第六十三話「ここから、動かす」
着任二百三十二日目。
朝、見慣れない馬車が、執務所の前に停まった。
紋のない、簡素な作りの馬車だった。
だが、御者の礼装と、馬の毛並みは、明らかに帝都のものだった。
降りてきたのは、初めて見る顔の男だった。
年齢は、四十前後。
物腰は丁寧だが、隙のない立ち方をしている。
「アルノ・フォン・ケステル様の使いで参りました」
男は、そう名乗った。
「私的な書状ではなく、口上を預かって参りました」
ロイドが、来訪記録を取りながら、目でライルに確認を求めた。
ライルは、頷いた。
「お伺いします」
応接の間に通し、ロイドが記録役として同席した。
「アルノ様より、正式に、お伝えするようにと申しつかっております」
男は、姿勢を正した。
「これまで、ガルダの行政運用の手順は、文書として拝見してきました。原本保全記録、証言の区分、暫定的な措置の考え方——いずれも、他の地域には見られない形です」
「文書は、お役に立ちましたか」
ライルは尋ねた。
「役に立った、という段階は、すでに過ぎています」
男は言った。
「アルノ様は、これを、文書だけで終わらせるべきではないと、お考えです」
「文書だけでは、足りない、と」
「手順は、書けば伝わるものと、書いただけでは伝わらないものがあります。アルノ様は、そう仰っています」
その言葉に、ライルは、少しの間、黙った。
属人か、制度か。
この土地で、何度も向き合ってきた問いだった。
「具体的には、何を、お求めですか」
ライルは尋ねた。
「その前に、一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
男は、少し姿勢を崩さないまま言った。
「ガルダの仕組みは、この土地の事情に合わせて、一つずつ作られたと聞いております。人手も、限られていると」
「限られています」
ライルは、正直に認めた。
「今、この執務所は、私を含めて五人です。ロイド、ヴェク、ミラ、ダグラス。多いとは言えません」
「にもかかわらず、うかがったところ、その六人で、水路も、官倉も、記録も、すべて回っていると」
「回っています。ただし、余裕があるわけではありません」
ライルは、はっきりと言った。
「余裕のなさまで含めて、お伝えする必要があると思います。うまくいっている部分だけを見せるつもりはありません」
「それを、正直に仰る調整官は、あまりおりません」
男は、初めて、わずかに表情を緩めた。
「技術協力を、正式にお願いしたいと考えております」
男は言った。
「ガルダのやり方を学びたい者を、一定期間、こちらで受け入れていただけないでしょうか。書面だけでなく、実際の運用を、間近で見て、記録し、持ち帰らせたいのです」
「人を、送り込む、ということですか」
「まずは、内政調整局から一名ないし二名。期間、人数、対象業務は、これから調整させていただきます。監査資料の閲覧が必要な場合は、別途権限を確認します」
「私に、帝都へ来るようにという話では、ないんですね」
ライルは、念のため確認した。
「今回は、違います」
男は、少し言葉を選んだ。
「アルノ様は、以前から、そのお考えはないと申しておりました。『ガルダで積み上げたものは、ガルダに人がいてこそ意味を持つ。人を動かすなら、こちらから送る方が理にかなっている』と」
ロイドが、その言葉を、丁寧に書き留めた。
「ご検討いただけますか」
「持ち帰らせていただきたいのですが」
男は、頭を下げた。
「返答に、期限はございません。ただ、アルノ様は、早い返答を望んでおられます」
男が退出したあと、ライルは、しばらく机の前で動かなかった。
「引き受けますか」
ロイドが尋ねた。
「引き受けます」
ライルは、迷わず答えた。
「早いですね」
「内容そのものに、迷う理由がありません」
ライルは言った。
「人を受け入れて、記録を見せる。それだけなら、これまでやってきたことの延長です」
「人手が、さらに減るかもしれませんよ。教える側の負担も、あります」
ロイドが、あえて指摘した。
「そこは、条件として伝えます」
ライルは言った。
「受け入れる人数と期間は、こちらの手が回る範囲でしか約束できません。無理をして受け入れて、日常が崩れたら、本末転倒です」
「無理をしない、というのも、条件のうちですね」
「はい」
ロイドは、頷いて、その一言も記録に加えた。
「では、何を、考えているんですか」
「私自身が、どこまで関わるかです」
ライルは、少し間を置いた。
「向こうへ行けば、話は早いかもしれません。アルノ様と直接会って、詳しく話す方が」
「行かれますか」
ロイドが、静かに尋ねた。
「行きません」
ライルは、はっきりと言った。
「なぜ、ですか。行くなという指示は、ありませんでしたが」
「指示があったから、行かないわけではありません」
ライルは言った。
「私が、ここにいたいんです」
ロイドは、それ以上、理由を尋ねなかった。
「五十七の重複は、まだ解けていません。あの方の氏名も、死の真相もです。ダグラスさんが話せることも、まだ途中です。水路の北側は、来年こそ早く手を入れると約束したばかりです」
ライルは、一つずつ、数えるように言った。
「どれも、私がいなければ進まない仕事にしてはいけません」
ライルは言った。
「それでも、ここで見たいんです。自分が全部触らなくても、この場所が回るところまで」
「見届けたい、というのは」
「理由の全部を、言葉にはできません」
ライルは、正直に言った。
「ただ、ここを離れて、遠くから同じ仕事をする自分は、今、想像できません」
それは、命じられた不動ではなかった。
選ばされた不動でもなかった。
自分で選んだ、不動だった。
夕方、ダグラスにも、使者の話を伝えた。
「ガルダのやり方が、外へ出て行くんですね」
ダグラスは、静かに言った。
「出したくない、という気持ちは、ありますか」
ライルは尋ねた。
「いいえ」
ダグラスは、首を振った。
「出た先で、誰かが、同じ苦労をしなくて済むなら、それでいいと思います」
その言葉に、以前のダグラスとは違う響きがあった。
台帳を隠した男が、今は、記録を外へ渡すことを、自分から望んでいる。
ミラとヴェクにも、夕方までに話が伝わった。
「私たちの仕事も、見られるんですか」
ミラが、少し緊張した様子で尋ねた。
「見られます」
ライルは言った。
「原本保全記録も、官倉の帳票も、間近で見てもらうことになると思います」
「間違えたところも、見られますね」
「はい」
「それは、少し、恥ずかしいです」
ミラは、正直に言った。
「ですが、間違えを隠さずに直してきたことこそ、見せる価値があると思っています」
ライルは言った。
「取り繕った記録より、直した跡が残っている記録の方が、余程、参考になります」
ミラは、少し考えてから、頷いた。
「そう言われると、そうですね」
ヴェクは、多くを語らなかった。
「見られて、困ることは、していません」
それだけ言って、いつも通り、官倉の帳票に向き直った。
カイにも、簡単に伝えた。
「ガルダのやり方を、他の場所でも試すかもしれない、という話が来ました」
「へえ」
カイは、少し驚いたようだった。
「うまくいくんですか」
「わかりません」
ライルは、正直に答えた。
「ここで、うまくいったことが、そのまま、他の場所でうまくいくとは限りません」
「土地が違えば、話も違いますもんね」
「はい。だから、まず、見てもらうところから始めます」
カイは、頷いた。
「俺たちのやり方、そんなに珍しいものだとは、思ってませんでしたけど」
「私も、そう思っていました」
ライルは、少しだけ、笑った。
珍しくないと思っていたものが、外から見れば珍しかった。
それも、この土地で何度も繰り返してきたことだった。
夜、ライルは返書をまとめた。
実務研修の受け入れを、原則として受諾する。
初回は一名。
期間は短期から開始。
対象業務は、一般受付、一般化できる原本保全手順、帳票運用を中心に協議する。
係争中の原本、個人証言、監査資料は、研修を理由とした閲覧対象には含めない。
閲覧、複写、持ち出しは、権限と目的を確認し、すべて記録する。
ガルダの日常業務を優先し、支障が出た場合は受入範囲を見直す。
ガルダの手順を、そのまま他地域の標準とはしない。
最後に一文。
——まず、ガルダで実際の運用をご覧いただきたい。
ライル自身が帝都へ行かない、とは書かなかった。
今回、求められていないからだ。
筆を置き、窓の外を見た。
どの地域で、最初に試すのかは、まだ何も決まっていない。
使者も、それについては、何も言わなかった。
決まっていないことを、決まったことのように書く必要はない。
わからないことは、わからないまま、記録に残す。
それだけは、変わらなかった。
夜、ライルは手帳を開いた。
アルノ様の使者来訪。技術協力の正式な申し出。受諾の方向で返答。
受け入れの規模・期間・対象業務は未定。
ライル自身の帝都行きは、当面なし。
対象地域、未定。
それだけを書いた。
着任した日、この執務所には、割れた窓と、二人の幽霊のような職員しかいなかった。
今、ここで作られたものが、ガルダの外へ出ようとしている。
左遷だと、誰もが思った赴任だった。
その意味が、まだ全部、明らかになったわけではない。
だが、静かに、確実に、輪郭を持ち始めていた。
蝋燭を消す前に、ライルは、もう一度、窓の外の畑を見た。
種は、もう蒔かれている。
芽が出るまでには、まだ、しばらくかかる。
それでいい。
急いで出た芽は、根が浅い。
ライルは、蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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