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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第六十九話「もう一つの土地」

 着任二百七十三日目、夕刻。


 フェルンの村は、遠くから見るより、ずっと整って見えた。


 道は石が敷かれ、家々の垣根も揃っている。


 商務分家の紋を掲げた建物が、村の中心に構えていた。


 ガルダの、割れた窓の執務所とは、何もかもが違う。


 少なくとも、道から見える範囲に大きな荒廃はない。


 家屋も、道も、手入れされている。


 一方で、通りを歩く人々は足早だった。


 立ち止まって話す者は、到着から宿へ入るまでの間にはほとんど見なかった。


 ロイドは、その範囲だけを帳面に記した。


 道の状態。


 家屋の数。


 目についた作物。


 人の往来の多さ。


 事実だけを、並べる。


 感想は、まだ書かない。


 到着したのは日暮れ前で、その日はそのまま宿へ入った。


 宿の主人は愛想がよく、料理も丁寧だった。


 特に不審な点はない。


 ただ、二人が「ガルダから来た」と名乗った時、主人が皿を置く手を一度止めた。


 理由はわからない。


 ガルダという地名への反応なのか。


 旅人二人の素性を考えただけなのか。


 そこは書かなかった。


 ——「ガルダから来た」と告げた直後、主人の手が一度停止。


 観察だけを残した。


 小さな違和感を、大きくする必要はない。


 だが、消してしまう必要もない。


 翌朝、商務分家の建物で、受け入れ担当の役人と顔を合わせた。


「遠いところを、ご苦労さまです」


 役人は、丁寧に頭を下げた。


 年の頃は四十前後。物腰は柔らかい。話している間、視線が何度か棚と扉へ動いたが、その理由はわからない。


「ガルダの手順を、学ばせていただけると聞いております」


「そのつもりで参りました」


 ロイドは言った。


「差し出がましいようですが」


 ダグラスが、静かに口を挟んだ。


「ガルダも、最初は、記録の取り方一つ定まっていませんでした。今の形になるまで、時間がかかりました」


「そうですか」


 役人は、少し驚いたように、ダグラスを見た。


「では、時間をかけてでも、変えられるものなのですね」


「変えられました」


 ダグラスは、それだけ答えた。


 ロイドは、紹介状の控えを机に置いた。


「今回、こちらで確認したいのは、今の運用です」


 先に目的を伝える。


「過去の係争記録や、監査対象の中身を見る権限は持っていません。受付、文書保管、官倉など、今後の運用をどう整えられるかを見るために来ました」


「承知しております」


 役人は頷いた。


「まず、日々の来訪受付の様子を、見学させていただけますか」


「もちろんです」


 役人は、すぐに案内に立った。


 だが、案内された部屋には、想像していたような帳簿の山はなかった。


「記録は、どちらに」


 ロイドが尋ねた。


「日々の簡単な用件は、口頭で済ませることが多いです」


 役人は少し困ったように笑った。


「税や契約の記録は別にありますが、誰が何の用で来たかまでは、すべて残していません」


「では、来訪経路を後から追えない案件がある」


「その通りです。ですから、こうしてガルダのやり方を、学びたいのです」


 言葉の上では、筋が通っていた。


 ロイドは正式記録には、現在の受付方法だけを書いた。


 ——簡易来訪は口頭中心。税・契約記録は別系統。来訪目的を横断して確認できる記録なし。


 役人が少し緊張しているように見えたことは、自分の印象メモへ分けた。


 午後、文書保全の現状確認に移った。


「まず、どの種類の文書を、どこへ置いているか確認したいです」


 ロイドは言った。


「個別の内容ではなく、現行の保管区分と目録です」


 役人は棚を二つ案内した。


 今年度分。


 直近数年分。


 それより古い文書について尋ねると、答えが止まった。


「古い記録は、別庫にあります。傷みもあり、目録を整理し直しているところです」


「別庫に何箱あるか、わかりますか」


「正確には」


「では、今わかる範囲で構いません」


 ロイドは、それ以上、古い文書の中身を求めなかった。


 今回の権限では、そこへ踏み込まない。


 代わりに、制度導入上の問題として記録した。


 ——古い文書は別庫保管。現行目録と完全には対応せず。箱数・文書種別の即時確認不可。


「この状態なら、最初にやるのは原本を読むことではありません」


 ロイドが言った。


「何が、どこに、どれだけあるか。その目録を作るところからです」


 役人は、少し驚いたように顔を上げた。


「中身を、確認しないのですか」


「内容確認は、その後です。しかも、権限のある者が行います」


「……承知しました」


 ロイドの印象としては、古い記録の話題へ移った時だけ、役人の返答が遅くなった。


 だが、理由はわからない。


 本当に整理状況を把握していないのか。


 何かを見せたくないのか。


 判断材料はない。


 正式記録には、返答内容と、目録が未整備であることだけを残した。


 夕方、ダグラスが村の外れを歩いていた。


 水路の様子、畑の広さ、家々の造り。


 特に何かを探しているようには見えなかった。


「何か、見覚えがありますか」


 ロイドが、追いついて尋ねた。


「わかりません」


 ダグラスは、静かに答えた。


「似ている、と思う場所はあります。ですが、それが、記憶なのか、ただの田舎の景色が似ているだけなのか、区別がつきません」


「無理には、聞きません」


「はい」


 ダグラスは、それ以上、多くを語らなかった。


 声も、表情も、来る前と大きくは変わらなかった。


 夜、宿の食堂で、主人と少し話す機会があった。


「官倉や倉庫の運用を、長く知っている方はいますか」


 ロイドは、食事の合間に尋ねた。


「明日、現行の入出庫手順も見たいので」


「古株なら、倉庫番のおじいさんですかね」


 主人は、深く考えずに答えた。


「もう、何年いるのか、私にもわかりません。ここの生まれじゃなくて、確か、東の方から来たと聞いています」


「東から」


 ダグラスの手が、わずかに止まった。


「何年前、来られたか、ご存じですか」


 ロイドが、さりげなく重ねた。


「さあ……七、八年、いや、もっと前かもしれません」


 主人は首をひねった。


「大人しい方ですよ。多くは話しません。名前も……何と言ったか」


 そこまで言って、主人はふと口を閉ざした。


「すみません、あまり詳しくなくて」


 それ以上は、話が続かなかった。


 ロイドは、それ以上追わなかった。


 「東から来た、大人しい倉庫番」——それだけでは、まだ何も確定しない。


 だが、無視できる情報でもなかった。


「明日、倉庫の運用を見に行けば、その方にも会えますか」


 ロイドが尋ねると、主人は少し曖昧に頷いた。


「倉庫は村の北側です。働いていれば、会えると思います」


 語尾が、小さく濁った。


 宿の部屋に戻り、ロイドは今日の記録をまとめた。


 簡易来訪は口頭中心。


 税・契約記録は別系統。


 古い文書は別庫保管で、現行目録と完全には対応していない。


 箱数・文書種別は、その場で確認できず。


 それだけを正式記録へ残した。


 役人の返答が古い文書の話題で遅くなったことは、印象メモへ分けた。


 もう一件、書き添えた。


 村の北側の倉庫に、長く勤める高齢の男。


 フェルン出身ではなく、東方から来たとの伝聞。


 勤務開始時期は、宿主人の記憶では七、八年以上前。正確な年、氏名とも未確認。


 ガルダを離れた当時の書記役との関係を示す事実はない。


 ただ、現在の倉庫運用を知る者として、明日の業務確認で会う価値はある。


「明日、倉庫を見に行きますか」


 ダグラスが尋ねた。


 声は、落ち着いていた。


「行きます」


 ロイドは答えた。


「ただし、今回の目的は倉庫の現行運用を見ることです。顔に見覚えがあっても、その場で昔のことを問い詰めません」


「わかっています」


 ダグラスは、短くそれだけ言った。


「顔を見れば、わかりますか」


 ロイドが尋ねた。


「わかるかもしれません。わからないかもしれません」


 ダグラスは、正直に答えた。


「七、八年です。人の顔は、変わります」


「それでも、行きますか」


「行きます」


 迷いのない声だった。


「見ないまま、ガルダへ戻ることの方が、今の私には、難しいです」


 フェルンには、ガルダとは違う記録の薄さがある。


 それが単に昔からの運用なのか。


 人手不足なのか。


 誰かが、記録を残さない方を望んできた結果なのか。


 まだ何もわからない。


 わからないことを、わかったことにはしない。


 ロイドは、その言葉を、自分の帳面の最後に書き添えた。


 ガルダを発つ前、ライルに言われた言葉を思い出す。


 ——あなた自身が『そちら側』に近づいたと感じたら、その時点で退いてください。


 まだ、退くべきだと判断する事実はない。


 だが、判断できるように、今日の違和感と事実を分けて残す必要がある。


 窓の外、フェルンの夜は、ガルダより静かだった。


 静かすぎる、とロイドは思った。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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