第六十九話「もう一つの土地」
着任二百七十三日目、夕刻。
フェルンの村は、遠くから見るより、ずっと整って見えた。
道は石が敷かれ、家々の垣根も揃っている。
商務分家の紋を掲げた建物が、村の中心に構えていた。
ガルダの、割れた窓の執務所とは、何もかもが違う。
少なくとも、道から見える範囲に大きな荒廃はない。
家屋も、道も、手入れされている。
一方で、通りを歩く人々は足早だった。
立ち止まって話す者は、到着から宿へ入るまでの間にはほとんど見なかった。
ロイドは、その範囲だけを帳面に記した。
道の状態。
家屋の数。
目についた作物。
人の往来の多さ。
事実だけを、並べる。
感想は、まだ書かない。
到着したのは日暮れ前で、その日はそのまま宿へ入った。
宿の主人は愛想がよく、料理も丁寧だった。
特に不審な点はない。
ただ、二人が「ガルダから来た」と名乗った時、主人が皿を置く手を一度止めた。
理由はわからない。
ガルダという地名への反応なのか。
旅人二人の素性を考えただけなのか。
そこは書かなかった。
——「ガルダから来た」と告げた直後、主人の手が一度停止。
観察だけを残した。
小さな違和感を、大きくする必要はない。
だが、消してしまう必要もない。
翌朝、商務分家の建物で、受け入れ担当の役人と顔を合わせた。
「遠いところを、ご苦労さまです」
役人は、丁寧に頭を下げた。
年の頃は四十前後。物腰は柔らかい。話している間、視線が何度か棚と扉へ動いたが、その理由はわからない。
「ガルダの手順を、学ばせていただけると聞いております」
「そのつもりで参りました」
ロイドは言った。
「差し出がましいようですが」
ダグラスが、静かに口を挟んだ。
「ガルダも、最初は、記録の取り方一つ定まっていませんでした。今の形になるまで、時間がかかりました」
「そうですか」
役人は、少し驚いたように、ダグラスを見た。
「では、時間をかけてでも、変えられるものなのですね」
「変えられました」
ダグラスは、それだけ答えた。
ロイドは、紹介状の控えを机に置いた。
「今回、こちらで確認したいのは、今の運用です」
先に目的を伝える。
「過去の係争記録や、監査対象の中身を見る権限は持っていません。受付、文書保管、官倉など、今後の運用をどう整えられるかを見るために来ました」
「承知しております」
役人は頷いた。
「まず、日々の来訪受付の様子を、見学させていただけますか」
「もちろんです」
役人は、すぐに案内に立った。
だが、案内された部屋には、想像していたような帳簿の山はなかった。
「記録は、どちらに」
ロイドが尋ねた。
「日々の簡単な用件は、口頭で済ませることが多いです」
役人は少し困ったように笑った。
「税や契約の記録は別にありますが、誰が何の用で来たかまでは、すべて残していません」
「では、来訪経路を後から追えない案件がある」
「その通りです。ですから、こうしてガルダのやり方を、学びたいのです」
言葉の上では、筋が通っていた。
ロイドは正式記録には、現在の受付方法だけを書いた。
——簡易来訪は口頭中心。税・契約記録は別系統。来訪目的を横断して確認できる記録なし。
役人が少し緊張しているように見えたことは、自分の印象メモへ分けた。
午後、文書保全の現状確認に移った。
「まず、どの種類の文書を、どこへ置いているか確認したいです」
ロイドは言った。
「個別の内容ではなく、現行の保管区分と目録です」
役人は棚を二つ案内した。
今年度分。
直近数年分。
それより古い文書について尋ねると、答えが止まった。
「古い記録は、別庫にあります。傷みもあり、目録を整理し直しているところです」
「別庫に何箱あるか、わかりますか」
「正確には」
「では、今わかる範囲で構いません」
ロイドは、それ以上、古い文書の中身を求めなかった。
今回の権限では、そこへ踏み込まない。
代わりに、制度導入上の問題として記録した。
——古い文書は別庫保管。現行目録と完全には対応せず。箱数・文書種別の即時確認不可。
「この状態なら、最初にやるのは原本を読むことではありません」
ロイドが言った。
「何が、どこに、どれだけあるか。その目録を作るところからです」
役人は、少し驚いたように顔を上げた。
「中身を、確認しないのですか」
「内容確認は、その後です。しかも、権限のある者が行います」
「……承知しました」
ロイドの印象としては、古い記録の話題へ移った時だけ、役人の返答が遅くなった。
だが、理由はわからない。
本当に整理状況を把握していないのか。
何かを見せたくないのか。
判断材料はない。
正式記録には、返答内容と、目録が未整備であることだけを残した。
夕方、ダグラスが村の外れを歩いていた。
水路の様子、畑の広さ、家々の造り。
特に何かを探しているようには見えなかった。
「何か、見覚えがありますか」
ロイドが、追いついて尋ねた。
「わかりません」
ダグラスは、静かに答えた。
「似ている、と思う場所はあります。ですが、それが、記憶なのか、ただの田舎の景色が似ているだけなのか、区別がつきません」
「無理には、聞きません」
「はい」
ダグラスは、それ以上、多くを語らなかった。
声も、表情も、来る前と大きくは変わらなかった。
夜、宿の食堂で、主人と少し話す機会があった。
「官倉や倉庫の運用を、長く知っている方はいますか」
ロイドは、食事の合間に尋ねた。
「明日、現行の入出庫手順も見たいので」
「古株なら、倉庫番のおじいさんですかね」
主人は、深く考えずに答えた。
「もう、何年いるのか、私にもわかりません。ここの生まれじゃなくて、確か、東の方から来たと聞いています」
「東から」
ダグラスの手が、わずかに止まった。
「何年前、来られたか、ご存じですか」
ロイドが、さりげなく重ねた。
「さあ……七、八年、いや、もっと前かもしれません」
主人は首をひねった。
「大人しい方ですよ。多くは話しません。名前も……何と言ったか」
そこまで言って、主人はふと口を閉ざした。
「すみません、あまり詳しくなくて」
それ以上は、話が続かなかった。
ロイドは、それ以上追わなかった。
「東から来た、大人しい倉庫番」——それだけでは、まだ何も確定しない。
だが、無視できる情報でもなかった。
「明日、倉庫の運用を見に行けば、その方にも会えますか」
ロイドが尋ねると、主人は少し曖昧に頷いた。
「倉庫は村の北側です。働いていれば、会えると思います」
語尾が、小さく濁った。
宿の部屋に戻り、ロイドは今日の記録をまとめた。
簡易来訪は口頭中心。
税・契約記録は別系統。
古い文書は別庫保管で、現行目録と完全には対応していない。
箱数・文書種別は、その場で確認できず。
それだけを正式記録へ残した。
役人の返答が古い文書の話題で遅くなったことは、印象メモへ分けた。
もう一件、書き添えた。
村の北側の倉庫に、長く勤める高齢の男。
フェルン出身ではなく、東方から来たとの伝聞。
勤務開始時期は、宿主人の記憶では七、八年以上前。正確な年、氏名とも未確認。
ガルダを離れた当時の書記役との関係を示す事実はない。
ただ、現在の倉庫運用を知る者として、明日の業務確認で会う価値はある。
「明日、倉庫を見に行きますか」
ダグラスが尋ねた。
声は、落ち着いていた。
「行きます」
ロイドは答えた。
「ただし、今回の目的は倉庫の現行運用を見ることです。顔に見覚えがあっても、その場で昔のことを問い詰めません」
「わかっています」
ダグラスは、短くそれだけ言った。
「顔を見れば、わかりますか」
ロイドが尋ねた。
「わかるかもしれません。わからないかもしれません」
ダグラスは、正直に答えた。
「七、八年です。人の顔は、変わります」
「それでも、行きますか」
「行きます」
迷いのない声だった。
「見ないまま、ガルダへ戻ることの方が、今の私には、難しいです」
フェルンには、ガルダとは違う記録の薄さがある。
それが単に昔からの運用なのか。
人手不足なのか。
誰かが、記録を残さない方を望んできた結果なのか。
まだ何もわからない。
わからないことを、わかったことにはしない。
ロイドは、その言葉を、自分の帳面の最後に書き添えた。
ガルダを発つ前、ライルに言われた言葉を思い出す。
——あなた自身が『そちら側』に近づいたと感じたら、その時点で退いてください。
まだ、退くべきだと判断する事実はない。
だが、判断できるように、今日の違和感と事実を分けて残す必要がある。
窓の外、フェルンの夜は、ガルダより静かだった。
静かすぎる、とロイドは思った。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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