第六十四話「あの日、見たこと」
着任二百三十八日目。
種まきを終えた畑に、若い緑が点々と見え始めていた。
水路は安定して流れ、官倉の帳票も、原本保全記録も、いつも通りの一日を積み重ねている。
アルノからの続報はまだない。
技術協力の詳細も、対象地域も、動きのないまま数日が過ぎていた。
夕刻、書類の整理が一段落した頃、ダグラスが執務所に残っていた。
帰り支度をしていたロイドの手が止まる。
「少し、よろしいですか」
ダグラスが言った。
いつもと変わらない声だったが、目だけが違った。
「あの方の、机の上で見た印の話の続きです」
ライルは筆を置いた。
「聞きます」
ロイドが黙って机に戻り、記録簿を開いた。
帰り支度の手を止めたことを、詫びる様子はなかった。
この執務所では、こういう時に手を止めることの方が、当たり前になっていた。
ダグラスは、しばらく窓の外を見ていた。
「『そちら側』というのは」
やがて、自分から言葉を継いだ。
「商会とは、別の筋です」
「別の筋、というのは」
「名乗りません。ですが、時々、来ました」
ダグラスは、一語ずつ確かめるように話した。
「前の調整官の頃です。夜、人のいない時間に。『協力してくれれば、悪いようにはしない』とだけ言われました」
「協力、というのは、具体的に何をですか」
ライルは尋ねた。
「最初は、何でもないことでした」
ダグラスは、一度目を伏せた。
「誰が、いつ、何を確認しに来たか。それを、伝えるだけでした」
「見張り役だった、ということですか」
「そうです」
ダグラスは、はっきりと認めた。
「断れば、どうなるかは、わかっていました。断った者を、見ていましたから」
ロイドの筆が、一瞬だけ止まった。
かつてダグラスが口にした「断った者がどうなるかを、私は知っていました」という言葉が、二人の記憶に同時によみがえった。
あの時語られたのは、あの方に起きたことを見て感じた恐れだった。
今語られているのは、その恐れをダグラス自身に植え付けた、もう一つの出来事だった。
「それが、あの方のことですか」
ライルが尋ねた。
「まだ、その話ではありません」
ダグラスは、首を振った。
「先に、私自身のことを話させてください」
「わかりました」
ダグラスは、深く息を吸った。
「あの方が、来なくなる少し前です。私は、鍵を任されていました。管理棚の鍵です」
「今と、同じ棚ですか」
「同じ棚です」
ダグラスは頷いた。
「ある夜、『古い書類を、いくつか下げてほしい』と頼まれました。あの方の報告の写しと、台帳の一部だと、後になってわかりました」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
「その時は、それとはわかっていなかった、ということですか」
「わかっていませんでした」
ダグラスは、繰り返した。
「『整理するだけだ』と言われました。古い書類を、決まった場所へ移すだけだと」
「本当に、そう思っていましたか」
ライルは、静かに尋ねた。
ダグラスは、しばらく黙った。
「……思おうとしていました」
やがて、そう答えた。
「疑えば、次は自分の番だと、わかっていましたから」
「それで、下げたんですね」
「下げました」
ダグラスは、目を伏せたまま言った。
「棚を開け、指定された書類を渡しました。中身は、見ていません。見ないようにしていました」
「鍵を持っていたのは、当時の調整官・書記役・管理を任されていた者だけだった、という記録があります」
ロイドが、静かに確認した。
「その、管理を任されていた者が、私です」
ダグラスは、初めて名乗るように言った。
「今まで、そこまでは言っていませんでした」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ロイドが、記録簿の一頁を静かにめくった。
第四十七話で書き留めた一文——「鍵を持っていたのは、当時の調整官本人・書記役・管理を任されていた者のみ」。
その最後の一人が、今、目の前で名乗った。
「見返りは、ありましたか」
ライルが尋ねた。
「筆頭役人になりました。その少し後です」
ダグラスは、静かに言った。
「関係があるとは、断定できません。ただ、時期は重なっています」
「時期が重なっている、というのは、記録として残す価値があります」
ライルは言った。
「断定はしません。ですが、事実として残します」
ロイドが、その一文をそのまま書き留めた。
「今まで黙っていたのは」
ライルが尋ねた。
「怖かったからです」
ダグラスは、飾らずに答えた。
「鍵を持っていた三人のうち、二人はもういません。残っているのは、私だけです」
「残っている、というのは」
「執務所に、という意味です。もう一人の意味かどうかは、わかりません」
その言い方に、ロイドが小さく息を呑んだ。
「あの方が、来なくなったのは、その後ですか」
ライルが尋ねた。
「その後です」
ダグラスは頷いた。
「数日後、姿を見なくなりました。理由は聞かされていません。ただ、夜、見慣れない人が、裏口から出入りするのを見ました」
「見慣れない人、というのは」
「顔は、はっきり覚えていません。ただ、歩き方に、迷いがありませんでした。この執務所に、慣れているような歩き方でした」
「その人が、あの方に何かをした場面を、見ましたか」
ライルは、はっきりと尋ねた。
ダグラスは、しばらく答えなかった。
窓の外はすでに暗く、灯りの届かない部分が、ダグラスの顔に影を落としていた。
あの夜も、こんな暗さだったのかもしれない、とロイドは記録の手を止めたまま思った。
ダグラスは、首を振った。
「見ていません」
きっぱりと言った。
「それだけは、はっきりしています。私は、あの方が最後にどうなったかを、見ていません」
「では、なぜ、病死だと思わないんですか」
ロイドが尋ねた。
「思わない、とは言っていません」
ダグラスは、言葉を選んだ。
「ただ、信じ切れていません。あの人たちの言い方が、いつも同じだったからです」
「同じ、というのは」
「『心配はいらない』『悪いようにはしない』」
ダグラスは、静かに繰り返した。
「その言葉の後に、いなくなった人を、私は他にも知っています」
その一言に、ライルもロイドも、しばらく黙った。
「他にも」
ライルが、重ねて尋ねた。
「詳しくは、まだ言えません」
ダグラスは、目を伏せた。
「一人は、遠くの領地へ移ったと聞きました。もう一人は……」
言葉が、そこで止まった。
「もう一人は」
「わかりません。本当に、わかりません。ある日から、名前を聞かなくなっただけです」
ダグラスは、両手を膝の上できつく組んだ。
「聞かなくなった、というのは、聞くのが怖かったからです。それだけは、はっきり言えます」
「一つだけ、言えることがあります」
顔を上げ、ライルを見た。
「その人たちは、名乗りませんでした。ですが、一度だけ、呼び名を聞いたことがあります」
「呼び名」
「本当の名前かどうかは、わかりません。ただ、その名で、互いを呼び合っていました」
ダグラスは、口を開きかけ、また閉じた。
「……今は、まだ、言えません」
「言えない、というのは」
「言えば、私だけの話では、済まなくなります。それは、前にも申し上げた通りです」
ダグラスは、静かに、しかしはっきりと言った。
「ただ、今日、話したことで、少しは近づけたと思います」
「近づきました」
ライルは頷いた。
「無理には、聞きません。話せる時に、続きを聞かせてください」
「はい」
ダグラスは、深く頭を下げた。
「今日、話したことは、事実です。見たことと、思っていることを、分けて記録してください」
「そうします」
ロイドが、記録を読み上げた。
鍵を任されていた者としての関与。
書類を下げた夜の記憶。
見慣れない人物の出入り。
あの方の死そのものは未目撃であること。
互いを呼ぶ「呼び名」の存在。内容は未開示。正式照会時は、限定閲覧の封書で提出する方針。
「これで、よろしいですか」
「はい」
ダグラスは、一つずつ確認し、署名した。
夜、ダグラスが帰った後、ライルとロイドは、しばらく黙って机の上の記録を見ていた。
「病死という記録に、初めて、疑いを持つ人間の証言が加わりました」
ロイドが言った。
「まだ、証言です」
ライルは言った。
「事実になったわけではありません」
「それでも」
「それでも、近づきました」
ライルは、その言葉を認めた。
「名前は、まだです」
「まだです」
ロイドが、静かに頷いた。
「ですが、ダグラスさんの中に、まだ言えない名前がある。それだけは、今日、はっきりしました」
夜、ライルは手帳を開いた。
ダグラス、鍵の管理者としての関与を証言。書類を下げた記憶。見慣れない人物の出入り。あの方の死は未目撃。
鍵を持っていた三人のうち、二人の消息が不明であること。
「呼び名」の存在、開示は保留。
それだけを書いた。
筆を置き、しばらく手帳の文字を見ていた。
七、八年前、鍵を持っていた三人。
一人は、今日、目の前で名乗った。
残る二人は、遠くへ移ったか、名前ごと消えたか。
どちらも、まだ確かめようがない。
わからないことを、わかったことにはしない。
それでも、わからないことの輪郭だけは、少しずつ、はっきりしてきていた。
蝋燭を消す前に、窓の外を見た。
まだ言えない名前が、一つ、ガルダの内側にある。
それがいつ言葉になるかは、ダグラス自身が決めることだった。
急かさない。
それだけを、もう一度、自分に言い聞かせた。
ライルは、蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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