第七十一話「呼び名」
着任二百七十五日目、朝。
昨日と同じ道を、ロイドとダグラスは歩いた。
今日の予定は、官倉の受け渡し記録の確認だけだった。
倉庫番に会う予定は、入っていなかった。
だが、倉庫の前に、ヨナスが立っていた。
数える相手のいない場所で、ただ、こちらを見ていた。
「おはようございます」
ロイドが、いつも通りに声をかけた。
「昨日のことで」
ヨナスは、前置きなしに言った。
「一つ、直したいことがあります」
「直したい、というのは」
「私が答えた木札の話です。あの通りで、間違いはありません。ただ」
ヨナスは、そこで言葉を止めた。
「ただ?」
「記録は、正しくあるべきだと思っています。だから、言っておきたいことが」
その言い方に、ロイドは筆を止めた。
何かを訂正するための言葉ではなかった。
何かを、付け足すための言葉だった。
「伺います」
ロイドは、静かに帳面を構えた。
ダグラスは、少し離れた場所で、動かずにいた。
昨日、約束した通り、前へは出なかった。
「昨日、この木札のやり方は長く続けているだけだ、と申し上げました」
ヨナスは言った。
「それは、少し正確ではありません」
ロイドは、黙って待った。
「このやり方を始めた頃のことを、全部忘れたわけではない」
ヨナスは目を伏せた。
「あの頃、私を知っていた人たちがいました。名前ではなく、呼び方で呼ぶ人たちでした」
「呼び方」
ロイドが、静かに繰り返した。
「名前ではない、というのは」
「役目のような呼び方です。誰にでも、そう呼ぶわけではありません」
「どんな響きでしたか」
ロイドが尋ねた。
ヨナスは、少し長く黙った。
棚に積まれた木札が、風もないのに、かすかに鳴った。
「短い響きでした。硬い音が、一つ」
「それだけ、しか」
「それだけです。全部は、言えません」
「言えない、理由は」
「言葉にすると、戻ってくるものがあります」
ヨナスは、初めて、まっすぐロイドを見た。
「戻ってきてほしくないものが」
その目には、無関心とは違う色があった。
ロイドには、そう見えた。
「一つ、伺ってもいいですか」
ロイドが言った。
「なぜ、今、それを話してくださったんですか」
ヨナスは、しばらく黙った。
「昨日、あなた方が帰った後、考えました」
彼は、木札の束を、指先で揃え直しながら言った。
「間違った形で残るくらいなら、少しだけでも、自分の言葉で残した方がいい。そう思っただけです」
「間違った形、というのは」
「わかりません。ただ、そう思いました」
それ以上の説明はなかった。
だが、その一言には、記録というものへの、独特の重みがあった。
役人としてではなく、記録そのものを気にかける者の言い方だった。
その時、ダグラスの手が、かすかに動いた。
帳面を持つ手ではない。
何も持っていない、右手だった。
指が、一度だけ、握られて、開いた。
ロイドは、それを見た。
だが、何も言わなかった。
ダグラスも、何も言わなかった。
「硬い音が、一つ」
その言葉だけが、二人の間に、しばらく残った。
ダグラスは、以前、自分の口で「一度だけ、呼び名を聞いたことがある」と話している。
その内容は、まだ誰にも明かしていない。
今、ヨナスが口にした「短く、硬い音」という説明に、何かが引っかかった。
同じものかもしれない。
違うかもしれない。
その場で口にすれば、ヨナスの証言へ自分の記憶を重ねてしまう。
だから、ダグラスは何も言わなかった。
言葉にすれば、それは記録になる。
記録にすれば、もう、曖昧なままではいられなくなる。
今は、まだ、その時ではなかった。
「これ以上は、聞きません」
ロイドが言った。
「無理に、話していただく必要はありません」
「ありがとうございます」
ヨナスは、小さく頭を下げた。
「ただ、記録には、正しく残してほしいと思いました」
「残します。今、伺ったことだけを」
ロイドは、帳面にそう書いた。
——ヨナス氏、過去に「呼び方」で呼ばれた経験があると自発的に証言。内容の詳細は本人の意向により未開示。響きの一部(短く、硬い音)のみ聴取。
「今日は、ここまでで」
ヨナスは、そう言うと、倉庫の中へ戻っていった。
呼び止める理由は、なかった。
官倉の受け渡し記録の確認は、その後、通常通りに進んだ。
だが、ロイドの手は、いつもより、少しだけ速く動いていた。
昼過ぎ、宿に戻ってすぐ、ロイドは報告書を書き始めた。
事実だけを、順番に並べる。
感想は、書かない。
断定は、しない。
ダグラスの手が動いたことは、ロイドも見ていた。
だが、それは今回の証言内容を裏づける事実ではない。
意味も、本人から語られていない。
正式報告には入れなかった。
代わりに、ヨナス自身が自発的に話した内容だけを記す。
——過去、名前ではない「呼び方」で呼ばれた経験あり。
——本人の説明では、役目のような呼び方。
——響きについて「短く、硬い音が一つ」と表現。
——詳細は本人の意思により未開示。
それでも、この報告は、いつもの「異常なし」とは違った。
「今日の連絡に載せますか」
ダグラスが尋ねた。
「載せます」
ロイドは封を閉じた。
「ただし、緊急扱いにはしません。今、誰かに危険が迫っていると確認できたわけではありません」
「では」
「定時の優先連絡です。今回の事前確認で新しい証言が出た。それを、早めに共有する」
二人は、その足で継立場へ向かった。
担当役人に封書を渡す。
受領時刻と宛先を確認し、控えに署名をもらった。
「順調なら、明後日中にはガルダへ入ります」
役人が言った。
「お願いします」
ロイドは、それ以上急がせなかった。
土埃が、しばらく尾を引いて、消えた。
「ここから先は、記録が残るんですね」
ダグラスが言った。
「はい」
ロイドは答えた。
「届いたかどうかも、後で照合できます」
宿へ戻る道、二人はしばらく無言だった。
「ダグラスさん」
ロイドが、ふと口を開いた。
「今日のこと、話したいことがあれば、聞きます」
「今は、まだ」
ダグラスは、首を振った。
「うまく、言葉にできません」
「無理には、聞きません」
「ありがとうございます」
その夜、隣の部屋から、物音はしなかった。
だが、蝋燭の明かりだけは、遅くまで消えなかった。
ダグラスが、何も書かれていない自分の帳面に、何かを書いているのか。
それとも、ただ、灯りをつけたまま、考えているだけなのか。
ロイドには、わからなかった。
わからないことは、わからないままにしておいた。
*
ガルダ、着任二百七十七日目、夜。
執務所の灯りは、まだ消えていなかった。
ライルは、留守中の受付記録に目を通していた。
ミラが集めた事実だけの記録は、いつも通り整っていた。
誤記は消さず、訂正線。追記日と署名。
二人がいなくても、執務所は、いつもの形を保っていた。
「今日は、これで最後です」
ミラが、最後の一件を報告し、帳面を閉じた。
「変わったことは」
「ありません。水路も、官倉も、いつも通りです」
「ご苦労様でした」
ミラが退出した後も、ヴェクが奥の机で翌朝の官倉札をまとめていた。
閉庁後、一人にならない運用は続けている。
フェルンからの連絡は、まだ届いていない。
届く頃合いだと、頭ではわかっていた。
それでも、待つ間は、いつも少しだけ長く感じられる。
扉を叩く音がした。
継立場からの使いだった。
「フェルンより、優先連絡が一通です」
ライルは、封を確かめた。
継立場の印と、ロイドの筆跡。
破損はない。
その場で、封を切った。
文面は、短かった。
倉庫番、氏名ヨナス、姓不明。
記録の作法に、ガルダの原本保全記録との類似点あり。
保管されている記録は五年前までで、それ以前は別庫へ移されたとのことだが、時期は不明。
過去に「呼び方」で呼ばれた経験があると自発的に証言。内容は響きの一部のみ、本人の意向で未開示。
ダグラスから、ヨナス氏の証言内容についての追加証言はまだない。
断定できることは、まだない。
引き続き、権限の範囲内で確認を続ける。
ライルは、その紙を、二度読んだ。
一度目は、事実を追うために。
二度目は、行間を読まないために。
「硬い音が、一つ」
その一文だけが、何度も、頭の中に残った。
前世で読んだ、無数の報告書のことを思い出す。
断片は、いつも、こうして届いた。
全部が揃う前に、何かが起きることもあった。
だから今度は、断片のまま、次の断片を待つ。
早まって、線を引かない。
今回増えたのは、印の証拠ではない。
「呼び名」に関する、別の人物からの証言だった。
ダグラスも以前、名ではない呼び方を聞いたことがあると話している。
だが、その内容はまだ開示されていない。
比較するなら、ダグラス本人の言葉が出てからだ。
余白印や布片と、同じ机へ並べる段階でもない。
ライルは白紙を一枚、机に置いた。
返書を書き始めた。
「引き続き、事実の確認を。ヨナス氏の意思を越えて聴取しないように」
そこまで書いて、筆を止めた。
もう一行だけ加える。
「ダグラスさんについても、本人が言葉にする前に内容を推定しないでください。体調や安全面には気を配ってください」
書き終えて、もう一度、読み返した。
命令ではなく、頼みごとのような一文になっていた。
それでいい、とライルは思った。
蝋燭の火が、小さく揺れた。
窓の外は、ガルダの、いつもの夜だった。
水路の音が、遠くから、かすかに届く。
だが、ライルの中では、何かが、静かに動き始めていた。
封をして、明日の連絡便に託す場所へ置く。
机の上に残ったのは、フェルンからの一通だけだった。
比較する相手は、まだ紙の上にない。
ダグラス自身の言葉を待つしかない。
蝋燭を消す前に、もう一度だけ文面へ目を落とした。
「硬い音が、一つ、か」
声に出さず、口の中だけで、その言葉を繰り返した。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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