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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第七十二話「持ち帰れるもの」

 着任二百八十日目、朝。


 ガルダからの返書が、継立場経由で届いた。


「引き続き、事実の確認を。ヨナス氏の意思を越えて聴取しないように」


 ロイドは、その一文を声に出して読んだ。


 続く一文に、ダグラスが顔を上げた。


「ダグラスさんについても、本人が言葉にする前に内容を推定しないでください。体調や安全面には気を配ってください、と」


 ダグラスは、しばらく黙っていた。


「気を配っていただかなくても」


「ライル様に言われたから、ではありません」


 ロイドは静かに首を振った。


「私も必要だと思っています。体調や安全のことだけです。話したくないことを聞くつもりはありません」


 ダグラスは、それ以上、何も言わなかった。


 だが、その頬に、わずかに力が入るのが見えた。


 その日の予定は、もう一度、記録の保管方法についてヨナスに確認することだった。


 昨日の証言の裏付けとして、木札の保管年数と、分家への引き渡し頻度を確認したかった。


 権限の範囲内の、事務的な質問のはずだった。


 だが、倉庫に着くと、扉は閉まっていた。


 受け入れ担当の役人が、少し困った様子で立っていた。


「今日は、ヨナスは休みだそうです」


「体調が」


 ロイドが尋ねた。


「いえ、そうではないと思います」


 役人は、言葉を選んでいるようだった。


「昨日、少し疲れた、と言っていました。それだけです」


 その日は、他の業務に予定を切り替えた。


 官倉の帳簿様式、村内の相談窓口の運用、税の徴収記録。


 どれも、フェルンの制度導入にとって必要な確認だった。


 だが、ロイドの頭の片隅には、閉じたままの倉庫の扉が、ずっと残っていた。


 夕方、宿への帰り道、遠くに倉庫の屋根が見えた。


 煙突から、細い煙が一筋、上がっていた。


 少なくとも、倉庫では火が使われている。


 誰がいるのかまでは、わからなかった。


 ダグラスも、同じ方向を見ていたが、何も言わなかった。


 翌日も、同じだった。


「今日も、休みです」


 役人は、申し訳なさそうに言った。


 三日目、ロイドは役人に、直接尋ねた。


「私たちが、何か、失礼をしたでしょうか」


「いえ」


 役人は、目を伏せた。


「ヨナス自身が、そう決めたようです。しばらく、会いたくない、と」


「理由は」


「聞いていません。聞かない方がいいと、判断しました」


 その言い方には、役人自身の中にある、ある種の遠慮が透けて見えた。


 ロイドは、それ以上、押さなかった。


 押せば、答えは出るかもしれない。


 だが、それは、この事前確認の権限を超える。


「あなた自身が『そちら側』に近づいたと感じたら、その時点で退いてください」


 出発の朝、ライルに言われた言葉を、ロイドは思い出した。


 ここから先へ進めば、ヨナス本人が示した「会いたくない」という意思を越える。


 今回の権限も、そこまでは求めていない。


 退くべき理由は、十分だった。


「これ以上は、待ちます」


 ロイドが言った。


「向こうから話す気になるまで、無理に会いには行きません」


「待つ、というのも、一つの記録の形ですね」


 ダグラスが、静かに言った。


「どういう意味ですか」


「何もしなかった、ということではありません。何もしないと、決めた、ということです」


 ロイドは、その言葉を、そのまま帳面に書いた。


 ——ヨナス氏との接触、本人の意向を尊重し以後見合わせる。事前確認の目的の範囲を超えるため。


「わかりました」


 ダグラスは、静かに頷いた。


 その声に、落胆はなかった。


 どこか、覚悟のようなものがあった。


 その夜、ダグラスが、ロイドの部屋を訪れた。


 珍しいことだった。


「少し、よろしいですか」


「どうぞ」


 ダグラスは、椅子に座らず、立ったまま話し始めた。


「ヨナスさんが言った、あの響き」


「はい」


「私も、同じ響きを、聞いたことがあります」


 ロイドは、筆を置いた。


「以前、まだ言えないと話した、あの呼び名ですか」


「はい」


 ダグラスは、まっすぐロイドを見た。


「同じ呼び名を指している可能性が高いと思います。ヨナスさんは実際の音を全部言っていません。だから、まだ一致したとは言えません」


「記録しますか」


 ロイドが尋ねた。


「いえ」


 ダグラスは、首を振った。


「ここでは、話しません」


「ガルダに戻ったら、話します」


 ダグラスは、続けた。


「ロイドさんにではなく、ライル様に。全部」


「なぜ、ここでは」


「ここは、まだ、フェルンです」


 ダグラスは、窓の外を見た。


「ここで呼び名そのものを口にするのが、怖いんです。誰に聞かれるかもわからない」


「ヨナスさんのため、ですか」


「それもあります」


 ダグラスは答えた。


「ただ、あの人が本当に何を恐れているかは、私にもわかりません。自分と重ねて見ているだけかもしれない」


「そこは、分けておきます」


「お願いします」


 ダグラスは、短く認めた。


「だから、ここでは話しません。ガルダで、ライル様の前で話します。逃げも隠れもしない場所で」


 ロイドは、しばらく黙っていた。


「わかりました」


「無理に、聞き出しません」


「今、聞かれても、多分、うまく話せません」


 ダグラスは、初めて、少しだけ表情を緩めた。


「順番を、間違えたくないんです」


 ロイドは、その言葉を、そのまま受け取った。


 中身を聞かないまま、決意だけを、正式記録とは別の欄に書き添えた。


 ——ダグラス氏、フェルンでの証言に関連し、ガルダにてライル様へ直接報告する意志を表明。内容は本人の意向により、現時点では非開示。


 それだけで、十分だった。


 出発の準備が整ったのは、ヨナスが三日続けて姿を見せなかった、その翌朝のことだった。


 フェルンでの事前確認は、当初の目的については必要な材料を得ていた。


 現在の受付。


 文書保管。


 官倉運用。


 目録の不足。


 制度導入前に確認すべき点は、すでに整理できている。


 ヨナスの件は、その途中で偶然加わった別の情報だった。


 ロイドは、最後の報告書に、そう書いた。


 ——簡易来訪は口頭中心。税・契約記録は別系統。古い文書は別庫保管で、現行目録と完全には対応していない。制度導入にあたっては、まず文書総目録の作成が必要。


 ——官倉の木札運用には、誤記を消さず訂正する手順がすでに存在する。既存運用として活用可能。


 ——倉庫番ヨナス氏から、自発的に過去の「呼び方」に関する証言あり。本人の意向により追加聴取は停止。監査事項との関係は未判定。


「わからないことを、わかったことにはしない」


 ロイドは、その一文を、最後にもう一度、自分の帳面にも書いた。


 受け入れ担当の役人に、挨拶をした。


「短い間でしたが、お世話になりました」


「こちらこそ」


 役人は、丁寧に頭を下げた。


「学ばれたことが、少しでも、お役に立てば」


「立つと思います」


 ロイドは言った。


「今回、学んだのは、手順だけではありませんでした」


 役人は、その言葉の意味を、深く尋ねはしなかった。


 ただ、少しだけ、寂しそうな顔をした。


 荷馬車に乗り込む間際、ダグラスが倉庫の方角を見た。


 遠く、倉庫の扉が、少しだけ開いていた。


 中に、人影があった。


 こちらを見ているのか、それとも、ただ立っているだけなのか、距離があって、わからなかった。


 ダグラスは、その人影に向かって、小さく頭を下げた。


 応える動きは、なかった。


 それでも、ダグラスは、それでいいというように、馬車に乗り込んだ。


「見えましたか」


 ロイドが尋ねた。


「見えました」


「何か、感じましたか」


「わかりません」


 ダグラスは、少しだけ笑った。


「行きと、同じ答えですね」


「そうですね」


「ですが、今は、それでいいと思っています」


 馬車が、フェルンを出た。


 来た時と同じ道を、今度は逆向きに進む。


 しばらく、二人とも黙っていた。


「行きの時より、静かですね」


 ロイドが言った。


「そうでしょうか」


「はい。行きは、緊張していました。今は」


「今は、違う種類の緊張です」


 ダグラスは言った。


「話すことを、決めた緊張です」


 着任二百八十三日目。


 フェルンを出た一日目の夜。


 宿でロイドが尋ねた。


「眠れそうですか」


「わかりません」


 ダグラスは少し笑った。


「行きと、同じ答えですね」


「はい」


「ですが、中身は違います」


 ダグラスは窓の外を見た。


「行きは、怖くて眠れないと思っていました。今は」


「今は」


「話したあとの自分が、想像できなくて眠れません」


 その声は、恐れだけではなかった。


「償い、という言葉を、ずっと使ってきました」


 ダグラスは続けた。


「償ったとは思っていません、と。何度も、そう言いました」


「はい」


「でも、今回のことで、少し違う考えが浮かびました」


「どんな」


「償うことと、伝えることは、同じではないのかもしれません」


 ダグラスは、自分の言葉を確かめるようにゆっくり言った。


「私は、償うことばかり考えて、伝えることを後回しにしてきた気がします」


 ロイドは、何も挟まず聞いた。


「話せば楽になるとは思っていません」


「はい」


「ですが、伝えないまま、これ以上抱えているのは違うと思います」


 着任二百八十四日目、昼。


 継立場での短い休憩中、ダグラスがふと言った。


「ゲオルグさんや、カイは、元気にしているでしょうか」


「元気だと思います」


 ロイドは言った。


「留守中の連絡は、すべて『異常なし』でした」


「そうですか」


 ダグラスは少しだけ表情を緩めた。


「戻ったら、まず水路の様子を見に行きたいです」


「話す前に、ですか」


「はい」


 ダグラスは頷いた。


「話す前に、ここが変わらずにあることを、自分の目で確かめておきたいんです」


 着任二百八十五日目、夕刻。


 三日目の道の先に、ガルダの明かりが見え始めた。


「戻りましたね」


 ロイドが言った。


「戻りました」


 ダグラスは、明かりの方を見たまま、答えた。


「持ち帰れたものは、多くありません」


「そうでしょうか」


 ロイドは言った。


「手がかりは、増えました。証言も、記録の類似点も」


「それだけでは、まだ、何も終わっていません」


「終わらせに、戻るわけではありません」


 ロイドは言った。


「続けるために、戻ります」


 ダグラスは、その言葉に、小さく頷いた。


 灯りが、少しずつ近づいてくる。


 執務所の窓にも、明かりがついているはずだった。


 空いていた二つの椅子に、今夜、また誰かが座る。


 ダグラスは、懐の中の記憶メモ用の帳面に、そっと触れた。


 フェルンで見聞きした細かなことは書いた。


 だが、呼び名そのものだけは、まだ書いていない。


 最初に残す相手を、自分で決めたからだった。


 馬車が、ガルダの門へと、静かに近づいていく。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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