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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第七十話「見覚えのある手つき」

 着任二百七十四日目、朝。


 宿を出る前に、ロイドはもう一度、昨日の記録を読み返した。


 簡易受付は口頭中心。古い文書は別庫。目録は未整備。


 そして、東から来た、大人しい倉庫番。


「今日、会えると思いますか」


 ダグラスが尋ねた。


「わかりません」


 ロイドは正直に答えた。


「働いていれば会える、としか聞いていません」


「昨日、言われたことを、覚えていますか」


 ロイドが、歩きながら尋ねた。


「単独では、近づかない。交渉は、ロイドさんが担当する」


 ダグラスは、迷わず答えた。


「忘れていません」


「今日も、同じです」


「はい」


「見覚えがあっても、その場では、確かめません」


「わかっています」


 ダグラスの声は、落ち着いていた。


 だが、その落ち着きが、逆に、ロイドには少し気にかかった。


 朝食を終え、二人は商務分家の建物へ向かった。


 受け入れ担当の役人が、すでに表で待っていた。


「倉庫の見学は、こちらです」


 案内は丁寧だったが、昨日よりも言葉数が少なかった。


 村の北側、石造りの倉庫が三棟並んでいた。


 三棟のうち、手前の二棟は、扉に錆びた鎖が巻かれたままだった。


 使われていない年数が、外から見てもわかる。


 一番奥の棟だけが、扉も壁も、手入れされていた。


「あちらの二棟は」


 ロイドが尋ねた。


「もう、使っていません」


 役人が答えた。


「今は、あの一棟だけで、足りています」


 ロイドは、使われている一棟の広さと、現在の保管量を見た。


 それだけでは、本当に一棟で足りるのか判断できない。


 季節による保管量の差もある。


 ——倉庫三棟中、現在使用は一棟。残る二棟は未使用との説明。


 事実だけを記録した。


 一番奥の棟の扉が、すでに開いていた。


 中は、麦と乾いた木の匂いがした。


 窓から差す光の筋に、埃がゆっくりと舞っている。


 棚には、麻袋が種類ごとに積まれ、木札が一つずつ吊るされていた。


 積み方に、乱れがなかった。


 中で、一人の男が麻袋を数えていた。


 年齢は六十をいくつか超えているように見えた。


 痩せた背、白いものの混じった髪、動きに無駄がない。


「倉庫番の、ヨナスです」


 役人が紹介した。


 男は顔を上げ、軽く頭を下げた。


「よろしく」


 姓は、名乗らなかった。


 ロイドは、それをそのまま記録した。


 ——氏名、ヨナス。姓は不明のまま。


「今日は、入出庫の手順を見せていただきたく」


 ロイドが言った。


「ガルダから来た方々、と伺っています」


 ヨナスは言った。


 声は低く、抑揚が薄かった。


「見せられるものは、見せます」


 彼はそう言うと、また袋の数を数え始めた。


 ヨナスの説明は簡潔だった。


 搬入の日付、数量、差出人。


 袋の口を縛った紐に、木札を結びつける。


 木札には日付と数字だけを書く。


「間違えたら、どうしますか」


 ロイドが尋ねた。


「線を引いて、横に書き直します。消しません」


 ヨナスは即答した。


「なぜ、消さないんですか」


「消すと、前に何を書いたか、誰にもわからなくなる」


 その答えに、ロイドの手が一瞬止まった。


 ガルダの保全記録と、同じ理屈だった。


 けれど、ロイドはそれを顔に出さなかった。


「今のやり方は、いつ頃から」


「さあ」


 ヨナスは首を傾けた。


「長く、こうしてきただけです」


 はぐらかしているのか、本当に覚えていないのか、判断がつかなかった。


 ロイドは、質問の角度を変えた。


「木札の字は、いつもご自分で」


「ええ」


 差し出された木札の束を、ロイドは一枚だけ確かめた。


 小さく、几帳面な字だった。


 崩さず、まっすぐに書かれている。


 ロイドは、字の巧拙ではなく、木札の運用を記録した。


 ——日付・数量を記載。誤記は消さず訂正。木札は袋へ結束。


 それで十分だった。


「一番古い記録は、何年前のものですか」


 ロイドが、続けて尋ねた。


「今、ここに置いてあるのは、五年ほど前からです」


 ヨナスは、棚の下段を指した。


「それより前は」


「別庫へ移したはずです。詳しくは、わかりません」


「移した時期は」


「覚えていません」


 同じ答えが、また返ってきた。


 ロイドは、それ以上重ねなかった。


 ロイドは、そこでガルダの欠落記録を思い出した。


 だが、すぐに分けた。


 ガルダは、七、八年前の綴りそのものが原本から抜けていた。


 フェルンは、現在の倉庫に五年分があり、それ以前は別庫へ移したという説明がある。


 同じではない。


 今、確認できるのは、


 ——現倉庫の木札記録は約五年分。それ以前は別庫へ移管したとの証言。移管時期・別庫側の目録は未確認。


 そこまでだった。


 ダグラスは、少し離れた場所から、ずっと黙って見ていた。


 見ていたのは、顔ではなかった。


 木札を結ぶ、指の動き。


 紐を二回巻いて、輪を作り、最後に引き締める。


 その順番に、見覚えがあった。


 ——いや、見覚えがある「気が」した。


 確信ではない。


 だが、目が離せなかった。


 指の関節の曲げ方。


 紐を引く時の、力の加減。


 一つ一つは、些細な癖だった。


 だが、些細な癖ほど、人は変えられない。


 どこで見た、とまでは、言えない。


 ただ、体が、覚えている気がした。


「ダグラスさん」


 ロイドが小さく呼んだ。


「……はい」


「何か、気づきましたか」


「わかりません」


 ダグラスは、正直に答えた。


「紐の結び方が、少し」


「少し?」


「昔、似た結び方を、見た気がします」


「誰の」


「思い出せません」


 ロイドは、それ以上、聞かなかった。


 その時、ヨナスがふと顔を上げた。


 視線が、ダグラスの方へ向いた。


 一瞬だけだった。


 すぐに、袋の数へ戻った。


「そちらの方は」


 ヨナスが、ロイドに尋ねた。


 感情の読めない声だった。


「同行のダグラスです。ガルダで行政実務を担当しています」


 ロイドは、それだけ答えた。


 ヨナスは一度ダグラスを見た。


 それ以上、肩書きについては尋ねなかった。


 ヨナスは、それ以上何も聞かなかった。


 ただ、木札を持つ手が一拍だけ止まった。


 止まった後、また動き出した。


 理由はわからない。


 ロイドは正式記録には入れず、自分の印象メモへ、


 ——ダグラス紹介時、ヨナス氏の手が一度停止。


 とだけ残した。


「今日の記録は、どちらに保管を」


 ロイドが尋ねた。


「一年分たまったら、分家の方へ、まとめて渡します」


「その後は」


「知りません。渡した後のことは、私の仕事ではありません」


 言い切り方が、少しだけ早かった。


 ロイドは、その速さだけを記録した。


「この木札のやり方を、どれくらい続けていますか」


 ロイドが尋ねた。


「長いことです」


「五年以上は」


「ええ」


「始めた時から、訂正は消さない形でしたか」


 ヨナスは少しだけ間を置いた。


「そうだったと思います」


「誰かに教わったのか、ご自分で決めたのかは」


「……覚えていません」


 ロイドは、それ以上重ねなかった。


 今回確かめたいのは、現在の運用と、その運用がいつ頃から続いているかまで。


 個人の出自や過去を探ることは、技術協力の権限ではない。


 役人が、時間を見て声をかけた。


「そろそろ、次の場所へご案内します」


「ありがとうございました」


 ロイドは、ヨナスに頭を下げた。


 ヨナスは、顔を上げず、小さく頷いただけだった。


 倉庫を出る間際、ダグラスがもう一度振り返った。


 ヨナスは、もう袋の方を向いていた。


 その背中に、何かを言いかけて、ダグラスは口を閉じた。


 役人が、少し離れた場所で、その様子を見ていた。


 何かを言うでもなく、ただ、見ていた。


 その視線もまた、ロイドは記録に残すべきかどうか、迷った末に、印象メモへ加えた。


「今日は、これで良かったんですか」


 外へ出てから、ロイドが尋ねた。


「良かったと思います」


 ダグラスは言った。


「今、名前を聞くべきではありません」


「はい」


「まだ、何も、確かめていません」


 その声は、自分に言い聞かせているようだった。


 宿に戻り、ロイドは今日の記録をまとめた。


 搬入日、数量、差出人、木札の書式。


 訂正は消さず、横に書き直す。


 理由を聞くと、「前に何を書いたか、わからなくなるから」と答えた。


 そこまで書いて、ロイドは手を止めた。


 引き出しから、ガルダの手順書の写しを取り出す。


 原本保全記録の項目を、並べて置いた。


 ——誤記は消さず、訂正線。追記日と署名。


 字面は違う。だが、考え方は同じだった。


「同じ」ではなく、「似ている」。


 まだ、そう書くべきだった。


 だが、その「似ている」が、今日はやけに重く感じられた。


 ロイドは、印象メモの欄に、短く記した。


 ——記録の作法、ガルダの原本保全記録と類似点あり。断定はしない。


 隣の部屋から、物音はしなかった。


 ダグラスは、まだ起きているはずだった。


 自分だけの帳面に、何かを書いているのかもしれない。


 ロイドは、蝋燭の火を、そのままにしておいた。


 窓の外、フェルンの夜は、今日も静かだった。


 静かすぎる夜に、もう慣れかけている自分に、ロイドは気づいた。


 慣れは、油断と紙一重だ。


 扉を、軽く叩く音がした。


「まだ、起きていますか」


 ダグラスの声だった。


「起きています」


 ロイドが答えると、扉が静かに開いた。


「今日のことで、一つだけ」


 ダグラスは、部屋には入らず、戸口に立ったまま言った。


「古い記録が、今の倉庫にはないという話です」


「はい」


「ガルダと、同じだと思いますか」


「今の時点では、違います」


 ロイドは答えた。


「ガルダは原本の一部が欠けていました。こちらは、別庫へ移したという説明がある。別庫の目録が未確認なだけです」


「同じに見えても、まだ同じではない」


「はい」


「わかったことには、しない」


 ダグラスが、その先を引き取った。


「はい」


「……そうですね」


 ダグラスは、小さく頷き、静かに扉を閉めた。


 ロイドは、もう一度、今日の記録を読み返した。


 事実と、事実でないもの。


 その境界線を、もう一度、引き直した。


 紐の結び方に覚えがあるという、ダグラスの感覚。


 消さない訂正線。


 五年より前の記録は別庫へ移したという説明。


 性質の違う三つを、一つの証拠にはしない。


 ただ、それぞれ次に何を確認すべきかは見えてきた。


 紐の記憶は、ダグラス自身が確かめる。


 訂正方法は、運用として記録する。


 古い記録は、目録の整備から始める。


 ロイドは、その三つを別々の欄へ残した。


 ロイドは、帳面を閉じ、明日の予定を確かめた。


 明日も、同じ場所へ、同じ理由で向かう。


 ただの入出庫記録の確認として。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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