第六十一話「静かな春」
着任二百十八日目。
雪は、もうどこにも残っていなかった。
水路には、雪解け水ではなく、春の雨を含んだ水が流れている。
畑では、種まきが始まっていた。
南側はすでに半分近くが終わり、北側もようやく取りかかったところだった。
市場には、種麦と農具をやり取りする声が飛び交っている。
冬の間、静かだった通りに、また人の足音が戻っていた。
執務所の朝は、収穫期ほどではないにせよ、いつもより早い。
種まきの時期には、種まきの時期なりの忙しさがある。
ゲオルグが、水路の見回りから戻ってきた。
「北側、二か所、水の出が悪い箇所がありました」
「昨年の泥上げで、直しきれなかった場所ですか」
ライルが尋ねた。
「はい。ですが、今のところ、田には届いています」
「今週中に、手を入れられますか」
「人を集めれば」
ゲオルグは、少し考えた。
「種まきの手を止めない範囲で、なら」
「その範囲で、お願いします」
「わかりました」
短いやり取りだった。
以前なら、ライルが現場まで見に行っていた。
今は、ゲオルグの報告だけで、判断がつく。
それだけの記録と、それだけの信頼が、積み上がっていた。
ゲオルグが、もう一つ付け加えた。
「ニルスの畑、今年も蒔きました」
「暫定使用の分ですね」
「はい。『納得はしていない』と、去年と同じことを言いながら、蒔いていました」
「納得は、していない」
ライルは、その言葉を繰り返した。
「それでも、蒔く」
「はい」
ゲオルグは、頷いた。
「納得と、暮らしは、別なんでしょう」
ライルは、それ以上、何も言わなかった。
言葉にしなくても、記録には、残る。
今年もニルスの畑へ種が入った。その事実だけを、名義の問題とは分けて残せばよかった。
午後、その本人が、官倉への道すがら執務所に立ち寄った。
「種は、蒔きました」
ニルスは、それだけ言った。
「畑を見ました。順調そうです」
ライルは答えた。
「順調かどうかは、まだわかりません」
ニルスは、素っ気なく言った。
「ただ、今年も蒔けたことは、蒔けました」
「それで、十分だと思います」
「十分とは、思っていません」
ニルスは、いつもの調子で返した。
「名義のことは、まだ、片づいていませんから」
「はい」
ライルは、それを否定しなかった。
「そちらは、監査室の判断待ちのままです。動きがあれば、すぐに伝えます」
「わかっています」
ニルスは、頷いた。
「催促に来たわけじゃありません。蒔いたことを、伝えに来ただけです」
それだけ言うと、官倉のほうへ歩いていった。
納得はしていない。
だが、種は蒔く。
二つは、矛盾しないまま、同じ人の中にあった。
執務所の中では、ロイドが、来訪者への回答を一人で仕上げていた。
隣村から届いた、水路の運用方法についての問い合わせだった。
「以前と同じ形式で、よろしいですか」
ロイドが、書き上げた回答をライルに見せた。
ライルは、目を通した。
個人の名前、個別の事情には触れず、再現できる手順だけを答える。
いつもの形だった。
「これで、結構です」
「はい」
ロイドは、それだけで、封をした。
確認のために持ってきたというより、記録として見せに来た、という様子だった。
手順書ができてから、こうした場面が増えていた。
ミラは、原本保全記録の月次点検をしていた。
一件ずつ、番号、状態、確認者を照らし合わせていく。
「一件、確認者の欄が空欄のままでした」
ミラが言った。
「先月、ヴェクさんが確認したはずの分です」
「では、ヴェクに聞いてください」
「もう聞きました。確認はしたが、書き忘れたそうです」
「では、日付を、今日のものとして書き足してもらってください。確認した日ではなく、書いた日として」
「わかりました」
ミラは、頷いた。
小さな抜けを、小さいまま処理する。
大きくしないための作業が、日常の中に、いくつも紛れていた。
ヴェクは、官倉の入り口で、種麦の受け渡しを記録していた。
誰が、何を、どれだけ持ち帰ったか。
数字だけの、単純な仕事だった。
だが、その数字は、後で誰かの畑の広さと結びつく。
ヴェクは、それを知っていた。
昼、ダグラスが、施錠棚の鍵の受け渡しを記録に残していた。
鍵は二本。
一人では、開けられない。
暫定命令が決めた形が、今も、そのまま続いている。
ダグラスは、その運用に、何も言わなかった。
言わなくなって、もう長い。
ただ、記録の欄を埋める手つきだけは、以前より、迷いがなかった。
「今日も、二人ですね」
ロイドが、鍵を受け取りに来て言った。
「はい」
ダグラスは、短く答えた。
それ以上の会話はなかった。
だが、鍵を渡す手と、受け取る手の間に、かつてのような緊張はなかった。
昼過ぎ、カイが立ち寄った。
集荷連絡役としての仕事は、収穫期以外は少ない。
それでも、時々、様子を見に来る。
「今年の収穫期、弟にも少し覚えてもらおうと思っています」
カイが言った。
「トビアスですか」
ロイドが、名前を覚えていたことに、カイが少し驚いた顔をした。
「はい。集荷の記録の付け方だけでも、教えておきたくて」
「一緒に、覚えてもらいますか」
ライルが尋ねた。
「はい。俺一人でやる仕事じゃないと、そろそろ思うので」
「一人で抱えるのが、不安になりましたか」
「不安、というより」
カイは、少し考えてから言った。
「俺が急に動けなくなったら、集荷が止まる。それは、まずいと思っただけです」
「まずい、というのは」
「去年、水が止まった年みたいに、誰かが困る前提で、仕組みを作るべきだと思うので」
ライルは、少しの間、カイを見た。
「いい判断だと思います」
「そうですか」
カイは、少しだけ照れたように言った。
「調整官様の真似ってわけじゃ、ないですけど」
「真似でなくても、同じ考えに、たどり着くことはあります」
「そういうものですか」
「そういうものです」
それだけのやり取りだった。
だが、記録の作法が、一人からもう一人へ、また渡ろうとしていた。
ロイドが、隣で、静かにそのやり取りを書き留めていた。
誰に頼まれたわけでもない。
残しておく価値があると、自分で判断しただけだった。
午後、監査室からの定例の書状が届いた。
五十七の重複についても、あの方の件についても、「継続して確認中」という一文があるだけだった。
新しい事実はない。
それでも、ロイドは、その一文を丁寧に書き写した。
「進んでいない、という記録も、記録です」
「はい」
ライルは頷いた。
「止まっていないことだけは、確かめられます」
「もどかしくは、ないですか」
ミラが、遠慮がちに尋ねた。
「もどかしいです」
ライルは、正直に答えた。
「ですが、もどかしさを理由に、書いていないことを書いたことにはしません」
ミラは、その答えを、そのまま受け止めたようだった。
夕刻、私的な経路で、書状が一通届いた。
差出人は、アルノ・フォン・ケステル。
いつもより、わずかに厚みのある封だった。
ライルは、封を切った。
文面は、前回よりも、少しだけ長かった。
——布の意匠について、方々に手を回している。
まだ、確かなことは言えない。
ただ、ある地域で、似た事例があったという話を、一件、得た。
詳細は、こちらでもまだ、把握しきれていない。
引き続き、確かめる。
それだけだった。
地名はない。
年代も、はっきりとは書かれていない。
「似た事例、ですか」
ロイドが、横から文面をのぞき込んだ。
「詳しくは、書かれていません」
ライルは言った。
「アルノ様自身、まだ確かめきれていないのだと思います」
「ガルダの外にも、同じようなことが」
「あるのかもしれません」
ライルは、文面をもう一度読んだ。
「あるいは、ないのかもしれません」
「慎重ですね」
「今は、それしか言えることがありません」
手がかりは、増えた。
だが、形にはまだ、遠い。
一つの地名も、一つの年も、まだ、ここにはなかった。
それでも、遠くのどこかで、誰かが同じものを探しているという事実は、残った。
ロイドが、文面をもう一度、読み返した。
「ガルダの中だけを見ていた頃とは、少し、違う話になってきましたね」
「まだ、なっていません」
ライルは言った。
「なるかもしれない、というだけです」
「その慎重さが、もどかしくもあります」
ロイドは、正直に言った。
「わかっています」
ライルは頷いた。
「ですが、地名も年も揃わないうちに、頭の中でだけ話を進めることはしません」
「進めたく、なりませんか」
「なります」
ライルは、短く認めた。
「だからこそ、しません」
「返書は」
ロイドが尋ねた。
「短く書きます」
ライルは言った。
「詳細がわかれば、知らせてほしいということだけ」
「それだけ、ですか」
「今、こちらから急かしても、確かめる速さは変わりません」
ライルは、筆を執った。
短い返書を書き、封をした。
夜、ライルは手帳を開いた。
水路北側、二か所、修繕手配。
ニルスの田、今年も種まき完了。
隣村への回答、送付済み。
原本保全記録、月次点検完了。
カイ、集荷記録の引き継ぎを検討。
アルノより、私信一通。似た事例、一件。詳細未確認。
それだけを書いた。
蝋燭を消す前に、窓の外を見た。
畑の向こうで、遅くまで種をまく人影が、まだ動いていた。
水路の音が、去年より、少しだけ穏やかに聞こえる。
着任した年の春は、割れた窓と、幽霊のような職員二人しかいなかった。
今の執務所には、五人分の足音がある。
誰かが休んでも、誰かが代わりに動ける形が、少しずつできていた。
春は、静かに進んでいる。
だが、静かなことと、何も起きていないことは、同じではなかった。
小さな手がかりが一つ、また一つ、遠くから届き始めている。
それが何につながるのかは、まだ、誰にもわからない。
わからないことを、わかったことにはしない。
それだけを守りながら、ライルは、蝋燭を消した。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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