第六十話「牙を、しまう」
着任百九十六日目。
監査室からの使者が、ガルダに着いた。
馬を引いて、まっすぐ執務所へ向かってきた。
その顔に、見覚えがあった。
「監査官ローデン様」
ロイドが、来訪記録を取りながら言った。
痩せた体格。
眼鏡の奥の目が、絶えず動いている。
以前、ガルダの原本を現地閲覧しに来て以来だった。
「また、あなたか」
ローデンは、開口一番に言った。
皮肉ではなく、事実として述べたような口調だった。
「ガルダは、静かな土地だと聞いていたんですがね」
「静かな土地です」
ライルは答えた。
「ただ、時々、そうでなくなります」
ローデンは、鼻を鳴らした。
「捕らえた二名を、引き取りに来ました」
ミラが、来訪者用の水を運んできた。
ローデンは、それを一口飲み、湯呑みを置いた。
「新しい顔ですね」
「補助者のミラです」
ロイドが答えた。
「この冬から、補助者として勤めています」
「ふうん」
ローデンは、それだけ言った。
興味があるのか、ないのか、わかりにくい相槌だった。
空き部屋の男たちは、この五日、必要な応答だけはするようになっていた。
水や食事の要否には答える。
だが、名前も、所属も、依頼主も明かさない。
一人が「あの方からも、同じことを聞かれた」と話した以外、事件に関する発言は増えていなかった。
ローデンは、二人の状態を確かめ、ロイドの記録に目を通した。
意識回復の時刻。
発言内容。
医療処置の記録。
強制の有無。
一つずつ、読み進める。
「強制はしなかった、と」
「していません」
ライルは答えた。
「監査室の条件通りです」
「条件通り、か」
ローデンは、記録から顔を上げた。
「答えを急げば、もっと強く問い詰めたくなる場面もあったでしょう」
「あったと思います」
「なぜ、しなかった」
「後で崩れる答えは、答えとして使えません」
ライルは、静かに言った。
「今、崩れない形で残しておく方が、後々、役に立ちます」
ローデンは、しばらく黙っていた。
「ライル・フォン・ヴァルディス殿の判断記録も、拝見しました」
「はい」
「異議欄に、ロイド殿の署名がありましたね。『判断の是非については、現時点で意見を持たない』と」
「そう書きました」
ロイドが答えた。
「賢明だ」
ローデンは、それだけ言った。
褒め言葉なのか、皮肉なのか、判別しにくい声だった。
「二名は、こちらで引き取ります。以後の処遇、追及は、監査室の管轄です」
「調べは、進みますか」
ライルは尋ねた。
「約束はできません」
ローデンは、正直に言った。
「名乗らない者から、名前を引き出すのは、時間がかかります。ですが、放置はしません」
「放置しない、というのは」
「継続審議、という言葉を、あなたも見飽きたでしょう」
ローデンは、口の端をわずかに歪めた。
「今回は、それとは違います。この件は、監査室の正式調査案件として扱われます。少なくとも、未処理のまま棚へ戻ることはありません」
その言葉には、いつもの皮肉が、少しだけ薄かった。
「布切れの記録は」
ライルが尋ねた。
「ダグラスの証言と合わせて、写しをお渡しします」
「拝見します」
ローデンは、写しを受け取り、目を通した。
「『見覚えがある気がする』——曖昧な証言ですね」
「曖昧なまま、残しました」
ライルは言った。
「確信のないことを、確信があるように書くよりは、いいと思っています」
「まったく」
ローデンは、小さく息を吐いた。
「この執務所は、いつも、そういう書き方をする」
それが、褒め言葉なのかどうかは、今回もわからなかった。
引き渡しの前に、身柄と所持品を別々に確認した。
二名。
短刀二振り。
少額の貨幣。
身元を示す物、確認できず。
ガルダ側の保全記録と、ローデン側の受領書を一件ずつ突き合わせる。
受領時刻。
引渡者。
受領者。
二人の現在の状態。
そこまで記して、双方が署名した。
午後、二人の男は、ローデンの護衛とともに、荷馬車で継立場へ向かった。
ライル、ロイド、ゲオルグ、カイが、その様子を見送った。
ダグラスも、少し離れた場所に立っていた。
布切れを見つけた日から、必要な作業以外はあまり話さなくなっていた。
荷馬車に乗せられる男たちを見ながら、ダグラスは小さく言った。
「あの人たちも、誰かに命じられて、ここまで来たんでしょう」
「そう見えます」
ライルは答えた。
「命じた側は、まだ姿を見せません」
「私も、かつては、そちら側にいました」
ダグラスは、それだけ言った。
誰も、何も返さなかった。
誰も、多くを語らなかった。
男たちも、最後まで名乗らなかった。
ただ、荷馬車が動き出す直前、一人がライルの方を見た。
何かを言いかけて、やめた。
それだけだった。
荷馬車が、雪の残る道を遠ざかっていく。
やがて、見えなくなった。
カイが、その道の先を、しばらく見ていた。
「もう、来ないでしょうか」
「わかりません」
ライルは答えた。
「ただ、あの二人については、今日、監査室へ引き渡しました」
「今は、俺たちが見張る相手ではない」
「はい」
カイは、小さく頷いた。
それで十分だ、という頷き方だった。
「一区切り、ですね」
ロイドが言った。
「一区切りです」
ライルは答えた。
「終わり、ではありません」
「伝えておく」という言葉は、まだ、誰にも届いた形跡がない。
あの方の氏名も、死の真相も、まだわからないままだった。
だが、抱えていたものの一部が、今、執務所の手を離れた。
その分だけ、軽くなった。
軽くなった分だけ、次の重さを受け止められる。
夕方、ゲオルグが水路の様子を見て戻ってきた。
「北側の継ぎ目、割れずに持ちました」
その一言に、ライルは少しの間、目を閉じた。
冬の初め、泥を上げきれずに越冬させた区画だった。
「よかったです」
「はい」
ゲオルグは頷いた。
「今年は、越せました。来年は、もう少し早く手を入れられるといいですね」
「そうします」
小さな約束が、また一つ積まれた。
ミラが、市場での様子を報告に来た。
「『調査中の一件』の話は、もうほとんど聞かなくなりました」
「そうですか」
「今日、話題になっていたのは、種まきの時期のことでした」
ミラは、少し笑った。
「北側は例年より遅くなりそうだ、南側はそろそろだ、と」
「それが、いつもの春ですね」
ライルは言った。
噂は、消えたわけではない。
だが、村の暮らしの奥へ、静かに沈んでいった。
いつか、また誰かが思い出すかもしれない。
その時は、記録がある。
嘘のない記録が。
夜、ライルとロイドは、水路沿いを歩いた。
並んではいない。
互いの姿が見える程度に、少し距離を空けている。
一人にはしない、という取り決めは、まだ続けていた。
雪はほとんど融け、水路には春の水が流れ始めていた。
着任した日、まだ土がぬかるんでいた道を思い出す。
受領証を書いた夜。
別帳を受け取った日。
水が通った朝。
噂を記録すると決めた日。
説明会を開いた日。
暫定命令が届いた日。
木箱を見つけた日。
そして、短杖を抜いた夜。
どれも、一つずつ、理由があって積み重なった。
理由のないものは、一つもなかった。
前世で、崩れていく地方を、ただ見ていることしかできなかった夜があった。
数字だけが積み上がり、人が減り、誰も止められなかった夜。
あの時、知っていたことが、何の力にもならなかった。
知っているだけでは、足りなかった。
だから、今度は、知っているだけでは終わらせない。
知っているなら、動く。
動いた分だけ、記録に残す。
残った記録は、自分がいなくなっても、誰かが読める。
その繰り返しが、たぶん、唯一できることだった。
声には出さなかった。
誰にも語らない考えだった。
だが、水路の音を聞きながら、その考えは、いつもより少しだけ、はっきりしていた。
「何か、考え事ですか」
ロイドが、少し後ろから声をかけた。
「昔のことです」
ライルは答えた。
「ガルダへ来る前の」
「もっと前です」
ロイドは、少しだけ間を置いた。
「聞いても」
「今は、まだ」
「わかりました」
それ以上、聞かなかった。
話せないことを、無理に聞き出さない。
それも、この執務所で少しずつできた作法だった。
上着の内側、短杖の位置を確かめる。
握らない。
抜かない。
ただ、そこにあることを、もう一度確かめただけだった。
牙は、必要な時にだけ見せる。
見せ終えたら、しまう。
それだけのことだった。
執務所へ戻ると、机の上に、新しい書状が届いていた。
私的な経路だった。
差出人は、アルノ・フォン・ケステル。
文面は短い。
——布の意匠について、こちらでも心当たりを探っている。古い記録の中に、似た図があるとの話を一件得た。ただし、原本はまだ確認できていない。ガルダだけの話ではない可能性がある。
ライルは、その一文を、二度読んだ。
ガルダだけの話ではない可能性がある。
帝都の方角を、思い浮かべる。
まだ、遠い。
古い記録に似た図があるという話も、原本確認前だ。
それでも、ガルダの外にも確かめる場所が一つ増えた。
今、言えるのはそこまでだった。
水路の遅れも。
五十七の重複も。
あの方の写しも。
布切れの意匠も。
一つ一つは小さい。
だが、小さいものが集まって、一つの形になろうとしている。
その形が何かは、まだわからない。
わからないことを、わかったことにはしない。
それだけは、変わらなかった。
着任した日から、百九十六日。
変わったことは、数え切れない。
変わらなかったことも、確かにあった。
その両方を抱えたまま、ライルは、手帳を開いた。
着任百九十六日目。
捕らえた二名、監査室へ引き渡し完了。
水路北側、越冬確認。
アルノより、私信一通。
それだけを書いた。
蝋燭を消した。
窓の外、水路の音が、春の始まりを告げていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




