない、でしたね」


 ロイドが言うと、カイは小さく頷いた。


 ゲオルグは、ダグラスの顔をしばらく見てから、何も言わずに頭を下げた。


 ダグラスも、同じように頭を下げた。


 言葉はなかったが、それで十分なやり取りだった。


 二つの椅子が、また埋まった。


 ダグラスは、荷を置くとすぐに、外へ出た。


 誰にも断らず、迷いのない足取りだった。


 水路沿いを、しばらく歩いた。


 北側の継ぎ目、出口、畑の縁。


 どこも、出発前と変わっていなかった。


 水の音も、同じだった。


 継ぎ目のところで、ダグラスはしゃがみ込み、指先で水面に触れた。


 冷たさも、流れの速さも、記憶にあるままだった。


 通りかかった農民が「お帰りですか」と声をかけると、「はい」とだけ答えた。


 多くは語らなかったが、その声は、出発前より落ち着いていた。


 しばらく立って、それだけを確かめると、執務所へ戻った。


「戻りました」


「はい」


 ライルが応じた。


「話す前に、水路を見ておきたかった、と伺っています」


「変わっていませんでした」


 ダグラスは、静かに言った。


「それだけ、確かめたかったんです」


「今日、話しますか」


 ライルが尋ねた。


「はい」


 迷いのない声だった。


「今日、話します」


 ライルは、少し間を置いてから言った。


「場所は」


「ここで、構いません」


 ダグラスは、執務所の中を見渡した。


「ロイドさんにも、いてほしいです」


「私で、いいんですか」


 ロイドが尋ねた。


「はい」


 ダグラスは頷いた。


「フェルンでは、誰に聞かれるかわからないことが、怖かった。ここでは、逆です。聞かれないまま話す方が、怖い」


「記録しますか」


 ロイドが尋ねた。


「してください」


 ダグラスは即答した。


「今日から、ではなく、今、この場から。最初の一言から」


 ロイドは、帳面を開いた。


 いつもと同じ姿勢、同じ速さで、筆を構えた。


 新しい頁の一番上に「ダグラス氏証言・自発的申告」とだけ書き、日付を添えた。


 ライルは、机を挟んでダグラスと向き合った。


 窓の外は、いつも通りの午後だった。


「始める前に、確認します」


 ライルが言った。


「これは、正式な証言として残します。途中で止めたくなったら、いつでも止めてください」


「止めません」


 ダグラスは、迷わず答えた。


「今日、止めたら、また次の機会を探すことになります。それは、もう、したくありません」


「わかりました」


 ライルは、それ以上は促さず、静かに待った。


 ダグラスは、しばらく黙っていた。


 言葉を選んでいるのではなく、順番を確かめているように見えた。


 やがて、まっすぐライルを見て、口を開いた。


「呼び名の話を、します」


 ダグラスは、そう切り出した。


「聞いたのは、あの方が来なくなる少し前です。古い書類を運び出す、少し前でした」


「はい」


「扉の外で、あの人たちのうち二人が、短く言葉を交わしていました。聞こえたのは、その一部だけです」


 ダグラスは、そこで一度、言葉を止めた。


「『鍵は、もう三年目だ』『大人しくしていれば、それでいい』——聞こえたのは、その二つです」


 部屋が、静かになった。


 ロイドの筆が、一度止まり、また動いた。


「鍵、というのが」


 ライルが、確かめるように言った。


「呼び名です」


 ダグラスは頷いた。


「名前ではなく、役目のような呼び方だと思ったのは、後になってからです」


「誰を指していたと思いますか」


「わかりません」


 ダグラスは、はっきり答えた。


「当時、鍵を扱えたのは、あの方、書記役、そして私でした。『鍵』がその三人のうち誰かを指したのか。別の役目を指したのか。それすら、今は決められません」


「では、『もう一人の同僚を指した』とは記録しない」


「はい。以前は、そう考えたこともありました。ですが、今は推測です」


 その一言に、ライルは、すぐには返さなかった。


「もう一つ、伺います」


 少し置いてから、そう言った。


「フェルンで、ヨナスさんが口にした響きと、同じだと感じたのは、いつでしたか」


「証言を聞いた、その場でです」


 ダグラスは答えた。


「短く、硬い音が一つ。それだけで、同じだと決めるのは、乱暴だとわかっています。それでも、あの時、体が先に反応しました」


「向けられていた相手は」


「わかりません。あの方だったのか、もう一人の同僚だったのか、それとも——私自身だったのか」


「同じ言葉を、他の場面で聞いたことは」


「ありません。あの一度だけです」


「声の調子は、覚えていますか」


 ライルが尋ねた。


「特別なものではありませんでした」


 ダグラスは、記憶をたどるように答えた。


「怒っても、焦ってもいませんでした。台帳の数字を読み上げるような言い方でした」


「台帳の数字」


「はい。人を指す言葉というより、物か、役目を指す言葉のように聞こえました」


 ロイドの筆が、その一言を丁寧に書き留めた。


「その二人は、それぞれ、どちらが年上に見えましたか」


「わかりません。顔は、見ていません。声だけです」


「声に、訛りや、癖は」


「一人には、聞き慣れない言い回しがありました。どこのものかは、わかりません。もう一人は、覚えていません」


 ライルは、それ以上、重ねて聞かなかった。


 聞くべきことは、聞き終えていた。


「記録します」


 ライルは言った。


「直接聞いた言葉は、そのまま。誰を指したかは不明。『役目のように聞こえた』はダグラスさんの解釈。ヨナスさんの証言との一致も未確認」


「はい」


「四つを、同じ欄には入れません」


「はい」


「意味づけは、まだしません。今日はここまでです」


 ロイドが、帳面に最後の一行を書き終えた。


 筆を置く音が、いつもより小さく聞こえた。


「話せて、良かったですか」


 ライルが尋ねた。


 ダグラスは、しばらく考えてから答えた。


「良かった、とは、まだ言えません」


「そうですか」


「ですが、抱えたまま歩くより、今の方が、足取りは軽い気がします」


 その言葉には、飾りがなかった。


「フェルンで、決めていたんです」


 ダグラスは、続けた。


「話したら、少しは楽になるだろうか、と。今、答えが出ました」


「どんな答えですか」


「楽には、なりません。ただ、一人で持っているより、二人で持っている方が、まだ、まっすぐ立っていられる気がします」


 ロイドが、顔を上げた。


「私も、その一人に入れていただけたなら」


「入っています」


 ダグラスは、短く答えた。


「最初から、そのつもりで、いてほしいと頼みました」


 ロイドは、それ以上何も言わず、静かに頷いた。


「今日は、これで終わります」


 ライルは言った。


「ゆっくり休んでください」


「はい」


 ダグラスは、深く頭を下げて退出した。


 その背中は、来る前と、どこか違って見えた。


 扉が閉まってから、ロイドがしばらく黙って帳面を見つめていた。


「怖くは、ないですか」


 ロイドが、ふと尋ねた。


「怖い、というのとは、少し違います」


 ライルは答えた。


「これまで、断片が一つずつ増えるたびに、慎重になろうとしてきました。今日もそうします」


「ですが」


「ですが、断片の質が、今日は少し変わった気がします」


 それだけ言うと、ライルはそれ以上続けなかった。


 ロイドも、それ以上は聞かなかった。


「今日の記録、清書しておきます」


 ロイドは言った。


「お願いします」


 ロイドが帳面を持って退出すると、執務所には静けさだけが残った。


 夜。


 執務所には、ライルとロイドが残っていた。


 ロイドは向かいの机で、今日の証言記録の封と索引を整えている。


 閉庁後に一人にならない運用は、今も変えていない。


 ライルは、鍵のかかった引き出しを開けた。


 旧受領台帳の欠落した綴りの写し。


 布切れの意匠を写した紙。


 辞令書の余白印の写し。


 鍵を持っていた三人についての、これまでの記録。


 今日、ロイドが清書したばかりのダグラスの証言。


 一枚ずつ、机の上に並べていく。


 いつもと同じ手順だった。


 急がず、決めつけず、事実だけを並べる。


 今日、新しく増えたのは、「鍵」という語が人や役目を指して使われた可能性のある証言だった。


 これまでの記録にある「鍵」は、施錠棚を開ける道具の意味だ。


 鍵を持っていた三人。


 二本に分けた現在の鍵。


 受け渡し記録。


 それらと、今日の呼び名を同じ意味として扱う理由はない。


 音が同じだからといって、証拠を一つにまとめてはいけない。


 ライルは、今日の証言だけを別紙に置いた。


 ——呼称「鍵」。意味・対象者・使用範囲、未確認。


 その一行が、今増えた事実だった。


 だが、今日は、いつもと違う手が、一枚の紙の上で止まった。


 声には、出さなかった。


 結論も、まだ言葉にはしなかった。


 ただ、指先が、その紙の上で、しばらく動かなかった。


 蝋燭の火が、一度だけ大きく揺れて、また落ち着いた。


 ライルは、その紙をすぐには片付けず、しばらくの間、机の上に置いたままにしていた。


 窓の外、ガルダの夜は、いつも通り静かだった。


 その静けさの中で、ライルは、しばらく紙を見つめていた。


 向かいでは、ロイドの筆が静かに動いていた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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