第六十五話「一つでは、なかった」
着任二百四十四日目。
ダグラスの証言から六日が経っていた。
監査室・アルノ双方への報告は済ませたが、返答はまだ届いていない。
執務所の日常は、いつも通りに続いていた。
水路、官倉、来訪者記録。
ロイドが淡々と処理し、ミラが小さな抜けを拾い、ヴェクが数字を積み重ねる。
畑の緑が、日ごとに濃くなっていた。
ダグラスは、あの夜以来、いつもより口数が少なかった。
仕事の手つきに乱れはなかったが、ふとした瞬間に手が止まることが増えていた。
ロイドはそれに気づいていたが、何も聞かなかった。
聞かないことも、この執務所の作法の一つだった。
午後、監査室からの書状が届いた。
いつもより厚みのある封だった。
ライルは、ロイドとともに文面を確認した。
——照会のあった、前任調整官の前任者に関する記録について、当局にて確認を進めた。
単独での断定は避けるが、参考情報として共有する。
北西方面のある地域において、七年前、記録係を務めていた者が、不正の疑いを報告した直後に「病没」として退任した事例が一件確認された。
退任記載には確認者の署名がなく、当時の記録一部に欠落がある。
地域名は、フェルン。
北西の貴族家の領内、商務分家が実務を任されている一角にある村だった。
書状には、監査室が照会に至った経緯も簡潔に添えられていた。
ガルダから送られた原本保全の手順書と、「あの方」に関する報告を照らし合わせる過程で、監査室は過去十年分の退任記録を同じ条件で総点検した。
その中から、「病没」と記されながら確認者署名を欠くものを抽出し、さらに周辺記録の欠落を照らしたところ、フェルンの一件が該当したという。
大発見としてではなく、地道な突き合わせから見つかった——その経緯が、どこかガルダのやり方に似ていた。
「フェルン」
ロイドが、その名を声に出した。
「北西の貴族家の」
「商務分家が、実務を任されている村です」
ライルは、文面をもう一度読んだ。
病没。
確認者の署名なし。
記録の欠落。
あの方の場合と、同じ形だった。
「偶然、でしょうか」
ロイドが尋ねた。
「わかりません」
ライルは、正直に答えた。
「ですが、形が同じであることは、事実です」
ロイドが、施錠棚から旧受領台帳を取り出した。
半年以上前の商会の書状と、商務分家の契約書状に共通していた、旧受領札番号「五十七」の重複。
あの時は、商会と商務分家の関係を示す手がかりとして扱われ、原因は不明のまま残されていた。
「五十七の件と、フェルンは、同じ商務分家の名で結ばれています」
ロイドが言った。
「結ばれています。ですが」
ライルは、慎重に言葉を継いだ。
「同じ名前が出てくることと、同じ根から出ていることは、まだ、イコールではありません」
「つなげませんか」
「まだ、つなげません」
ライルは、いつもの言葉を繰り返した。
「ですが、比較する理由はできました。五十七は五十七、フェルンはフェルンのまま、同じ紙面で差異を見ます」
ロイドが、五十七の記録とフェルンの照会結果を、同じ紙面に並べて書き写した。
結論は書かず、事実だけを並べる。
それが、この執務所のやり方だった。
ライルは、ダグラスを呼んだ。
文面を見せず、まず「フェルン」という地名に聞き覚えがあるかを尋ねた。
ダグラスは、しばらく考えた。
「……あります」
やがて、そう答えた。
「あの人たちの一人が、一度だけ口にしたことがあります」
「どんな文脈でしたか」
「はっきりとは覚えていません。ただ、『フェルンの時と、同じようにする』というような言い方でした」
ダグラスは、記憶をたどるように目を細めた。
「その時は、地名だとも思いませんでした。聞き流していました」
「今、聞いて、どう思いますか」
ライルは尋ねた。
「怖いです」
ダグラスは、素直に言った。
「一つの土地の、一つの出来事だと、思おうとしていました。そう思う方が、楽でしたから」
「楽だった、というのは」
「一人の、悪い人間がいて、それで終わる話なら、まだ、耐えられます。ですが」
ダグラスは、言葉を切った。
「同じことが、他でも起きているなら——私が見たものは、何かの一部でしかなかったことになります」
ダグラスは、両手を見た。
「私は、自分一人の弱さで、あの方を裏切ったのだと思っていました。それなら、まだ、自分だけの罪です」
「今は、違いますか」
ライルは尋ねた。
「わかりません」
ダグラスは、首を振った。
「ただ、罪の重さが、変わるわけではありません。仕組みの一部だったとしても、私が下げた書類は、私が下げたものです」
その言葉に、ライルもロイドも、しばらく口を挟まなかった。
ロイドが、記録に一つずつ書き加えた。
監査室からの照会結果。
地名「フェルン」。
ダグラスの証言(伝聞、文脈不明瞭、断定はしない)。
病没・確認者署名なし・記録欠落という共通する形。
「監査室は、これをどう見ていますか」
ロイドが尋ねた。
「単独での断定は避ける、とあります」
ライルは、書状を指した。
「ですが、参考情報として、わざわざ知らせてきました」
「それは、監査室の側でも、何かを疑っている、ということですか」
「疑っている、とまでは書かれていません」
ライルは、慎重に言葉を選んだ。
「ただ、知らせる価値があると、判断したのだと思います」
夕刻、アルノからも私信が届いた。
内容は短かった。
——フェルンの件、こちらでも把握している。詳しくは、また改めて。
それだけだった。
「アルノ様も、フェルンを知っているんですね」
ロイドが言った。
「知っています」
ライルは、二通の書状を並べた。
監査室からは事実の断片。
アルノからは、確認の一言。
二つの経路が、同じ地名を指していた。
「示し合わせているんでしょうか、それとも」
「それとも、別々に、同じ場所へたどり着いただけかもしれません」
ライルは言った。
「監査室は監査室の記録から。アルノ様はアルノ様の伝手から。別々の道が、同じ地名に集まる——それ自体が、一つの意味を持ちます」
「意味、というのは」
「フェルンが、それだけ目立つ場所だということです」
ライルは、二通の書状をもう一度重ねた。
「目立つ、というのは、良い意味でも、悪い意味でも、です」
「これで、一つではなかったことが、はっきりしましたね」
ロイドが、静かに言った。
「はっきりしました」
ライルは頷いた。
「あの方の件は、ガルダだけで起きたことではありません。少なくとも、もう一つ、同じ形の出来事があります」
「氏名は」
「まだ、ここには書かれていません」
ライルは、書状を最後まで確認した。
「フェルンの記録係の名前も、あの方の名前も、まだ、どちらも記されていません」
「知らないから、ですか。それとも」
「わかりません」
ライルは、正直に言った。
「知っていて書かないのか、知らないから書けないのか。今は、判断する材料がありません」
夕方、集荷の相談で立ち寄ったカイが、執務所の空気の重さに気づいた。
「何か、あったんですか」
「調べていることが、少し進みました」
ライルは、詳細は伏せたまま答えた。
「悪い方向に、ですか」
「まだ、わかりません」
ライルは正直に言った。
「ただ、思っていたより、大きな話かもしれません」
カイは、それ以上聞かず、「そうですか」とだけ言って帰っていった。
夜、ダグラスがもう一度訪れた。
「フェルンという地名を、思い出せてよかったんでしょうか」
不安そうに尋ねた。
「よかった、と思います」
ライルは言った。
「一つの点が、また一つ増えました。それだけ、輪郭がはっきりします」
「輪郭がはっきりすることは、いいことなんでしょうか」
ダグラスの声は、いつもより低かった。
「わかりません」
ライルは、正直に答えた。
「ですが、わからないままにしておくよりは、いいと思っています」
ダグラスは、それ以上何も言わず、帰っていった。
夜、ライルは手帳を開いた。
監査室より照会結果。北西方面の村フェルンにて、七年前、同様の「病没」記録を確認。
ダグラス、地名に聞き覚えありと証言(伝聞)。
アルノより、フェルンの件を把握している旨の私信。
それだけを書いた。
「一つではなかった」。
その言葉が、今日、初めて確かな輪郭を持った。
ガルダで起きたことは、ガルダだけの物語ではない。
前世で見た地方消滅の構造と、どこかで重なる予感が、これまでで最も具体的な形を取り始めていた。
一つの土地が壊れる仕組みは、たいてい、その土地だけのものではない。
同じ仕組みが、名前を変え、場所を変えて、あちこちで同じことを繰り返す。
前世でも、そうだった。
だが、氏名も、経緯の全部も、まだわからないままだった。
わからないことを、わかったことにはしない。
その姿勢だけを崩さず、ライルは、蝋燭を消した。
窓の外、北西の方角に、何もない夜空が広がっていた。
その先に、フェルンという村がある。
行ったこともない場所の名前が、今夜、初めてはっきりとした重みを持った。
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次回は明日19:10更新予定です。
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