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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第七章:牙を、見せる時

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第六十話「牙を、しまう」

 着任百九十六日目。


 監査室からの使者が、ガルダに着いた。


 馬を引いて、まっすぐ執務所へ向かってきた。


 その顔に、見覚えがあった。


「監査官ローデン様」


 ロイドが、来訪記録を取りながら言った。


 痩せた体格。


 眼鏡の奥の目が、絶えず動いている。


 以前、ガルダの原本を現地閲覧しに来て以来だった。


「また、あなたか」


 ローデンは、開口一番に言った。


 皮肉ではなく、事実として述べたような口調だった。


「ガルダは、静かな土地だと聞いていたんですがね」


「静かな土地です」


 ライルは答えた。


「ただ、時々、そうでなくなります」


 ローデンは、鼻を鳴らした。


「捕らえた二名を、引き取りに来ました」


 ミラが、来訪者用の水を運んできた。


 ローデンは、それを一口飲み、湯呑みを置いた。


「新しい顔ですね」


「補助者のミラです」


 ロイドが答えた。


「この冬から、補助者として勤めています」


「ふうん」


 ローデンは、それだけ言った。


 興味があるのか、ないのか、わかりにくい相槌だった。


 空き部屋の男たちは、この五日、必要な応答だけはするようになっていた。


 水や食事の要否には答える。


 だが、名前も、所属も、依頼主も明かさない。


 一人が「あの方からも、同じことを聞かれた」と話した以外、事件に関する発言は増えていなかった。


 ローデンは、二人の状態を確かめ、ロイドの記録に目を通した。


 意識回復の時刻。


 発言内容。


 医療処置の記録。


 強制の有無。


 一つずつ、読み進める。


「強制はしなかった、と」


「していません」


 ライルは答えた。


「監査室の条件通りです」


「条件通り、か」


 ローデンは、記録から顔を上げた。


「答えを急げば、もっと強く問い詰めたくなる場面もあったでしょう」


「あったと思います」


「なぜ、しなかった」


「後で崩れる答えは、答えとして使えません」


 ライルは、静かに言った。


「今、崩れない形で残しておく方が、後々、役に立ちます」


 ローデンは、しばらく黙っていた。


「ライル・フォン・ヴァルディス殿の判断記録も、拝見しました」


「はい」


「異議欄に、ロイド殿の署名がありましたね。『判断の是非については、現時点で意見を持たない』と」


「そう書きました」


 ロイドが答えた。


「賢明だ」


 ローデンは、それだけ言った。


 褒め言葉なのか、皮肉なのか、判別しにくい声だった。


「二名は、こちらで引き取ります。以後の処遇、追及は、監査室の管轄です」


「調べは、進みますか」


 ライルは尋ねた。


「約束はできません」


 ローデンは、正直に言った。


「名乗らない者から、名前を引き出すのは、時間がかかります。ですが、放置はしません」


「放置しない、というのは」


「継続審議、という言葉を、あなたも見飽きたでしょう」


 ローデンは、口の端をわずかに歪めた。


「今回は、それとは違います。この件は、監査室の正式調査案件として扱われます。少なくとも、未処理のまま棚へ戻ることはありません」


 その言葉には、いつもの皮肉が、少しだけ薄かった。


「布切れの記録は」


 ライルが尋ねた。


「ダグラスの証言と合わせて、写しをお渡しします」


「拝見します」


 ローデンは、写しを受け取り、目を通した。


「『見覚えがある気がする』——曖昧な証言ですね」


「曖昧なまま、残しました」


 ライルは言った。


「確信のないことを、確信があるように書くよりは、いいと思っています」


「まったく」


 ローデンは、小さく息を吐いた。


「この執務所は、いつも、そういう書き方をする」


 それが、褒め言葉なのかどうかは、今回もわからなかった。


 引き渡しの前に、身柄と所持品を別々に確認した。


 二名。


 短刀二振り。


 少額の貨幣。


 身元を示す物、確認できず。


 ガルダ側の保全記録と、ローデン側の受領書を一件ずつ突き合わせる。


 受領時刻。


 引渡者。


 受領者。


 二人の現在の状態。


 そこまで記して、双方が署名した。


 午後、二人の男は、ローデンの護衛とともに、荷馬車で継立場へ向かった。


 ライル、ロイド、ゲオルグ、カイが、その様子を見送った。


 ダグラスも、少し離れた場所に立っていた。


 布切れを見つけた日から、必要な作業以外はあまり話さなくなっていた。


 荷馬車に乗せられる男たちを見ながら、ダグラスは小さく言った。


「あの人たちも、誰かに命じられて、ここまで来たんでしょう」


「そう見えます」


 ライルは答えた。


「命じた側は、まだ姿を見せません」


「私も、かつては、そちら側にいました」


 ダグラスは、それだけ言った。


 誰も、何も返さなかった。


 誰も、多くを語らなかった。


 男たちも、最後まで名乗らなかった。


 ただ、荷馬車が動き出す直前、一人がライルの方を見た。


 何かを言いかけて、やめた。


 それだけだった。


 荷馬車が、雪の残る道を遠ざかっていく。


 やがて、見えなくなった。


 カイが、その道の先を、しばらく見ていた。


「もう、来ないでしょうか」


「わかりません」


 ライルは答えた。


「ただ、あの二人については、今日、監査室へ引き渡しました」


「今は、俺たちが見張る相手ではない」


「はい」


 カイは、小さく頷いた。


 それで十分だ、という頷き方だった。


「一区切り、ですね」


 ロイドが言った。


「一区切りです」


 ライルは答えた。


「終わり、ではありません」


 「伝えておく」という言葉は、まだ、誰にも届いた形跡がない。


 あの方の氏名も、死の真相も、まだわからないままだった。


 だが、抱えていたものの一部が、今、執務所の手を離れた。


 その分だけ、軽くなった。


 軽くなった分だけ、次の重さを受け止められる。


 夕方、ゲオルグが水路の様子を見て戻ってきた。


「北側の継ぎ目、割れずに持ちました」


 その一言に、ライルは少しの間、目を閉じた。


 冬の初め、泥を上げきれずに越冬させた区画だった。


「よかったです」


「はい」


 ゲオルグは頷いた。


「今年は、越せました。来年は、もう少し早く手を入れられるといいですね」


「そうします」


 小さな約束が、また一つ積まれた。


 ミラが、市場での様子を報告に来た。


「『調査中の一件』の話は、もうほとんど聞かなくなりました」


「そうですか」


「今日、話題になっていたのは、種まきの時期のことでした」


 ミラは、少し笑った。


「北側は例年より遅くなりそうだ、南側はそろそろだ、と」


「それが、いつもの春ですね」


 ライルは言った。


 噂は、消えたわけではない。


 だが、村の暮らしの奥へ、静かに沈んでいった。


 いつか、また誰かが思い出すかもしれない。


 その時は、記録がある。


 嘘のない記録が。


 夜、ライルとロイドは、水路沿いを歩いた。


 並んではいない。


 互いの姿が見える程度に、少し距離を空けている。


 一人にはしない、という取り決めは、まだ続けていた。


 雪はほとんど融け、水路には春の水が流れ始めていた。


 着任した日、まだ土がぬかるんでいた道を思い出す。


 受領証を書いた夜。


 別帳を受け取った日。


 水が通った朝。


 噂を記録すると決めた日。


 説明会を開いた日。


 暫定命令が届いた日。


 木箱を見つけた日。


 そして、短杖を抜いた夜。


 どれも、一つずつ、理由があって積み重なった。


 理由のないものは、一つもなかった。


 前世で、崩れていく地方を、ただ見ていることしかできなかった夜があった。


 数字だけが積み上がり、人が減り、誰も止められなかった夜。


 あの時、知っていたことが、何の力にもならなかった。


 知っているだけでは、足りなかった。


 だから、今度は、知っているだけでは終わらせない。


 知っているなら、動く。


 動いた分だけ、記録に残す。


 残った記録は、自分がいなくなっても、誰かが読める。


 その繰り返しが、たぶん、唯一できることだった。


 声には出さなかった。


 誰にも語らない考えだった。


 だが、水路の音を聞きながら、その考えは、いつもより少しだけ、はっきりしていた。


「何か、考え事ですか」


 ロイドが、少し後ろから声をかけた。


「昔のことです」


 ライルは答えた。


「ガルダへ来る前の」


「もっと前です」


 ロイドは、少しだけ間を置いた。


「聞いても」


「今は、まだ」


「わかりました」


 それ以上、聞かなかった。


 話せないことを、無理に聞き出さない。


 それも、この執務所で少しずつできた作法だった。


 上着の内側、短杖の位置を確かめる。


 握らない。


 抜かない。


 ただ、そこにあることを、もう一度確かめただけだった。


 牙は、必要な時にだけ見せる。


 見せ終えたら、しまう。


 それだけのことだった。


 執務所へ戻ると、机の上に、新しい書状が届いていた。


 私的な経路だった。


 差出人は、アルノ・フォン・ケステル。


 文面は短い。


 ——布の意匠について、こちらでも心当たりを探っている。古い記録の中に、似た図があるとの話を一件得た。ただし、原本はまだ確認できていない。ガルダだけの話ではない可能性がある。


 ライルは、その一文を、二度読んだ。


 ガルダだけの話ではない可能性がある。


 帝都の方角を、思い浮かべる。


 まだ、遠い。


 古い記録に似た図があるという話も、原本確認前だ。


 それでも、ガルダの外にも確かめる場所が一つ増えた。


 今、言えるのはそこまでだった。


 水路の遅れも。


 五十七の重複も。


 あの方の写しも。


 布切れの意匠も。


 一つ一つは小さい。


 だが、小さいものが集まって、一つの形になろうとしている。


 その形が何かは、まだわからない。


 わからないことを、わかったことにはしない。


 それだけは、変わらなかった。


 着任した日から、百九十六日。


 変わったことは、数え切れない。


 変わらなかったことも、確かにあった。


 その両方を抱えたまま、ライルは、手帳を開いた。


 着任百九十六日目。


 捕らえた二名、監査室へ引き渡し完了。


 水路北側、越冬確認。


 アルノより、私信一通。


 それだけを書いた。


 蝋燭を消した。


 窓の外、水路の音が、春の始まりを告げていた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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