第六十八話「空いた椅子」
着任二百七十一日目。
出発は、三日後と決まった。
準備には、それだけの日数が要った。
アルノへ、フェルンの事前確認にロイドとダグラスの二名を出す旨の返書を送り、受入側との日程調整に二日、荷と書類の準備に一日。
急ぐ理由はなかった。
急がない理由も、はっきりしていた。
ロイドが持っていく物を、机の上に並べていく。
記録用の帳面、予備の筆と墨、内政調整局からの紹介状、ガルダで使用している一般化済みの手順書。
係争中の原本も、監査室の照会結果も持ち出さない。
今回の目的は、制度導入前の事前確認であって、監査調査ではない。
持ち出す写しには、作成日、作成者、閲覧目的を明記する。
いつもの手順を、旅先でも崩さない。
「フェルンでは、どこまで見せますか」
ロイドが尋ねた。
「技術協力の手順書と、公開できる範囲の記録です」
ライルは言った。
「五十七のことも、あの方のことも、今回の権限では扱いません」
「向こうから触れてきたら」
「聞いた事実だけを残してください。こちらから監査上の質問へ広げない。必要なら、帰着後に監査室へ渡します」
「見るものは」
「今の受付、今の保管、今の権限分担です。制度を入れる前に、何があるかを見てきてください」
ロイドは、頷いた。
その隣で、ダグラスも自分の荷を確かめていた。
着替え、わずかな路銀、そして何も書かれていない帳面を一冊。
「それは」
ライルが尋ねた。
「自分用です」
ダグラスは言った。
「思い出したことを、その場で書き留めるための」
「記録として、扱いますか」
「扱いません」
ダグラスは、首を振った。
「これは、ロイドさんに見せる前の、私だけの記憶メモです。見た事実とは別にしておきます。あとで正式記録へ移すなら、一つずつ確認します」
ライルは、その説明に頷いた。
「それがいいと思います」
準備と並行して、留守中の体制を固める会議が開かれた。
ミラ、ヴェク、カイ、ゲオルグが、執務所に集まった。
「ロイドが不在の間、記録の主担当はミラにお願いします」
ライルは言った。
「原本保全記録と来訪者記録。ロイドが担っていた事務のうち、今のミラがすでに扱っている範囲を広げます」
「判断が必要な場面は」
ミラが尋ねた。
「私に相談してください。判断は、私が引き受けます。ミラさんには、事実を集めて、揃えて、渡してもらう役目をお願いします」
「わかりました」
ミラは、少し緊張した様子で頷いた。
「一つ、確認してもいいですか」
「どうぞ」
「私の判断で、原本へ追記していい範囲は、どこまでですか」
「これまで認められている訂正手順までです」
ライルは言った。
「誤記なら元の文字を残して訂正線、追記日と署名。内容そのものの判断が必要なら、止めて私へ回してください。消去や過去日付での書き直しはしません」
「今まで通り、ですね」
ミラは、その一言を、自分の帳面に書き写した。
「ロイドさんの代わりは、務まらないと思います」
「代わりを、頼んでいません」
ライルは言った。
「これは、今日からのミラさんの仕事です。ロイドの真似をする必要はありません」
その言葉に、ミラの肩から、少しだけ力が抜けた。
「ヴェクには、官倉を中心にお願いします」
ライルは続けた。
「受付の一次対応は、手が空いている時だけ。官倉の入出庫を崩してまで埋める必要はありません」
「受付が重なったら」
「ミラと私で受けます。待ってもらえる用件は、待ってもらいます」
ヴェクは短く頷いた。
「無理はしないでください」
「無理かどうかは、やってから言います」
ヴェクらしい返事だった。
「カイには、新しい役目を頼みません」
ライルはカイに向き直った。
「ただ、普段の生活の中で水路や集荷準備に関わる異常に気づいた時は、これまで通り執務所へ知らせてください。ゲオルグさんにも同じようにお願いします」
「わかりました」
カイが頷いた。
「留守中、変わったことがあれば」
「記録して、待っていてください。無理に何かをする必要はありません」
「無理はしません」
カイは、少しだけ笑った。
「もう、そういうやり方は、覚えました」
「弟さんには」
ロイドが、ふと尋ねた。
「留守中の何かを、任せますか」
「まだ、早いと思います」
カイは首を振った。
「集荷の記録の付け方を、見せる段階です。任せるのは、もう少し先です」
「無理をしない、というのは、そういうことでもありますね」
ロイドが言うと、カイは少し照れたように頷いた。
ゲオルグが、静かに言った。
「執務所が、静かになる時期が、また来るんですね」
「静かになるわけではありません」
ライルは言った。
「人が減るだけです。仕事は、減りません」
「前も、そうでした」
ゲオルグが、遠くを見るような目をした。
「ロイドさんが、隣領へ調べに行った時です。椅子が一つ、空きました」
その言葉に、ロイドも顔を上げた。
「隊商の調査の時ですね」
「はい」
ライルは頷いた。
「あの時は、ヴェク一人へ負担が寄りました。今は、ミラ、ヴェク、私で分けられます。村の側にも、ゲオルグさんやカイがいます」
「支える場所が、増えましたね」
ゲオルグが言った。
「あの頃は、椅子が一つ空くだけで、大ごとでした」
「今も、大ごとです」
ライルは言った。
「ただ、支える手が増えました。それだけです」
その一言に、ミラもヴェクも、少しだけ表情を引き締めた。
出発すれば、ロイドとダグラス、二つの席が空く。
それでも、ライルの目が止まるのはロイドの椅子だった。
判断の前に、事実を揃えて持ってくる。
異議があれば、静かに言う。
その役目が、しばらくガルダから離れる。
空いた椅子を、誰か一人で埋めるつもりはなかった。
仕事を分けて支える。
そのための留守番だった。
出発の朝、執務所の前に、皆が集まった。
ライルが、ロイドとダグラスに、最後にもう一度確認した。
「無理な判断は、しないでください。迷ったら、書き残して、持ち帰ってください」
「はい」
ロイドが答えた。
「ここは、私が見ています」
ライルは言った。
「戻る場所があることを、忘れないでください」
「忘れません」
ロイドは、短く、しかしはっきりと言った。
ダグラスは、何も言わず、深く頭を下げた。
出発の直前、ライルはロイドを少しだけ脇へ呼んだ。
「一つだけ、言い忘れていました」
「何でしょうか」
「フェルンで、あなた自身が『そちら側』に近づいたと感じたら、その時点で退いてください。謎を解くことより、二人が戻ってくることの方が、優先です」
ロイドは、その言葉を、しばらく黙って受け止めた。
「覚えておきます」
それだけ答えた。
出発前に、行程表も確認した。
継立場ごとの到着予定。
宿泊地。
連絡を戻す場所。
危険度の高い区間では、継立場の護送担当が次の宿まで付く。
予定外の道へは入らない。
何も起きなかった日も、「異常なし」とガルダへ戻す。
その上で、馬車が北西の方角へ向けて出発した。
カイとゲオルグが、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
ミラとヴェクは、すぐに執務所へ戻り、それぞれの持ち場についた。
執務所には、二つの空席が残った。
それでも、誰も「仕事が止まった」とは思わなかった。
空いた椅子は、そのまま空けておけばいい。
戻る者の席まで、誰かのものにする必要はなかった。
道中、ロイドとダグラスは、ほとんど言葉を交わさなかった。
馬車の揺れに身を任せながら、それぞれ自分の帳面を確かめていた。
一日目の夜、宿でロイドが尋ねた。
「眠れそうですか」
「わかりません」
ダグラスは、正直に答えた。
「近づくほど、昔のことを、思い出します」
「無理に、思い出さなくて構いません」
「思い出さないようにする方が、今は、難しいです」
ダグラスは、窓の外を見た。
「北西の方角へ向かう道を、実際に進んだのは、今日が初めてです。あの人たちが、この道のどこかから来ていたのかと思うと」
それ以上は、続かなかった。
ロイドは何も聞き返さなかった。
その夜、継立場の記録に到着時刻を書き、ガルダ宛ての短い連絡へ「一日目、異常なし」とだけ記した。
二日目、継立場を二つ過ぎ、北西家領内の関所を一つ抜けた。
役人は紹介状と行程表を確認し、通過時刻を台帳へ記した。
ロイドは、その手順を見ていた。
ガルダとは書式も順番も違う。
それだけを旅程メモへ残した。
三日目の夕刻、御者が前方を指した。
「あれが、フェルンです」
遠くの丘の向こうに、薄い煙と、灯りが見え始めていた。
商務分家の紋を掲げた馬車が、道の先を先行している。
ロイドは、帳面を閉じ、懐にしまった。
「行きましょう」
ダグラスが、短く言った。
その声は、いつもより、わずかに硬かった。
馬車が、灯りの方角へ向けて、速度を落とし始めた。
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次回は明日19:10更新予定です。
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