第六十六話「次の場所」
着任二百五十日目。
フェルンという地名を知ってから、六日が過ぎていた。
監査室からもアルノからも、あの日以来、大きな続報はない。
執務所の日常は、変わらず続いていた。
種は蒔かれ、水路は流れ、記録は積み上がる。
その静けさの底で、ライルは、フェルンという地名を何度も思い返していた。
行ったこともない場所。
だが、もう、無関係ではいられない場所になっていた。
ミラが原本保全記録の点検をしながら、「フェルン、という村のことを、少し調べてみました」と申し出たことがあった。
商人組合の古い記録に、名前だけは残っていた。
麦と羊毛を扱う、そう大きくない村。
それ以上のことは、わからなかった。
「調べてくれて、ありがとうございます」
ライルは言った。
「ですが、深追いはしないでください。今は、まだ、私たちが調べる段階ではありません」
「わかりました」
ミラは、素直に頷いた。
昼過ぎ、私的な経路で、アルノから書状が届いた。
いつもより厚みのある封だった。
ライルは、ロイドとともに封を切った。
文面は、これまでで最も具体的だった。
——技術協力の第一の受け入れ先として、フェルンを提案したい。
商務分家が実務を任されている地域であり、内政調整局としても、行政運用の実態を把握する必要がある。
ガルダの手順を学ばせる名目で、原本保全の体制を整えさせることができれば、当地の記録の欠落についても、自然な形で調べを深められる。
これは、フェルンの一件と無関係ではない。
ただし、無関係ではないということと、それを理由に選んだということは、同じではない。
候補地は他にもあった。フェルンは、その中で、最も条件が整っていた場所だというに過ぎない。
受け入れの規模・期間は、先に返書で示した条件をそのまま踏襲する。初回一名、短期から開始。係争中の原本・個人証言・監査資料は対象外とする取り決めも変わらない。
ライルは、その一文を、二度読んだ。
「無関係ではない、ということと、理由にした、ということは、同じではない」
ロイドが、声に出して読み返した。
「アルノ様らしい書き方ですね」
「らしい書き方です」
ライルは頷いた。
「事実と、意図を、分けて書いています」
「本当に、条件が整っていただけでしょうか」
ロイドが尋ねた。
「わかりません」
ライルは、正直に言った。
「条件が整っていたから選んだのかもしれません。フェルンだから、条件を整えさせたのかもしれません。今の材料では、どちらとも言えません」
「偶然にしては」
「偶然にしては、重なりすぎています」
ライルは、書状をもう一度見た。
「ですが、重なりすぎていることと、仕組まれていることは、まだイコールではありません」
ロイドが、施錠棚から先日の記録を取り出した。
五十七の重複。
フェルンの照会結果。
そして今、技術協力の受け入れ先としてのフェルン。
三つの点が、一つの場所に集まっていた。
「線を引きますか」
ロイドが尋ねた。
「まだ、引きません」
ライルは言った。
「引きたくなる気持ちは、あります。ですが、線を引くのは、もう少し事実が揃ってからです」
午後、カイが今年の収穫期に向けた集荷連絡役の相談で立ち寄った。
執務所の空気に気づき、「また、何か動きがあったんですか」と尋ねた。
「帝都から、提案がありました」
ライルは、詳細は伏せたまま答えた。
「ガルダのやり方を、フェルンという村で試せないか、という話です」
「フェルン」
カイは、聞き慣れない響きを繰り返した。
「知らない場所です」
「私も、知りません」
ライルは、正直に言った。
「ですが、無関係な場所でもないようです」
「調整官様が、行くんですか」
「まだ、決めていません」
カイは、それ以上聞かず、「決まったら、教えてください」とだけ言って帰っていった。
夕方、ダグラスにもこの話を伝えた。
「フェルンに、人を送るんですか」
ダグラスの顔が、わずかに強張った。
「まだ、決めていません」
ライルは言った。
「アルノ様からの提案が来た、という段階です」
「行くことになれば」
「その時は、話します」
ライルは言った。
「今、決まっていることは、何もありません」
「私も、連れて行っていただけますか」
ダグラスが、思いがけないことを言った。
「もし、行くことになれば、です」
「理由を、聞いてもいいですか」
ライルは尋ねた。
「フェルンで何が起きたにせよ、私が見てきたものと、無関係ではない気がします」
ダグラスは、静かに言った。
「見なければならないものが、まだあるなら、見ておきたいです」
「覚えておきます」
ライルは言った。
「今、約束はできません。ですが、忘れません」
ダグラスは、それ以上何も言わず、頷いた。
夜。
執務所には、ライルとロイドが残っていた。
返書を作る前に、二人で条件を整理した。
自分が行けば、話は早いかもしれない。
フェルンの記録を、直接この目で見られる。
あの方の謎に、これまでで最も近い場所まで、自分の足で近づけるかもしれない。
だが、それは、ガルダを離れるという意味でもある。
五十七も、あの方も、ダグラスの続きも、水路も、種まきの後の見回りも、すべてがまだ、ここにある。
「私が、ここにいたいんです」——先日、自分で口にした言葉が、今度は自分自身を縛ろうとしていた。
だが、その言葉は、フェルンへ一切関わらないという意味だっただろうか。
ライルは、その問いに、すぐには答えを出せなかった。
ロイドが、静かに口を開いた。
「行かれますか」
「まだ、決めません」
ライルは言った。
「行く価値はあると思います。ですが、今すぐ決める必要もありません」
「誰かを、先に行かせる、という形もあります」
「それも、考えます」
ライルは、机の上の書状を見た。
「今日、決めるのは、一つだけです」
「一つ、というのは」
「アルノ様に、フェルンの提案を検討する、と返します。行く、行かないの結論は、まだ書きません」
「先延ばしに、見えませんか」
ロイドが尋ねた。
「先延ばしではありません」
ライルは、はっきりと言った。
「材料が揃っていないのに、結論だけ急いで出さない。それは、この執務所が、ずっとやってきたことです」
「ですが、今回は、いつもと少し違う気がします」
ロイドが、珍しく踏み込んだ。
「違う、というのは」
「いつもは、目の前の事実を、待っていました。今回は、待っている間に、フェルンで何かが起きているかもしれません」
その指摘に、ライルはしばらく黙った。
「その通りです」
やがて、認めた。
「悠長に構えていい話ではないかもしれません。ですが、悠長さと、拙速さの間には、まだ選べる幅があると思っています」
「その幅を、探しますか」
「探します」
ライルは頷いた。
「返書には、何を」
「技術協力の提案として、フェルンを受け入れる方向で検討する、とだけ書きます。フェルンの記録の件については、監査室の調査を優先し、こちらから急がせないこと」
ライルは、一つずつ言葉にした。
「そして、私自身が現地へ赴くかどうかは、追って判断する、と」
ロイドは、その一文をそのまま書き留めた。
夜、ライルは手帳を開いた。
アルノより、技術協力の受け入れ先としてフェルンを提案。
五十七・フェルンの照会結果・今回の提案という三点が、同じ地域に重なる。
線はまだ引かない。
自ら赴くかどうかは未定のまま、検討する方向で返書。
それだけを書いた。
筆を置き、窓の外を見た。
種はもう芽吹き始めている。
急いで出た芽は、根が浅い。
自分がガルダを離れるかどうかも、同じことかもしれない。
急いで決めれば、根のない決断になる。
わからないことを、わかったことにはしない。
決めていないことを、決めたことにもしない。
その両方を守りながら、ライルは、蝋燭を消した。
アルノが、意図的にフェルンを選んだのか。
それとも、本当にただ条件が整っていただけなのか。
どちらであっても、ガルダで積み上げてきたものが、次の場所へ向かおうとしていることに変わりはない。
「計算通り」だったのは、自分の赴任の理由だけではないのかもしれない。
誰かが、どこかで、同じように静かに手を打ち続けている。
その誰かが敵か、味方か、あるいはそのどちらでもないのか——今はまだ、判断する材料がない。
窓の外、北西の方角へ続く道が、闇の中に静かに伸びていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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