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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第六十六話「次の場所」

 着任二百五十日目。


 フェルンという地名を知ってから、六日が過ぎていた。


 監査室からもアルノからも、あの日以来、大きな続報はない。


 執務所の日常は、変わらず続いていた。


 種は蒔かれ、水路は流れ、記録は積み上がる。


 その静けさの底で、ライルは、フェルンという地名を何度も思い返していた。


 行ったこともない場所。


 だが、もう、無関係ではいられない場所になっていた。


 ミラが原本保全記録の点検をしながら、「フェルン、という村のことを、少し調べてみました」と申し出たことがあった。


 商人組合の古い記録に、名前だけは残っていた。


 麦と羊毛を扱う、そう大きくない村。


 それ以上のことは、わからなかった。


「調べてくれて、ありがとうございます」


 ライルは言った。


「ですが、深追いはしないでください。今は、まだ、私たちが調べる段階ではありません」


「わかりました」


 ミラは、素直に頷いた。


 昼過ぎ、私的な経路で、アルノから書状が届いた。


 いつもより厚みのある封だった。


 ライルは、ロイドとともに封を切った。


 文面は、これまでで最も具体的だった。


 ——技術協力の第一の受け入れ先として、フェルンを提案したい。


 商務分家が実務を任されている地域であり、内政調整局としても、行政運用の実態を把握する必要がある。


 ガルダの手順を学ばせる名目で、原本保全の体制を整えさせることができれば、当地の記録の欠落についても、自然な形で調べを深められる。


 これは、フェルンの一件と無関係ではない。


 ただし、無関係ではないということと、それを理由に選んだということは、同じではない。


 候補地は他にもあった。フェルンは、その中で、最も条件が整っていた場所だというに過ぎない。


 受け入れの規模・期間は、先に返書で示した条件をそのまま踏襲する。初回一名、短期から開始。係争中の原本・個人証言・監査資料は対象外とする取り決めも変わらない。


 ライルは、その一文を、二度読んだ。


「無関係ではない、ということと、理由にした、ということは、同じではない」


 ロイドが、声に出して読み返した。


「アルノ様らしい書き方ですね」


「らしい書き方です」


 ライルは頷いた。


「事実と、意図を、分けて書いています」


「本当に、条件が整っていただけでしょうか」


 ロイドが尋ねた。


「わかりません」


 ライルは、正直に言った。


「条件が整っていたから選んだのかもしれません。フェルンだから、条件を整えさせたのかもしれません。今の材料では、どちらとも言えません」


「偶然にしては」


「偶然にしては、重なりすぎています」


 ライルは、書状をもう一度見た。


「ですが、重なりすぎていることと、仕組まれていることは、まだイコールではありません」


 ロイドが、施錠棚から先日の記録を取り出した。


 五十七の重複。


 フェルンの照会結果。


 そして今、技術協力の受け入れ先としてのフェルン。


 三つの点が、一つの場所に集まっていた。


「線を引きますか」


 ロイドが尋ねた。


「まだ、引きません」


 ライルは言った。


「引きたくなる気持ちは、あります。ですが、線を引くのは、もう少し事実が揃ってからです」


 午後、カイが今年の収穫期に向けた集荷連絡役の相談で立ち寄った。


 執務所の空気に気づき、「また、何か動きがあったんですか」と尋ねた。


「帝都から、提案がありました」


 ライルは、詳細は伏せたまま答えた。


「ガルダのやり方を、フェルンという村で試せないか、という話です」


「フェルン」


 カイは、聞き慣れない響きを繰り返した。


「知らない場所です」


「私も、知りません」


 ライルは、正直に言った。


「ですが、無関係な場所でもないようです」


「調整官様が、行くんですか」


「まだ、決めていません」


 カイは、それ以上聞かず、「決まったら、教えてください」とだけ言って帰っていった。


 夕方、ダグラスにもこの話を伝えた。


「フェルンに、人を送るんですか」


 ダグラスの顔が、わずかに強張った。


「まだ、決めていません」


 ライルは言った。


「アルノ様からの提案が来た、という段階です」


「行くことになれば」


「その時は、話します」


 ライルは言った。


「今、決まっていることは、何もありません」


「私も、連れて行っていただけますか」


 ダグラスが、思いがけないことを言った。


「もし、行くことになれば、です」


「理由を、聞いてもいいですか」


 ライルは尋ねた。


「フェルンで何が起きたにせよ、私が見てきたものと、無関係ではない気がします」


 ダグラスは、静かに言った。


「見なければならないものが、まだあるなら、見ておきたいです」


「覚えておきます」


 ライルは言った。


「今、約束はできません。ですが、忘れません」


 ダグラスは、それ以上何も言わず、頷いた。


 夜。


 執務所には、ライルとロイドが残っていた。


 返書を作る前に、二人で条件を整理した。


 自分が行けば、話は早いかもしれない。


 フェルンの記録を、直接この目で見られる。


 あの方の謎に、これまでで最も近い場所まで、自分の足で近づけるかもしれない。


 だが、それは、ガルダを離れるという意味でもある。


 五十七も、あの方も、ダグラスの続きも、水路も、種まきの後の見回りも、すべてがまだ、ここにある。


 「私が、ここにいたいんです」——先日、自分で口にした言葉が、今度は自分自身を縛ろうとしていた。


 だが、その言葉は、フェルンへ一切関わらないという意味だっただろうか。


 ライルは、その問いに、すぐには答えを出せなかった。


 ロイドが、静かに口を開いた。


「行かれますか」


「まだ、決めません」


 ライルは言った。


「行く価値はあると思います。ですが、今すぐ決める必要もありません」


「誰かを、先に行かせる、という形もあります」


「それも、考えます」


 ライルは、机の上の書状を見た。


「今日、決めるのは、一つだけです」


「一つ、というのは」


「アルノ様に、フェルンの提案を検討する、と返します。行く、行かないの結論は、まだ書きません」


「先延ばしに、見えませんか」


 ロイドが尋ねた。


「先延ばしではありません」


 ライルは、はっきりと言った。


「材料が揃っていないのに、結論だけ急いで出さない。それは、この執務所が、ずっとやってきたことです」


「ですが、今回は、いつもと少し違う気がします」


 ロイドが、珍しく踏み込んだ。


「違う、というのは」


「いつもは、目の前の事実を、待っていました。今回は、待っている間に、フェルンで何かが起きているかもしれません」


 その指摘に、ライルはしばらく黙った。


「その通りです」


 やがて、認めた。


「悠長に構えていい話ではないかもしれません。ですが、悠長さと、拙速さの間には、まだ選べる幅があると思っています」


「その幅を、探しますか」


「探します」


 ライルは頷いた。


「返書には、何を」


「技術協力の提案として、フェルンを受け入れる方向で検討する、とだけ書きます。フェルンの記録の件については、監査室の調査を優先し、こちらから急がせないこと」


 ライルは、一つずつ言葉にした。


「そして、私自身が現地へ赴くかどうかは、追って判断する、と」


 ロイドは、その一文をそのまま書き留めた。


 夜、ライルは手帳を開いた。


 アルノより、技術協力の受け入れ先としてフェルンを提案。


 五十七・フェルンの照会結果・今回の提案という三点が、同じ地域に重なる。


 線はまだ引かない。


 自ら赴くかどうかは未定のまま、検討する方向で返書。


 それだけを書いた。


 筆を置き、窓の外を見た。


 種はもう芽吹き始めている。


 急いで出た芽は、根が浅い。


 自分がガルダを離れるかどうかも、同じことかもしれない。


 急いで決めれば、根のない決断になる。


 わからないことを、わかったことにはしない。


 決めていないことを、決めたことにもしない。


 その両方を守りながら、ライルは、蝋燭を消した。


 アルノが、意図的にフェルンを選んだのか。


 それとも、本当にただ条件が整っていただけなのか。


 どちらであっても、ガルダで積み上げてきたものが、次の場所へ向かおうとしていることに変わりはない。


 「計算通り」だったのは、自分の赴任の理由だけではないのかもしれない。


 誰かが、どこかで、同じように静かに手を打ち続けている。


 その誰かが敵か、味方か、あるいはそのどちらでもないのか——今はまだ、判断する材料がない。


 窓の外、北西の方角へ続く道が、闇の中に静かに伸びていた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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