第六十七話「留まる理由、動く理由」
着任二百六十八日目。
アルノからフェルンの提案書状が届いてから、十八日が経っていた。
その間に、先に決めていたガルダでの短期研修を一度、終えていた。
内政調整局から来た研修者は一名。
受付、一般化できる原本保全、帳票運用を見てもらい、係争中の原本や個人証言には触れさせなかった。
八日間の研修を終えた時、研修者自身が最後の記録にこう残した。
——持ち帰るべきは帳票そのものではなく、確認の順番と、訂正を消さない運用。
その一行を読んでから、ライルはフェルンの提案を改めて考え始めた。
急がないことと、考えていないことは、違う。
畑の緑は日ごとに濃くなり、水路の水量も安定している。
五十七の重複は、まだ解けていない。
あの方の氏名も、病没記録の真偽も、まだわからない。
逃げた男が残した「伝えておく」という言葉が、誰に何を伝える意味だったのかも不明のままだ。
積み残した懸案は、数えれば、いくつもあった。
だが、どれも、今すぐガルダを崩すほどの緊急性はない。
夜。
執務所には、ライルとロイドが残っていた。
二人で机の上に、これまでの記録を並べていった。
旧受領札番号五十七の重複記録。
フェルンについての監査室の照会結果。
技術協力の受け入れ条件を記した写し。
ダグラスの証言記録——鍵の管理者としての関与、前任者の病没記録、当時の書記役の転出伝聞、そして内容未開示の「呼び名」。
一つずつ、順に並べる。
結論を先に決めてから並べるのではない。
並べてから、結論を見る。
それが、この執務所のやり方だった。
ロイドが、遅くまで残っていた。
「今夜、決められますか」
「決めます」
ライルは言った。
「材料は、揃いました」
ロイドが、椅子を引いて座った。
「私からも、一つ、伺っていいですか」
「どうぞ」
「行けば早いかもしれない、と、今も思っていますか」
ライルは、少しの間、黙った。
「思っています」
正直に認めた。
「自分の目で、フェルンの現状を見られる。当時の書記役や、あの方につながる手がかりへ近づけるかもしれません」
「それでも、行かないんですね」
「行きません」
ライルは、はっきりと言った。
「理由を、聞いてもいいですか」
ロイドが、静かに尋ねた。
「前にも、同じことを聞かれました」
ライルは、少し笑った。
「その時は、『私が、ここにいたいんです』としか言えませんでした」
「今は、違いますか」
「今も、それが一番の理由です」
ライルは言った。
「ただ、もう少し、言葉にできます」
机の上の記録を、指先でなぞった。
「五十七も、あの方も、フェルンも——全部、ガルダで見つかった手がかりです。ガルダで積み上げてきた記録の作法があったから、ここまで来られました」
「はい」
「先日の研修で、一つ確認できました」
ライルは言った。
「私が全部説明しなくても、ロイド、ヴェク、ミラが、それぞれ自分の仕事を説明できた」
「はい」
「だから、私がここを離れてはいけない、とは思っていません」
ライルは一度言葉を切った。
「それでも今回は、残ります。フェルンへ行くことは謎に近づくことです。ですが同時に、ガルダが私一人に依存していないかを確かめる機会にもできます」
「揺らぐ、というのは」
「属人から制度へ、と言い続けてきました。ですが、まだ、完全ではありません」
ライルは、正直に言った。
「私が残り、ロイドが離れる。今度は、その形を試せます」
「その通りだと思います」
ロイドは、頷いた。
「ただ、揺らぐかどうかを、ここで議論しているだけでは、答えは出ません」
「はい」
「試す機会が、来たということかもしれません」
ロイドは、しばらく黙っていた。
窓の外、夜の水路の音だけが聞こえていた。
「では、フェルン側の事前確認は、私が行きます」
その一言に、ライルは、ロイドを見た。
「覚悟は、できていますか」
「できている、とは言い切れません」
ロイドは、正直に答えた。
「ガルダに残る責任者と、フェルンで『何を移せて、何を移せないか』を見る者の両方が必要です。私なら、少なくとも書式だけを正解として持ち込むことはしません」
「怖くは、ないですか」
「怖いです」
ロイドは、静かに認めた。
「あなたのそばを離れて、一人で判断する場面が来るかもしれません。それを考えると、怖いです」
「一人にはしません」
ライルは言った。
「その相談も、今夜のうちにします」
「ですが、怖いことと、行かない理由は、同じではありません」
その言葉に、ライルは、少しの間、目を閉じた。
「わかりました」
目を開け、はっきりと言った。
「フェルンでの実地検証に入る前の、事前確認をロイドに任せます」
「ありがとうございます」
ロイドは、頭を下げた。
「もう一つ、決めることがあります」
ライルは言った。
「ダグラスさんの申し出です」
数日前、ダグラスが口にした言葉を、二人とも覚えていた。
私も、連れて行っていただけますか。
「連れて行きます」
ライルは言った。
「ただし、条件を付けます」
「条件、というのは」
「同行者として、見聞きしたことを自分の記録に残してもらいます。ロイドの正式記録と混ぜず、別に残す。それが役目です」
ライルは、一つずつ言葉にした。
「過去の関係者らしき人物を見つけても、単独で近づかない。交渉や照会はロイドが担当する。ダグラスさんは、見て、聞いて、思い出したことを分けて残してください」
「本人には、伝えますか」
「伝えます」
翌朝、ダグラスを呼んだ。
「フェルンへ、連れて行きます」
ライルは言った。
ダグラスの表情が、わずかに動いた。
「ただし、条件があります」
ライルは、昨夜ロイドに話したことを、そのまま繰り返した。
同行者としての見聞記録。
過去の関係者らしき人物へ単独接触しない。
交渉や照会はロイドが担当する。
直接見たことと、思い出したことを分けて残す。
「それで、よろしいですか」
「よろしいです」
ダグラスは、迷わず答えた。
「それ以上を、望んでいたわけではありません」
「フェルンで、何かを見つけても、その場で動かないでください」
ライルは、念を押した。
「見つけたことは、必ずロイドに伝えてください。判断は、二人で、あるいはガルダに戻ってからにしてください」
「わかりました」
ダグラスは、頷いた。
「もう一つ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ、私を、連れて行くと決めたんですか。断ることも、できたはずです」
ライルは、少し考えた。
「あなたが、見なければならないと言ったからです」
「それだけですか」
「それだけです」
ライルは言った。
「ほかに、理由は要りません」
「怖くは、ないんですか」
ダグラスが、重ねて尋ねた。
「私を連れて行くことが、です」
「怖いです」
ライルは、正直に答えた。
「あなたが、フェルンで何かを思い出すかもしれません。それが、あなた自身を傷つけるかもしれません」
「それでも」
「それでも、あなたが見ると決めたことを、私が止める理由にはなりません」
ダグラスは、それ以上何も言わず、深く頭を下げた。
二人以外の実務同行者は、検討した末に見送った。
ヴェクは官倉運用の中心。
ミラは原本保全と来訪記録を担っている。
カイは自分の畑を持ち、収穫期の役目もまだ最終確定前だ。
ゲオルグは水路の現場を離れにくい。
誰か一人を割けば、その分、ガルダの日常のどこかに隙間ができる。
その隙間を、今は作らない。
移動時の安全も決めた。
「監査室の護衛を付けますか」
ロイドが尋ねた。
「常時の武装護衛は、今回は求めません」
ライルは言った。
「ただし、二人だけを無記録で動かすこともしません」
内政調整局へ、行程と宿泊予定を事前提出する。
継立場ごとに到着・出発時刻を残す。
危険度の高い区間は、継立場の護送担当に次の宿場まで同行してもらう。
予定外の経路変更はしない。
一日一回、到着した宿場からガルダへ短い連絡を戻す。
「物々しくはしない。ですが、消えても誰も気づかない旅にはしません」
「はい」
ロイドは頷いた。
実務上の同行者は、ロイドとダグラスの二人。
その移動経路は、複数の記録に残すことにした。
夜、ライルは手帳を開いた。
フェルン事前確認、ロイドに一任。
ダグラス同行。見聞記録は正式記録と分離。単独接触禁止。
実務同行二名。行程は内政調整局・各継立場・ガルダで記録。
それだけを書いた。
筆を置き、窓の外を見た。
行けば早いかもしれない、という気持ちは、まだ消えていなかった。
消えないまま、それでも残ると決めた。
それが、今夜の答えだった。
着任した日、この土地には、誰も頼れる者がいなかった。
今は、任せられる相手がいる。
それだけの日々を、積み上げてきた。
その積み上げごと、ロイドとダグラスに託す。
託すことも、残ることと同じくらい、覚悟のいる選択だった。
わからないことを、わかったことにはしない。
決めたことは、決めたこととして、はっきり残す。
その両方を守りながら、ライルは、蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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