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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第七十一話「呼び名」

 着任二百七十五日目、朝。


 昨日と同じ道を、ロイドとダグラスは歩いた。


 今日の予定は、官倉の受け渡し記録の確認だけだった。


 倉庫番に会う予定は、入っていなかった。


 だが、倉庫の前に、ヨナスが立っていた。


 数える相手のいない場所で、ただ、こちらを見ていた。


「おはようございます」


 ロイドが、いつも通りに声をかけた。


「昨日のことで」


 ヨナスは、前置きなしに言った。


「一つ、直したいことがあります」


「直したい、というのは」


「私が答えた木札の話です。あの通りで、間違いはありません。ただ」


 ヨナスは、そこで言葉を止めた。


「ただ?」


「記録は、正しくあるべきだと思っています。だから、言っておきたいことが」


 その言い方に、ロイドは筆を止めた。


 何かを訂正するための言葉ではなかった。


 何かを、付け足すための言葉だった。


「伺います」


 ロイドは、静かに帳面を構えた。


 ダグラスは、少し離れた場所で、動かずにいた。


 昨日、約束した通り、前へは出なかった。


「昨日、この木札のやり方は長く続けているだけだ、と申し上げました」


 ヨナスは言った。


「それは、少し正確ではありません」


 ロイドは、黙って待った。


「このやり方を始めた頃のことを、全部忘れたわけではない」


 ヨナスは目を伏せた。


「あの頃、私を知っていた人たちがいました。名前ではなく、呼び方で呼ぶ人たちでした」


「呼び方」


 ロイドが、静かに繰り返した。


「名前ではない、というのは」


「役目のような呼び方です。誰にでも、そう呼ぶわけではありません」


「どんな響きでしたか」


 ロイドが尋ねた。


 ヨナスは、少し長く黙った。


 棚に積まれた木札が、風もないのに、かすかに鳴った。


「短い響きでした。硬い音が、一つ」


「それだけ、しか」


「それだけです。全部は、言えません」


「言えない、理由は」


「言葉にすると、戻ってくるものがあります」


 ヨナスは、初めて、まっすぐロイドを見た。


「戻ってきてほしくないものが」


 その目には、無関心とは違う色があった。


 ロイドには、そう見えた。


「一つ、伺ってもいいですか」


 ロイドが言った。


「なぜ、今、それを話してくださったんですか」


 ヨナスは、しばらく黙った。


「昨日、あなた方が帰った後、考えました」


 彼は、木札の束を、指先で揃え直しながら言った。


「間違った形で残るくらいなら、少しだけでも、自分の言葉で残した方がいい。そう思っただけです」


「間違った形、というのは」


「わかりません。ただ、そう思いました」


 それ以上の説明はなかった。


 だが、その一言には、記録というものへの、独特の重みがあった。


 役人としてではなく、記録そのものを気にかける者の言い方だった。


 その時、ダグラスの手が、かすかに動いた。


 帳面を持つ手ではない。


 何も持っていない、右手だった。


 指が、一度だけ、握られて、開いた。


 ロイドは、それを見た。


 だが、何も言わなかった。


 ダグラスも、何も言わなかった。


「硬い音が、一つ」


 その言葉だけが、二人の間に、しばらく残った。


 ダグラスは、以前、自分の口で「一度だけ、呼び名を聞いたことがある」と話している。


 その内容は、まだ誰にも明かしていない。


 今、ヨナスが口にした「短く、硬い音」という説明に、何かが引っかかった。


 同じものかもしれない。


 違うかもしれない。


 その場で口にすれば、ヨナスの証言へ自分の記憶を重ねてしまう。


 だから、ダグラスは何も言わなかった。


 言葉にすれば、それは記録になる。


 記録にすれば、もう、曖昧なままではいられなくなる。


 今は、まだ、その時ではなかった。


「これ以上は、聞きません」


 ロイドが言った。


「無理に、話していただく必要はありません」


「ありがとうございます」


 ヨナスは、小さく頭を下げた。


「ただ、記録には、正しく残してほしいと思いました」


「残します。今、伺ったことだけを」


 ロイドは、帳面にそう書いた。


 ——ヨナス氏、過去に「呼び方」で呼ばれた経験があると自発的に証言。内容の詳細は本人の意向により未開示。響きの一部(短く、硬い音)のみ聴取。


「今日は、ここまでで」


 ヨナスは、そう言うと、倉庫の中へ戻っていった。


 呼び止める理由は、なかった。


 官倉の受け渡し記録の確認は、その後、通常通りに進んだ。


 だが、ロイドの手は、いつもより、少しだけ速く動いていた。


 昼過ぎ、宿に戻ってすぐ、ロイドは報告書を書き始めた。


 事実だけを、順番に並べる。


 感想は、書かない。


 断定は、しない。


 ダグラスの手が動いたことは、ロイドも見ていた。


 だが、それは今回の証言内容を裏づける事実ではない。


 意味も、本人から語られていない。


 正式報告には入れなかった。


 代わりに、ヨナス自身が自発的に話した内容だけを記す。


 ——過去、名前ではない「呼び方」で呼ばれた経験あり。


 ——本人の説明では、役目のような呼び方。


 ——響きについて「短く、硬い音が一つ」と表現。


 ——詳細は本人の意思により未開示。


 それでも、この報告は、いつもの「異常なし」とは違った。


「今日の連絡に載せますか」


 ダグラスが尋ねた。


「載せます」


 ロイドは封を閉じた。


「ただし、緊急扱いにはしません。今、誰かに危険が迫っていると確認できたわけではありません」


「では」


「定時の優先連絡です。今回の事前確認で新しい証言が出た。それを、早めに共有する」


 二人は、その足で継立場へ向かった。


 担当役人に封書を渡す。


 受領時刻と宛先を確認し、控えに署名をもらった。


「順調なら、明後日中にはガルダへ入ります」


 役人が言った。


「お願いします」


 ロイドは、それ以上急がせなかった。


 土埃が、しばらく尾を引いて、消えた。


「ここから先は、記録が残るんですね」


 ダグラスが言った。


「はい」


 ロイドは答えた。


「届いたかどうかも、後で照合できます」


 宿へ戻る道、二人はしばらく無言だった。


「ダグラスさん」


 ロイドが、ふと口を開いた。


「今日のこと、話したいことがあれば、聞きます」


「今は、まだ」


 ダグラスは、首を振った。


「うまく、言葉にできません」


「無理には、聞きません」


「ありがとうございます」


 その夜、隣の部屋から、物音はしなかった。


 だが、蝋燭の明かりだけは、遅くまで消えなかった。


 ダグラスが、何も書かれていない自分の帳面に、何かを書いているのか。


 それとも、ただ、灯りをつけたまま、考えているだけなのか。


 ロイドには、わからなかった。


 わからないことは、わからないままにしておいた。


     *


 ガルダ、着任二百七十七日目、夜。


 執務所の灯りは、まだ消えていなかった。


 ライルは、留守中の受付記録に目を通していた。


 ミラが集めた事実だけの記録は、いつも通り整っていた。


 誤記は消さず、訂正線。追記日と署名。


 二人がいなくても、執務所は、いつもの形を保っていた。


「今日は、これで最後です」


 ミラが、最後の一件を報告し、帳面を閉じた。


「変わったことは」


「ありません。水路も、官倉も、いつも通りです」


「ご苦労様でした」


 ミラが退出した後も、ヴェクが奥の机で翌朝の官倉札をまとめていた。


 閉庁後、一人にならない運用は続けている。


 フェルンからの連絡は、まだ届いていない。


 届く頃合いだと、頭ではわかっていた。


 それでも、待つ間は、いつも少しだけ長く感じられる。


 扉を叩く音がした。


 継立場からの使いだった。


「フェルンより、優先連絡が一通です」


 ライルは、封を確かめた。


 継立場の印と、ロイドの筆跡。


 破損はない。


 その場で、封を切った。


 文面は、短かった。


 倉庫番、氏名ヨナス、姓不明。


 記録の作法に、ガルダの原本保全記録との類似点あり。


 保管されている記録は五年前までで、それ以前は別庫へ移されたとのことだが、時期は不明。


 過去に「呼び方」で呼ばれた経験があると自発的に証言。内容は響きの一部のみ、本人の意向で未開示。


 ダグラスから、ヨナス氏の証言内容についての追加証言はまだない。


 断定できることは、まだない。


 引き続き、権限の範囲内で確認を続ける。


 ライルは、その紙を、二度読んだ。


 一度目は、事実を追うために。


 二度目は、行間を読まないために。


「硬い音が、一つ」


 その一文だけが、何度も、頭の中に残った。


 前世で読んだ、無数の報告書のことを思い出す。


 断片は、いつも、こうして届いた。


 全部が揃う前に、何かが起きることもあった。


 だから今度は、断片のまま、次の断片を待つ。


 早まって、線を引かない。


 今回増えたのは、印の証拠ではない。


 「呼び名」に関する、別の人物からの証言だった。


 ダグラスも以前、名ではない呼び方を聞いたことがあると話している。


 だが、その内容はまだ開示されていない。


 比較するなら、ダグラス本人の言葉が出てからだ。


 余白印や布片と、同じ机へ並べる段階でもない。


 ライルは白紙を一枚、机に置いた。


 返書を書き始めた。


「引き続き、事実の確認を。ヨナス氏の意思を越えて聴取しないように」


 そこまで書いて、筆を止めた。


 もう一行だけ加える。


「ダグラスさんについても、本人が言葉にする前に内容を推定しないでください。体調や安全面には気を配ってください」


 書き終えて、もう一度、読み返した。


 命令ではなく、頼みごとのような一文になっていた。


 それでいい、とライルは思った。


 蝋燭の火が、小さく揺れた。


 窓の外は、ガルダの、いつもの夜だった。


 水路の音が、遠くから、かすかに届く。


 だが、ライルの中では、何かが、静かに動き始めていた。


 封をして、明日の連絡便に託す場所へ置く。


 机の上に残ったのは、フェルンからの一通だけだった。


 比較する相手は、まだ紙の上にない。


 ダグラス自身の言葉を待つしかない。


 蝋燭を消す前に、もう一度だけ文面へ目を落とした。


「硬い音が、一つ、か」


 声に出さず、口の中だけで、その言葉を繰り返した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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