第七十二話「持ち帰れるもの」
着任二百八十日目、朝。
ガルダからの返書が、継立場経由で届いた。
「引き続き、事実の確認を。ヨナス氏の意思を越えて聴取しないように」
ロイドは、その一文を声に出して読んだ。
続く一文に、ダグラスが顔を上げた。
「ダグラスさんについても、本人が言葉にする前に内容を推定しないでください。体調や安全面には気を配ってください、と」
ダグラスは、しばらく黙っていた。
「気を配っていただかなくても」
「ライル様に言われたから、ではありません」
ロイドは静かに首を振った。
「私も必要だと思っています。体調や安全のことだけです。話したくないことを聞くつもりはありません」
ダグラスは、それ以上、何も言わなかった。
だが、その頬に、わずかに力が入るのが見えた。
その日の予定は、もう一度、記録の保管方法についてヨナスに確認することだった。
昨日の証言の裏付けとして、木札の保管年数と、分家への引き渡し頻度を確認したかった。
権限の範囲内の、事務的な質問のはずだった。
だが、倉庫に着くと、扉は閉まっていた。
受け入れ担当の役人が、少し困った様子で立っていた。
「今日は、ヨナスは休みだそうです」
「体調が」
ロイドが尋ねた。
「いえ、そうではないと思います」
役人は、言葉を選んでいるようだった。
「昨日、少し疲れた、と言っていました。それだけです」
その日は、他の業務に予定を切り替えた。
官倉の帳簿様式、村内の相談窓口の運用、税の徴収記録。
どれも、フェルンの制度導入にとって必要な確認だった。
だが、ロイドの頭の片隅には、閉じたままの倉庫の扉が、ずっと残っていた。
夕方、宿への帰り道、遠くに倉庫の屋根が見えた。
煙突から、細い煙が一筋、上がっていた。
少なくとも、倉庫では火が使われている。
誰がいるのかまでは、わからなかった。
ダグラスも、同じ方向を見ていたが、何も言わなかった。
翌日も、同じだった。
「今日も、休みです」
役人は、申し訳なさそうに言った。
三日目、ロイドは役人に、直接尋ねた。
「私たちが、何か、失礼をしたでしょうか」
「いえ」
役人は、目を伏せた。
「ヨナス自身が、そう決めたようです。しばらく、会いたくない、と」
「理由は」
「聞いていません。聞かない方がいいと、判断しました」
その言い方には、役人自身の中にある、ある種の遠慮が透けて見えた。
ロイドは、それ以上、押さなかった。
押せば、答えは出るかもしれない。
だが、それは、この事前確認の権限を超える。
「あなた自身が『そちら側』に近づいたと感じたら、その時点で退いてください」
出発の朝、ライルに言われた言葉を、ロイドは思い出した。
ここから先へ進めば、ヨナス本人が示した「会いたくない」という意思を越える。
今回の権限も、そこまでは求めていない。
退くべき理由は、十分だった。
「これ以上は、待ちます」
ロイドが言った。
「向こうから話す気になるまで、無理に会いには行きません」
「待つ、というのも、一つの記録の形ですね」
ダグラスが、静かに言った。
「どういう意味ですか」
「何もしなかった、ということではありません。何もしないと、決めた、ということです」
ロイドは、その言葉を、そのまま帳面に書いた。
——ヨナス氏との接触、本人の意向を尊重し以後見合わせる。事前確認の目的の範囲を超えるため。
「わかりました」
ダグラスは、静かに頷いた。
その声に、落胆はなかった。
どこか、覚悟のようなものがあった。
その夜、ダグラスが、ロイドの部屋を訪れた。
珍しいことだった。
「少し、よろしいですか」
「どうぞ」
ダグラスは、椅子に座らず、立ったまま話し始めた。
「ヨナスさんが言った、あの響き」
「はい」
「私も、同じ響きを、聞いたことがあります」
ロイドは、筆を置いた。
「以前、まだ言えないと話した、あの呼び名ですか」
「はい」
ダグラスは、まっすぐロイドを見た。
「同じ呼び名を指している可能性が高いと思います。ヨナスさんは実際の音を全部言っていません。だから、まだ一致したとは言えません」
「記録しますか」
ロイドが尋ねた。
「いえ」
ダグラスは、首を振った。
「ここでは、話しません」
「ガルダに戻ったら、話します」
ダグラスは、続けた。
「ロイドさんにではなく、ライル様に。全部」
「なぜ、ここでは」
「ここは、まだ、フェルンです」
ダグラスは、窓の外を見た。
「ここで呼び名そのものを口にするのが、怖いんです。誰に聞かれるかもわからない」
「ヨナスさんのため、ですか」
「それもあります」
ダグラスは答えた。
「ただ、あの人が本当に何を恐れているかは、私にもわかりません。自分と重ねて見ているだけかもしれない」
「そこは、分けておきます」
「お願いします」
ダグラスは、短く認めた。
「だから、ここでは話しません。ガルダで、ライル様の前で話します。逃げも隠れもしない場所で」
ロイドは、しばらく黙っていた。
「わかりました」
「無理に、聞き出しません」
「今、聞かれても、多分、うまく話せません」
ダグラスは、初めて、少しだけ表情を緩めた。
「順番を、間違えたくないんです」
ロイドは、その言葉を、そのまま受け取った。
中身を聞かないまま、決意だけを、正式記録とは別の欄に書き添えた。
——ダグラス氏、フェルンでの証言に関連し、ガルダにてライル様へ直接報告する意志を表明。内容は本人の意向により、現時点では非開示。
それだけで、十分だった。
出発の準備が整ったのは、ヨナスが三日続けて姿を見せなかった、その翌朝のことだった。
フェルンでの事前確認は、当初の目的については必要な材料を得ていた。
現在の受付。
文書保管。
官倉運用。
目録の不足。
制度導入前に確認すべき点は、すでに整理できている。
ヨナスの件は、その途中で偶然加わった別の情報だった。
ロイドは、最後の報告書に、そう書いた。
——簡易来訪は口頭中心。税・契約記録は別系統。古い文書は別庫保管で、現行目録と完全には対応していない。制度導入にあたっては、まず文書総目録の作成が必要。
——官倉の木札運用には、誤記を消さず訂正する手順がすでに存在する。既存運用として活用可能。
——倉庫番ヨナス氏から、自発的に過去の「呼び方」に関する証言あり。本人の意向により追加聴取は停止。監査事項との関係は未判定。
「わからないことを、わかったことにはしない」
ロイドは、その一文を、最後にもう一度、自分の帳面にも書いた。
受け入れ担当の役人に、挨拶をした。
「短い間でしたが、お世話になりました」
「こちらこそ」
役人は、丁寧に頭を下げた。
「学ばれたことが、少しでも、お役に立てば」
「立つと思います」
ロイドは言った。
「今回、学んだのは、手順だけではありませんでした」
役人は、その言葉の意味を、深く尋ねはしなかった。
ただ、少しだけ、寂しそうな顔をした。
荷馬車に乗り込む間際、ダグラスが倉庫の方角を見た。
遠く、倉庫の扉が、少しだけ開いていた。
中に、人影があった。
こちらを見ているのか、それとも、ただ立っているだけなのか、距離があって、わからなかった。
ダグラスは、その人影に向かって、小さく頭を下げた。
応える動きは、なかった。
それでも、ダグラスは、それでいいというように、馬車に乗り込んだ。
「見えましたか」
ロイドが尋ねた。
「見えました」
「何か、感じましたか」
「わかりません」
ダグラスは、少しだけ笑った。
「行きと、同じ答えですね」
「そうですね」
「ですが、今は、それでいいと思っています」
馬車が、フェルンを出た。
来た時と同じ道を、今度は逆向きに進む。
しばらく、二人とも黙っていた。
「行きの時より、静かですね」
ロイドが言った。
「そうでしょうか」
「はい。行きは、緊張していました。今は」
「今は、違う種類の緊張です」
ダグラスは言った。
「話すことを、決めた緊張です」
着任二百八十三日目。
フェルンを出た一日目の夜。
宿でロイドが尋ねた。
「眠れそうですか」
「わかりません」
ダグラスは少し笑った。
「行きと、同じ答えですね」
「はい」
「ですが、中身は違います」
ダグラスは窓の外を見た。
「行きは、怖くて眠れないと思っていました。今は」
「今は」
「話したあとの自分が、想像できなくて眠れません」
その声は、恐れだけではなかった。
「償い、という言葉を、ずっと使ってきました」
ダグラスは続けた。
「償ったとは思っていません、と。何度も、そう言いました」
「はい」
「でも、今回のことで、少し違う考えが浮かびました」
「どんな」
「償うことと、伝えることは、同じではないのかもしれません」
ダグラスは、自分の言葉を確かめるようにゆっくり言った。
「私は、償うことばかり考えて、伝えることを後回しにしてきた気がします」
ロイドは、何も挟まず聞いた。
「話せば楽になるとは思っていません」
「はい」
「ですが、伝えないまま、これ以上抱えているのは違うと思います」
着任二百八十四日目、昼。
継立場での短い休憩中、ダグラスがふと言った。
「ゲオルグさんや、カイは、元気にしているでしょうか」
「元気だと思います」
ロイドは言った。
「留守中の連絡は、すべて『異常なし』でした」
「そうですか」
ダグラスは少しだけ表情を緩めた。
「戻ったら、まず水路の様子を見に行きたいです」
「話す前に、ですか」
「はい」
ダグラスは頷いた。
「話す前に、ここが変わらずにあることを、自分の目で確かめておきたいんです」
着任二百八十五日目、夕刻。
三日目の道の先に、ガルダの明かりが見え始めた。
「戻りましたね」
ロイドが言った。
「戻りました」
ダグラスは、明かりの方を見たまま、答えた。
「持ち帰れたものは、多くありません」
「そうでしょうか」
ロイドは言った。
「手がかりは、増えました。証言も、記録の類似点も」
「それだけでは、まだ、何も終わっていません」
「終わらせに、戻るわけではありません」
ロイドは言った。
「続けるために、戻ります」
ダグラスは、その言葉に、小さく頷いた。
灯りが、少しずつ近づいてくる。
執務所の窓にも、明かりがついているはずだった。
空いていた二つの椅子に、今夜、また誰かが座る。
ダグラスは、懐の中の記憶メモ用の帳面に、そっと触れた。
フェルンで見聞きした細かなことは書いた。
だが、呼び名そのものだけは、まだ書いていない。
最初に残す相手を、自分で決めたからだった。
馬車が、ガルダの門へと、静かに近づいていく。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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