表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
62/64

第六十二話「線が、伸びる」

 着任二百二十五日目。


 アルノからの私信が届いてから、七日が経っていた。


 その間、新しい報告はなかった。


 種まきは、北側も終わり、あとは水と天候に任せる時期に入っていた。


 執務所の日常は、変わらず続いている。


 来訪者記録。


 官倉の帳票。


 水路の見回り。


 ライルは、待つ間も、手を止めなかった。


 待つことと、何もしないことは、違う。


 着任した頃から、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。


「今日は、あれを見直そうと思います」


 朝、ライルはロイドに言った。


「あれ、というのは」


「辞令書の余白印の写し、布切れの図、そして、旧受領台帳の欠落した綴りの記録です」


「三つを、並べるんですね」


「並べるだけです」


 ライルは言った。


「つなげるかどうかは、その後です」


 ロイドが、施錠棚から三つの記録を取り出した。


 辞令書の余白印を写し取った紙。


 布切れに残っていた意匠の図。


 そして、七、八年前に抜き取られた綴りの、直前まで記された最後の頁の写し。


 三つを、机の上に並べる。


 ミラも、呼ばれて加わった。


「見比べるのは、初めてですか」


 ミラが尋ねた。


「初めてです」


 ライルは答えた。


「今まで、意図的に並べませんでした。似ていると決めてから見ると、似ているところしか見えなくなります」


「今日は、いいんですか」


「材料が、少し増えました。並べても、感情で判断しないだけの、事実の量があると思います」


 三つの図を、時間をかけて見比べる。


 辞令書の余白印は、外縁に細い曲線があり、中央が空いている。


 布切れの意匠は、半分が破損しているが、外縁の曲線の角度が近い。


 似ている、とすぐには言わない。


 角度を測り、線の太さを写し取り、重ねずに、並べたまま見る。


 それが、これまでこの執務所が守ってきた手順だった。


 欠落した綴りの最後の頁には、几帳面な筆致で、日付と確認者の署名欄がある。


 水路修繕費の異常、土地の移動、穀物の行き先——あの方が書き残した、几帳面な記録の最後の一枚だった。


 その署名欄の脇に、小さな印影が、薄く残っていた。


 これまで、誰も注目していなかった印影だった。


 欠落の異常そのものに気を取られ、頁の隅の薄い印までは、誰も目を向けていなかった。


「これは」


 ロイドが、声を落とした。


「確認者印、ではありませんね。位置が違います」


「はい」


 ライルは、目を近づけた。


「確認者印の隣に、もう一つ、別の印がある。今まで、消えかけていて、誰も気づきませんでした」


 ミラが、灯りを近づけた。


 薄い印影の輪郭が、少しだけはっきりする。


 外縁の曲線。


 中央が空いた形。


 辞令書の余白印、布切れの意匠と、輪郭の一部が重なって見えた。


「同じ、でしょうか」


 ミラが、小さく言った。


「まだ、断定はできません」


 ライルは言った。


「薄れた印影と、破損した布と、辞令書の印を、目視だけで同一と決めるのは、早すぎます」


「ですが」


「ですが、少なくとも、この綴りに、同じ系統に見える印が押されていたことは、事実として記録できます」


 ライルは、筆を執った。


 欠落直前頁、確認者欄脇に図形様痕跡あり。斜光下で一部輪郭を確認。辞令書余白印および布片意匠と共通して見える特徴あり。ただし欠損・退色のため同一性は未判定。


 そう書いた。


 ロイドが、それを読み、頷いた。


「七、八年前に、この印が、すでにここにあった」


「あったとすれば、です」


 ライルは、慎重に言い直した。


「あの方が記録を残した頃、この印を知っている、または、この印に関わる誰かが、ガルダに関わっていたかもしれない」


「かもしれない、が続きますね」


「今は、それしか言えません」


 昼過ぎ、ダグラスが、施錠棚の点検のために部屋へ入ってきた。


 机の上の三つの図を見て、足を止めた。


「これは」


「欠落した綴りの、最後の頁です」


 ライルは言った。


「確認者印の脇に、薄い印影がありました。今まで、気づかれていませんでした」


 ダグラスは、しばらく、その印影を見つめていた。


 顔から、少しずつ、血の気が引いていくのが、ロイドにもわかった。


「ダグラスさん」


「……見たことが、あります」


 ダグラスは、低く言った。


「あの方の、机の上で」


「机の上で」


 ライルは、重ねて尋ねた。


「詳しく、聞かせてもらえますか」


 ダグラスは、すぐには答えなかった。


 長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「あの方が、まだ執務所に来ていた頃です。夜、机の上に、この印が押された紙を見たことがあります。中身は、読んでいません。見ただけです」


「誰かに、見せられたんですか」


「いいえ」


 ダグラスは、首を振った。


「見てはいけないものを見た、という感覚だけがあります。あの方は、すぐに紙を伏せました。それきり、聞かないようにしていました」


「なぜ、聞かなかったんですか」


 ロイドが尋ねた。


 ダグラスは、その質問に、すぐには答えなかった。


「私も、かつては、そちら側にいました」


 ダグラスは、以前も口にした言葉を、また繰り返した。


「そちら側、というのは」


 ライルが、静かに尋ねた。


「まだ、全部は話せません」


 ダグラスは、目を伏せた。


「話せば、私だけの話では、済まなくなります」


「私だけの話では、済まない」


「はい」


 ダグラスは、それだけ言った。


「今、話せるのは、この印を見たことがある、ということだけです。誰から、なぜ、その場所にいたのか——それは、もう少し、待ってください」


「待ちます」


 ライルは言った。


「話せる時に、話してください。急かしません」


「急かさない、と、もう何度も言われました」


 ダグラスは、かすかに笑った。


 自嘲でも、安堵でもない、その中間のような笑い方だった。


「それでも、話す踏ん切りが、まだつきません。情けない話です」


「情けないとは、思いません」


 ライルは言った。


「話せば、誰かを巻き込む。話さなければ、自分だけが抱える。どちらも、軽い選択ではありません」


 ダグラスは、しばらく黙っていた。


「昔は、軽い選択のつもりで、黙っていました」


 やがて、そう言った。


「今は、そうではないと、わかっています」


 それだけ言うと、小さく頭を下げ、部屋を出ていった。


 残されたのは、断片だけだった。


 あの方の机の上に、同じ印。


 ダグラス自身が、かつて「そちら側」にいたという事実。


 だが、その先は、まだ閉じられたままだった。


「無理に、開けますか」


 ミラが尋ねた。


「開けません」


 ライルは言った。


「ダグラスさんが、自分の言葉で話せる時を待ちます。それが、これまでのやり方でした」


 ロイドが、記録をまとめ直した。


 欠落した綴りに残る印影と、辞令書の余白印、布切れの意匠が、同じ系統に見える特徴を持つこと。


 ダグラスが、あの方の周辺で、この印を見た記憶があると証言したこと。


 ただし、詳細な経緯は、本人の意向により未開示であること。


「監査室へは」


 ロイドが尋ねた。


「事実だけ、報告します」


 ライルは言った。


「印影の特徴、証言の存在、それ以上の解釈はまだ書きません」


「アルノ様には」


「同じ内容を、私信で伝えます」


 ライルは言った。


「原本を再点検して類似特徴を持つ痕跡が見つかり、正式に監査室へ報告した。その事実だけ伝えます。図そのものは、私信には載せません」


 夕方、カイが集荷の相談で立ち寄り、机の上の図に気づいた。


「これ、何かわかったんですか」


「わかりかけている、というところです」


 ライルは言った。


「まだ、確かなことは言えません」


「またそれですか」


 カイは、小さく笑った。


「いつも、そうですね。すぐには言い切らない」


「言い切って、後で違ったら、困るのは聞いた側です」


「まあ、そうですけど」


 カイは、それ以上聞かず、集荷の話に戻った。


 急かさない、という態度は、いつのまにか、カイにも根づいていた。


 夕刻、返書の下書きをしながら、ライルは、机の上の三つの図を、もう一度見た。


 ガルダの中に、七、八年前から、この印の痕跡があった。


 布の切れ端は、今年、ガルダの外から来た者の袖口だった。


 辞令書の余白印は、帝都の誰かが押したものだった。


 場所も、時期も違う三つが、一つの輪郭を、少しずつ形にし始めている。


 まだ、線と呼べるほどのものではない。


 だが、点だったものが、点でなくなろうとしていた。


「近づいている、と思いますか」


 ロイドが尋ねた。


「近づいています」


 ライルは、今回は、はっきりと答えた。


「ただ、近づいた先に何があるかは、まだわかりません」


「怖くは、ないですか」


「怖いです」


 ライルは、正直に言った。


「ですが、止まる理由には、なりません」


 夜、ライルは手帳を開いた。


 欠落綴りの印影発見。辞令書の余白印、布切れの意匠と類似する特徴あり。同一とは断定せず。


 ダグラス、あの方の机上で同印を見た記憶があると証言。詳細は本人の意向により保留。


 監査室・アルノ双方へ報告予定。


 それだけを書いた。


 多くを書けなかったのではない。


 多くを、まだ書くべきではなかった。


 辞令書の余白印は、帝都の誰かが、ライルの赴任に何らかの意味を持たせた印だった。


 その印と、七、八年前のガルダに残された印影が、同じ系統に見える。


 ということは、その帝都の誰かにつながる何かは、七、八年前から、すでにこの土地に関わっていたことになる。


 あるいは、そう見えるだけかもしれない。


 断定は、まだ早い。


 窓の外、種まきを終えた畑が、静かに夜へ沈んでいく。


 ガルダの中と、ガルダの外から伸びてきた二本の線が、今、初めて、同じ場所で交わろうとしていた。


 その先に何があるのかは、まだ、誰にもわからない。


 わからないことを、わかったことにはしない。


 それだけを守りながら、ライルは、蝋燭を消した。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ