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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第六十三話「ここから、動かす」

 着任二百三十二日目。


 朝、見慣れない馬車が、執務所の前に停まった。


 紋のない、簡素な作りの馬車だった。


 だが、御者の礼装と、馬の毛並みは、明らかに帝都のものだった。


 降りてきたのは、初めて見る顔の男だった。


 年齢は、四十前後。


 物腰は丁寧だが、隙のない立ち方をしている。


「アルノ・フォン・ケステル様の使いで参りました」


 男は、そう名乗った。


「私的な書状ではなく、口上を預かって参りました」


 ロイドが、来訪記録を取りながら、目でライルに確認を求めた。


 ライルは、頷いた。


「お伺いします」


 応接の間に通し、ロイドが記録役として同席した。


「アルノ様より、正式に、お伝えするようにと申しつかっております」


 男は、姿勢を正した。


「これまで、ガルダの行政運用の手順は、文書として拝見してきました。原本保全記録、証言の区分、暫定的な措置の考え方——いずれも、他の地域には見られない形です」


「文書は、お役に立ちましたか」


 ライルは尋ねた。


「役に立った、という段階は、すでに過ぎています」


 男は言った。


「アルノ様は、これを、文書だけで終わらせるべきではないと、お考えです」


「文書だけでは、足りない、と」


「手順は、書けば伝わるものと、書いただけでは伝わらないものがあります。アルノ様は、そう仰っています」


 その言葉に、ライルは、少しの間、黙った。


 属人か、制度か。


 この土地で、何度も向き合ってきた問いだった。


「具体的には、何を、お求めですか」


 ライルは尋ねた。


「その前に、一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


 男は、少し姿勢を崩さないまま言った。


「ガルダの仕組みは、この土地の事情に合わせて、一つずつ作られたと聞いております。人手も、限られていると」


「限られています」


 ライルは、正直に認めた。


「今、この執務所は、私を含めて五人です。ロイド、ヴェク、ミラ、ダグラス。多いとは言えません」


「にもかかわらず、うかがったところ、その六人で、水路も、官倉も、記録も、すべて回っていると」


「回っています。ただし、余裕があるわけではありません」


 ライルは、はっきりと言った。


「余裕のなさまで含めて、お伝えする必要があると思います。うまくいっている部分だけを見せるつもりはありません」


「それを、正直に仰る調整官は、あまりおりません」


 男は、初めて、わずかに表情を緩めた。


「技術協力を、正式にお願いしたいと考えております」


 男は言った。


「ガルダのやり方を学びたい者を、一定期間、こちらで受け入れていただけないでしょうか。書面だけでなく、実際の運用を、間近で見て、記録し、持ち帰らせたいのです」


「人を、送り込む、ということですか」


「まずは、内政調整局から一名ないし二名。期間、人数、対象業務は、これから調整させていただきます。監査資料の閲覧が必要な場合は、別途権限を確認します」


「私に、帝都へ来るようにという話では、ないんですね」


 ライルは、念のため確認した。


「今回は、違います」


 男は、少し言葉を選んだ。


「アルノ様は、以前から、そのお考えはないと申しておりました。『ガルダで積み上げたものは、ガルダに人がいてこそ意味を持つ。人を動かすなら、こちらから送る方が理にかなっている』と」


 ロイドが、その言葉を、丁寧に書き留めた。


「ご検討いただけますか」


「持ち帰らせていただきたいのですが」


 男は、頭を下げた。


「返答に、期限はございません。ただ、アルノ様は、早い返答を望んでおられます」


 男が退出したあと、ライルは、しばらく机の前で動かなかった。


「引き受けますか」


 ロイドが尋ねた。


「引き受けます」


 ライルは、迷わず答えた。


「早いですね」


「内容そのものに、迷う理由がありません」


 ライルは言った。


「人を受け入れて、記録を見せる。それだけなら、これまでやってきたことの延長です」


「人手が、さらに減るかもしれませんよ。教える側の負担も、あります」


 ロイドが、あえて指摘した。


「そこは、条件として伝えます」


 ライルは言った。


「受け入れる人数と期間は、こちらの手が回る範囲でしか約束できません。無理をして受け入れて、日常が崩れたら、本末転倒です」


「無理をしない、というのも、条件のうちですね」


「はい」


 ロイドは、頷いて、その一言も記録に加えた。


「では、何を、考えているんですか」


「私自身が、どこまで関わるかです」


 ライルは、少し間を置いた。


「向こうへ行けば、話は早いかもしれません。アルノ様と直接会って、詳しく話す方が」


「行かれますか」


 ロイドが、静かに尋ねた。


「行きません」


 ライルは、はっきりと言った。


「なぜ、ですか。行くなという指示は、ありませんでしたが」


「指示があったから、行かないわけではありません」


 ライルは言った。


「私が、ここにいたいんです」


 ロイドは、それ以上、理由を尋ねなかった。


「五十七の重複は、まだ解けていません。あの方の氏名も、死の真相もです。ダグラスさんが話せることも、まだ途中です。水路の北側は、来年こそ早く手を入れると約束したばかりです」


 ライルは、一つずつ、数えるように言った。


「どれも、私がいなければ進まない仕事にしてはいけません」


 ライルは言った。


「それでも、ここで見たいんです。自分が全部触らなくても、この場所が回るところまで」


「見届けたい、というのは」


「理由の全部を、言葉にはできません」


 ライルは、正直に言った。


「ただ、ここを離れて、遠くから同じ仕事をする自分は、今、想像できません」


 それは、命じられた不動ではなかった。


 選ばされた不動でもなかった。


 自分で選んだ、不動だった。


 夕方、ダグラスにも、使者の話を伝えた。


「ガルダのやり方が、外へ出て行くんですね」


 ダグラスは、静かに言った。


「出したくない、という気持ちは、ありますか」


 ライルは尋ねた。


「いいえ」


 ダグラスは、首を振った。


「出た先で、誰かが、同じ苦労をしなくて済むなら、それでいいと思います」


 その言葉に、以前のダグラスとは違う響きがあった。


 台帳を隠した男が、今は、記録を外へ渡すことを、自分から望んでいる。


 ミラとヴェクにも、夕方までに話が伝わった。


「私たちの仕事も、見られるんですか」


 ミラが、少し緊張した様子で尋ねた。


「見られます」


 ライルは言った。


「原本保全記録も、官倉の帳票も、間近で見てもらうことになると思います」


「間違えたところも、見られますね」


「はい」


「それは、少し、恥ずかしいです」


 ミラは、正直に言った。


「ですが、間違えを隠さずに直してきたことこそ、見せる価値があると思っています」


 ライルは言った。


「取り繕った記録より、直した跡が残っている記録の方が、余程、参考になります」


 ミラは、少し考えてから、頷いた。


「そう言われると、そうですね」


 ヴェクは、多くを語らなかった。


「見られて、困ることは、していません」


 それだけ言って、いつも通り、官倉の帳票に向き直った。


 カイにも、簡単に伝えた。


「ガルダのやり方を、他の場所でも試すかもしれない、という話が来ました」


「へえ」


 カイは、少し驚いたようだった。


「うまくいくんですか」


「わかりません」


 ライルは、正直に答えた。


「ここで、うまくいったことが、そのまま、他の場所でうまくいくとは限りません」


「土地が違えば、話も違いますもんね」


「はい。だから、まず、見てもらうところから始めます」


 カイは、頷いた。


「俺たちのやり方、そんなに珍しいものだとは、思ってませんでしたけど」


「私も、そう思っていました」


 ライルは、少しだけ、笑った。


 珍しくないと思っていたものが、外から見れば珍しかった。


 それも、この土地で何度も繰り返してきたことだった。


 夜、ライルは返書をまとめた。


 実務研修の受け入れを、原則として受諾する。


 初回は一名。


 期間は短期から開始。


 対象業務は、一般受付、一般化できる原本保全手順、帳票運用を中心に協議する。


 係争中の原本、個人証言、監査資料は、研修を理由とした閲覧対象には含めない。


 閲覧、複写、持ち出しは、権限と目的を確認し、すべて記録する。


 ガルダの日常業務を優先し、支障が出た場合は受入範囲を見直す。


 ガルダの手順を、そのまま他地域の標準とはしない。


 最後に一文。


 ——まず、ガルダで実際の運用をご覧いただきたい。


 ライル自身が帝都へ行かない、とは書かなかった。


 今回、求められていないからだ。


 筆を置き、窓の外を見た。


 どの地域で、最初に試すのかは、まだ何も決まっていない。


 使者も、それについては、何も言わなかった。


 決まっていないことを、決まったことのように書く必要はない。


 わからないことは、わからないまま、記録に残す。


 それだけは、変わらなかった。


 夜、ライルは手帳を開いた。


 アルノ様の使者来訪。技術協力の正式な申し出。受諾の方向で返答。


 受け入れの規模・期間・対象業務は未定。


 ライル自身の帝都行きは、当面なし。


 対象地域、未定。


 それだけを書いた。


 着任した日、この執務所には、割れた窓と、二人の幽霊のような職員しかいなかった。


 今、ここで作られたものが、ガルダの外へ出ようとしている。


 左遷だと、誰もが思った赴任だった。


 その意味が、まだ全部、明らかになったわけではない。


 だが、静かに、確実に、輪郭を持ち始めていた。


 蝋燭を消す前に、ライルは、もう一度、窓の外の畑を見た。


 種は、もう蒔かれている。


 芽が出るまでには、まだ、しばらくかかる。


 それでいい。


 急いで出た芽は、根が浅い。


 ライルは、蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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