第七十話「見覚えのある手つき」
着任二百七十四日目、朝。
宿を出る前に、ロイドはもう一度、昨日の記録を読み返した。
簡易受付は口頭中心。古い文書は別庫。目録は未整備。
そして、東から来た、大人しい倉庫番。
「今日、会えると思いますか」
ダグラスが尋ねた。
「わかりません」
ロイドは正直に答えた。
「働いていれば会える、としか聞いていません」
「昨日、言われたことを、覚えていますか」
ロイドが、歩きながら尋ねた。
「単独では、近づかない。交渉は、ロイドさんが担当する」
ダグラスは、迷わず答えた。
「忘れていません」
「今日も、同じです」
「はい」
「見覚えがあっても、その場では、確かめません」
「わかっています」
ダグラスの声は、落ち着いていた。
だが、その落ち着きが、逆に、ロイドには少し気にかかった。
朝食を終え、二人は商務分家の建物へ向かった。
受け入れ担当の役人が、すでに表で待っていた。
「倉庫の見学は、こちらです」
案内は丁寧だったが、昨日よりも言葉数が少なかった。
村の北側、石造りの倉庫が三棟並んでいた。
三棟のうち、手前の二棟は、扉に錆びた鎖が巻かれたままだった。
使われていない年数が、外から見てもわかる。
一番奥の棟だけが、扉も壁も、手入れされていた。
「あちらの二棟は」
ロイドが尋ねた。
「もう、使っていません」
役人が答えた。
「今は、あの一棟だけで、足りています」
ロイドは、使われている一棟の広さと、現在の保管量を見た。
それだけでは、本当に一棟で足りるのか判断できない。
季節による保管量の差もある。
——倉庫三棟中、現在使用は一棟。残る二棟は未使用との説明。
事実だけを記録した。
一番奥の棟の扉が、すでに開いていた。
中は、麦と乾いた木の匂いがした。
窓から差す光の筋に、埃がゆっくりと舞っている。
棚には、麻袋が種類ごとに積まれ、木札が一つずつ吊るされていた。
積み方に、乱れがなかった。
中で、一人の男が麻袋を数えていた。
年齢は六十をいくつか超えているように見えた。
痩せた背、白いものの混じった髪、動きに無駄がない。
「倉庫番の、ヨナスです」
役人が紹介した。
男は顔を上げ、軽く頭を下げた。
「よろしく」
姓は、名乗らなかった。
ロイドは、それをそのまま記録した。
——氏名、ヨナス。姓は不明のまま。
「今日は、入出庫の手順を見せていただきたく」
ロイドが言った。
「ガルダから来た方々、と伺っています」
ヨナスは言った。
声は低く、抑揚が薄かった。
「見せられるものは、見せます」
彼はそう言うと、また袋の数を数え始めた。
ヨナスの説明は簡潔だった。
搬入の日付、数量、差出人。
袋の口を縛った紐に、木札を結びつける。
木札には日付と数字だけを書く。
「間違えたら、どうしますか」
ロイドが尋ねた。
「線を引いて、横に書き直します。消しません」
ヨナスは即答した。
「なぜ、消さないんですか」
「消すと、前に何を書いたか、誰にもわからなくなる」
その答えに、ロイドの手が一瞬止まった。
ガルダの保全記録と、同じ理屈だった。
けれど、ロイドはそれを顔に出さなかった。
「今のやり方は、いつ頃から」
「さあ」
ヨナスは首を傾けた。
「長く、こうしてきただけです」
はぐらかしているのか、本当に覚えていないのか、判断がつかなかった。
ロイドは、質問の角度を変えた。
「木札の字は、いつもご自分で」
「ええ」
差し出された木札の束を、ロイドは一枚だけ確かめた。
小さく、几帳面な字だった。
崩さず、まっすぐに書かれている。
ロイドは、字の巧拙ではなく、木札の運用を記録した。
——日付・数量を記載。誤記は消さず訂正。木札は袋へ結束。
それで十分だった。
「一番古い記録は、何年前のものですか」
ロイドが、続けて尋ねた。
「今、ここに置いてあるのは、五年ほど前からです」
ヨナスは、棚の下段を指した。
「それより前は」
「別庫へ移したはずです。詳しくは、わかりません」
「移した時期は」
「覚えていません」
同じ答えが、また返ってきた。
ロイドは、それ以上重ねなかった。
ロイドは、そこでガルダの欠落記録を思い出した。
だが、すぐに分けた。
ガルダは、七、八年前の綴りそのものが原本から抜けていた。
フェルンは、現在の倉庫に五年分があり、それ以前は別庫へ移したという説明がある。
同じではない。
今、確認できるのは、
——現倉庫の木札記録は約五年分。それ以前は別庫へ移管したとの証言。移管時期・別庫側の目録は未確認。
そこまでだった。
ダグラスは、少し離れた場所から、ずっと黙って見ていた。
見ていたのは、顔ではなかった。
木札を結ぶ、指の動き。
紐を二回巻いて、輪を作り、最後に引き締める。
その順番に、見覚えがあった。
——いや、見覚えがある「気が」した。
確信ではない。
だが、目が離せなかった。
指の関節の曲げ方。
紐を引く時の、力の加減。
一つ一つは、些細な癖だった。
だが、些細な癖ほど、人は変えられない。
どこで見た、とまでは、言えない。
ただ、体が、覚えている気がした。
「ダグラスさん」
ロイドが小さく呼んだ。
「……はい」
「何か、気づきましたか」
「わかりません」
ダグラスは、正直に答えた。
「紐の結び方が、少し」
「少し?」
「昔、似た結び方を、見た気がします」
「誰の」
「思い出せません」
ロイドは、それ以上、聞かなかった。
その時、ヨナスがふと顔を上げた。
視線が、ダグラスの方へ向いた。
一瞬だけだった。
すぐに、袋の数へ戻った。
「そちらの方は」
ヨナスが、ロイドに尋ねた。
感情の読めない声だった。
「同行のダグラスです。ガルダで行政実務を担当しています」
ロイドは、それだけ答えた。
ヨナスは一度ダグラスを見た。
それ以上、肩書きについては尋ねなかった。
ヨナスは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、木札を持つ手が一拍だけ止まった。
止まった後、また動き出した。
理由はわからない。
ロイドは正式記録には入れず、自分の印象メモへ、
——ダグラス紹介時、ヨナス氏の手が一度停止。
とだけ残した。
「今日の記録は、どちらに保管を」
ロイドが尋ねた。
「一年分たまったら、分家の方へ、まとめて渡します」
「その後は」
「知りません。渡した後のことは、私の仕事ではありません」
言い切り方が、少しだけ早かった。
ロイドは、その速さだけを記録した。
「この木札のやり方を、どれくらい続けていますか」
ロイドが尋ねた。
「長いことです」
「五年以上は」
「ええ」
「始めた時から、訂正は消さない形でしたか」
ヨナスは少しだけ間を置いた。
「そうだったと思います」
「誰かに教わったのか、ご自分で決めたのかは」
「……覚えていません」
ロイドは、それ以上重ねなかった。
今回確かめたいのは、現在の運用と、その運用がいつ頃から続いているかまで。
個人の出自や過去を探ることは、技術協力の権限ではない。
役人が、時間を見て声をかけた。
「そろそろ、次の場所へご案内します」
「ありがとうございました」
ロイドは、ヨナスに頭を下げた。
ヨナスは、顔を上げず、小さく頷いただけだった。
倉庫を出る間際、ダグラスがもう一度振り返った。
ヨナスは、もう袋の方を向いていた。
その背中に、何かを言いかけて、ダグラスは口を閉じた。
役人が、少し離れた場所で、その様子を見ていた。
何かを言うでもなく、ただ、見ていた。
その視線もまた、ロイドは記録に残すべきかどうか、迷った末に、印象メモへ加えた。
「今日は、これで良かったんですか」
外へ出てから、ロイドが尋ねた。
「良かったと思います」
ダグラスは言った。
「今、名前を聞くべきではありません」
「はい」
「まだ、何も、確かめていません」
その声は、自分に言い聞かせているようだった。
宿に戻り、ロイドは今日の記録をまとめた。
搬入日、数量、差出人、木札の書式。
訂正は消さず、横に書き直す。
理由を聞くと、「前に何を書いたか、わからなくなるから」と答えた。
そこまで書いて、ロイドは手を止めた。
引き出しから、ガルダの手順書の写しを取り出す。
原本保全記録の項目を、並べて置いた。
——誤記は消さず、訂正線。追記日と署名。
字面は違う。だが、考え方は同じだった。
「同じ」ではなく、「似ている」。
まだ、そう書くべきだった。
だが、その「似ている」が、今日はやけに重く感じられた。
ロイドは、印象メモの欄に、短く記した。
——記録の作法、ガルダの原本保全記録と類似点あり。断定はしない。
隣の部屋から、物音はしなかった。
ダグラスは、まだ起きているはずだった。
自分だけの帳面に、何かを書いているのかもしれない。
ロイドは、蝋燭の火を、そのままにしておいた。
窓の外、フェルンの夜は、今日も静かだった。
静かすぎる夜に、もう慣れかけている自分に、ロイドは気づいた。
慣れは、油断と紙一重だ。
扉を、軽く叩く音がした。
「まだ、起きていますか」
ダグラスの声だった。
「起きています」
ロイドが答えると、扉が静かに開いた。
「今日のことで、一つだけ」
ダグラスは、部屋には入らず、戸口に立ったまま言った。
「古い記録が、今の倉庫にはないという話です」
「はい」
「ガルダと、同じだと思いますか」
「今の時点では、違います」
ロイドは答えた。
「ガルダは原本の一部が欠けていました。こちらは、別庫へ移したという説明がある。別庫の目録が未確認なだけです」
「同じに見えても、まだ同じではない」
「はい」
「わかったことには、しない」
ダグラスが、その先を引き取った。
「はい」
「……そうですね」
ダグラスは、小さく頷き、静かに扉を閉めた。
ロイドは、もう一度、今日の記録を読み返した。
事実と、事実でないもの。
その境界線を、もう一度、引き直した。
紐の結び方に覚えがあるという、ダグラスの感覚。
消さない訂正線。
五年より前の記録は別庫へ移したという説明。
性質の違う三つを、一つの証拠にはしない。
ただ、それぞれ次に何を確認すべきかは見えてきた。
紐の記憶は、ダグラス自身が確かめる。
訂正方法は、運用として記録する。
古い記録は、目録の整備から始める。
ロイドは、その三つを別々の欄へ残した。
ロイドは、帳面を閉じ、明日の予定を確かめた。
明日も、同じ場所へ、同じ理由で向かう。
ただの入出庫記録の確認として。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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