第五十九話「同じことを、聞かれました」
着任百九十一日目。
あの夜から、四日が経っていた。
村の噂は、少しずつ小さくなっていた。
「調査中の一件」という掲示は、貼り出されたまま、剥がされていない。
新しい噂は、まだ立っていない。
執務所の日常も、表向きは戻っていた。
来訪者記録。
官倉の帳票。
手順書の清書。
どれも、いつも通りに進んでいる。
ただ、閉庁後は必ず二人以上で行動する、という取り決めだけが、そのまま続いていた。
捕らえた二人は、どちらも意識を取り戻していた。
薬師の確認でも、今のところ大きな異常はない。
自分で水を飲み、食事も取っている。
ただし、ほとんど話さない。
名前を聞いても答えない。
どこから来たのかを聞いても答えない。
必要な時に、水が欲しい、毛布はいらない、といった短い言葉を返すだけだった。
「話せない、のではありませんね」
ロイドが言った。
「話さない、と考える方が自然です」
ライルは答えた。
「ですが、それも今までの応答からの判断です。記録には、質問に回答せず、と残してください」
ミラが、水と乾いた布を運んできた。
一人の男の視線が、一瞬だけミラへ動く。
ミラは何も言わず、必要なものだけを置いて部屋を出た。
「大丈夫ですか」
ロイドが尋ねた。
「大丈夫です」
ミラは答えた。
「怖い目ではありません。ただ、こちらに何も期待していないような目でした」
「それは、ミラの印象として残しますか」
ミラは少し考え、首を振った。
「いいえ。今は、私がそう感じただけです」
ライルは頷いた。
昼過ぎ、もう一度部屋を訪れた。
男は、水を飲んでいた。
少し、顔色が戻っている。
「名前を、聞いてもいいですか」
ライルは尋ねた。
「答えなくても構いません」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「答えません」
「わかりました」
ライルは、それ以上重ねなかった。
「誰に頼まれたか、聞いてもいいですか」
「答えません」
「では、一つだけ」
ライルは男を見た。
「あなた方は、何を守ろうとしているんですか」
男は、また黙った。
今度は、少し長かった。
「あの方からも、同じことを聞かれました」
その一言に、ロイドの筆が止まった。
ライルも、動かなかった。
「あなたは、あの方に会ったことがあるんですか」
男は目を伏せた。
「それ以上は、答えません」
「あの方は、今、どこにいますか」
「答えません」
「生きていますか」
男は、答えなかった。
視線も動かなかった。
ライルは、それ以上重ねなかった。
問い詰めれば、答えを引き出せるかもしれない。
だが、それは条件に反する。
そして、無理に引き出した答えは、記録の上で、いつまでも「無理に引き出された」という影を引きずる。
その後、何を尋ねても、男は口を閉ざした。
名前も。
依頼主も。
あの方についても。
ただ、その一言だけが、部屋の中に残った。
「あの方からも、同じことを聞かれました」
ロイドが、記録を読み上げる。
直接の発言。
それ以上の解釈は、まだ書かない。
「あの方が、生きているとも、死んでいるとも言っていません」
「はい」
「この男自身が会った、とも、明言はしていない」
「言葉の形からは、そう読めます」
ライルは答えた。
「ですが、確認はできていません」
「確かなのは」
「私が『何を守ろうとしているのか』と尋ねた時、この男が『あの方からも、同じことを聞かれました』と答えたことです」
ライルは、そこまでで止めた。
七、八年前の前任者と、今回の身元不明者たち。
両者の間に接点があった可能性は、以前より具体的になった。
だが、まだ線を引き切るには足りない。
午後、ライルとダグラスは、水路北側の林へ向かった。
ゲオルグも同行した。
「土地の様子は、私の方が詳しいので」
そう言って、先に立って歩いた。
昼の光の中で、もう一度、現場を確かめるためだった。
雪は、まだ残っている。
だが、日の当たる場所から、少しずつ融け始めていた。
争いのあった木々の周りを、丁寧に見て回る。
枝の折れ方。
雪の凹み。
足跡は、もうほとんど消えていた。
「これは」
ダグラスが、低い枝の下を指した。
残雪が融け、昨日まで隠れていた灰色が、枝の根元から覗いていた。
布の切れ端だった。
外套の袖口が裂けたものにも見える。
ライルは、まず触れずに位置を確かめた。
枝。
水路。
争いがあった場所。
ロイドが図にし、ゲオルグが立会人として確認する。
その後で、別の布越しに拾い上げ、包んだ。
「印のようなものが」
ダグラスが言った。
布の端に、糸で縫い付けられた小さな意匠があった。
完全な形ではない。
半分近くが、破れてなくなっている。
残っているのは、外縁の曲線と、中心に近い部分の線だけだった。
ダグラスは、それをしばらく見つめていた。
「どうしましたか」
ライルが尋ねた。
「似たものを、昔、見た気がします」
ダグラスは、慎重に言葉を選んだ。
「どこで、とは言えません。いつ、とも言えません。ただ、見覚えがある気がするだけです」
「あの方の時代に」
「わかりません」
ダグラスは、正直に言った。
「そう思っただけで、確信はありません。古い記憶は、今の記憶と混ざることがあります」
「では、そのまま記録します」
ライルは言った。
「見覚えがある気がする、それだけです。それ以上は書きません」
ダグラスは、布切れをもう一度見た。
「もし、本当に見たことがあるなら」
声が、少し低くなった。
「私は、あの方の周りにいた頃、何を見て、何を見ないふりをしていたのか——それも、もう一度、思い出さなければならないかもしれません」
「無理には、思い出さなくて構いません」
ライルは言った。
「思い出した時に、話してください」
ダグラスは頷いた。
布切れを、そっと布へ戻した。
執務所へ戻り、それを保全記録に加えた。
発見場所。
発見時刻。
状態。
意匠の図。
ダグラスの証言は、「見覚えがある気がする」という一文のまま、飾らずに残された。
辞令書の余白印と並べて見る誘惑があった。
だが、ライルはしなかった。
似ているかどうかを、今、決める必要はない。
決めるのは、もっと多くの事実が揃ってからでいい。
「監査室へ、報告しますか」
ロイドが尋ねた。
「します」
ライルは答えた。
「男の一言も、布の意匠も、事実として書きます。ダグラスの証言は、『見覚えがある気がする』という言葉のまま」
「アルノ様には」
「私信で、事実だけ知らせます」
ライルは言った。
「布片を発見し、正式報告を監査室へ送ったこと。それ以上の証拠そのものは、私信には載せません」
「経路を分けるんですね」
「はい。一つが届かなくても、もう一方から、何か起きたことだけはわかるようにします」
ロイドは、その言葉を、そのまま書き留めた。
夕方、カイが立ち寄った。
布切れの話を聞くと、しばらく黙っていた。
「それで、何かわかるんですか」
「まだ、わかりません」
ライルは正直に答えた。
「ですが、何もなかった昨日より、今日は少しだけ、手がかりが増えました」
「少しだけ、ですか」
「少しだけです」
カイは、小さく頷いた。
「少しずつでも、進んでいるなら、それでいいです」
夜、ライルは机の上に、三つのものを並べた。
男の一言。
布切れの意匠。
あの方の写し——署名の読めない綴り。
どれも、まだ、答えにはなっていない。
だが、三つとも、同じ暗がりの、少し違う角度からの光のように見えた。
ロイドが、静かに言った。
「近づいている、と思いますか」
「わかりません」
ライルは答えた。
「ただ、遠ざかってはいません」
「五十七の件とは」
ロイドが、ふと尋ねた。
「まだ、つなげません」
ライルは、いつもの言葉を繰り返した。
「時期も、経路も違います。同じ根から出ているかもしれない。別々かもしれない。今はまだ、どちらとも言えません」
「もどかしくないですか」
「もどかしいです」
ライルは、正直に答えた。
「ですが、もどかしさで、事実を先取りすることはしません」
あの方が誰だったのか。
なぜ命を落としたのか。
その答えは、今夜もまだ出ない。
だが、七、八年前の出来事と、今ここで起きていることが、どこかでつながっている可能性は、以前より具体的になった。
男の言葉一つ。
布の切れ端一つ。
署名の読めない写し一つ。
どれも小さい。
だが、小さいものを積み重ねてきたのは、この執務所のやり方そのものだった。
窓の外、雪の融ける音が、かすかに聞こえた。
小さな音だった。
だが、確かに、何かが動いていた。
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次回は明日19:10更新予定です。
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