第五十八話「見た者の数だけ」
着任百八十七日目。
夜が明けた。
執務所の灯りは、一晩中消えなかった。
見張りの交代が、そのまま朝の業務に重なっていく。
空き部屋の二人にも、夜のうちから変化があった。
一人は明け方に短く目を開け、呼びかけに反応した。
もう一人も、声をかければ眉を動かす。
意識が戻りきっていない間は、無理に水を飲ませない。
毛布を直し、呼吸と脈を確かめ、時刻を残す。
それだけの、静かな朝だった。
軒先の雪が、昨日より少しだけ融けていた。
春は、まだ遠い。
だが、確実に近づいている音がした。
夜通しの見張りを、ライルとダグラスが引き継いでいた。
ダグラスは、椅子に座ったまま、動かない二人を見ていた。
「何か、気になりますか」
ライルが尋ねた。
「昔、商会にいた頃も、似たようなことがありました」
ダグラスは、静かに答えた。
「表に出ない者たちが、表に出ない仕事をする。慣れているつもりでした」
「今は」
「慣れていない自分に、少し驚いています」
ダグラスは、それだけ言った。
窓の外を見る。
まだ暗い空だった。
「悪い驚きではありません」
しばらくして、そう付け加えた。
「見なくなっていた感覚が、少し戻っただけです」
朝、ヴェクが交代に来て、水と毛布の状態を確かめた。
「食事は」
「意識がはっきりしてからです」
ライルは答えた。
「水も、自分で飲めることを確かめてからにします」
ヴェクは頷き、控えめに戸を閉めた。
朝のうちに、近隣を回っている薬師にも来てもらった。
二人とも、呼びかけには反応する。
呼吸と脈に大きな乱れはない。
目立つ骨の異常もない。
ただし、意識を失っていた以上、今日一日は状態を見続けること。
それが、薬師の見立てだった。
薬師の名、確認時刻、見た範囲も記録に残した。
ロイドは、机に四冊の帳面を並べていた。
自分の証言。
ゲオルグの証言。
カイの証言。
ライルの判断記録。
昨夜、互いに見せずに書いたものだった。
もう一度、順に読み返す。
「見えなかった」
自分の書いた一行を、指でなぞる。
嘘ではない。
だが、それだけでは、あの夜何が起きたのか、誰にも伝わらない。
ロイドは、しばらく帳面を閉じたまま、動かなかった。
指が、かすかに震えていた。
一度だけだった。
深く息を吸って、手を握り、開く。
震えは止まった。
それから、判断記録の最後、空欄のままだった異議欄を開いた。
「異議は、書きますか」
ライルが、隣の机から尋ねた。
「書きます」
ロイドは答えた。
筆を執る。
——異議なし。判断の是非については、現時点で意見を持たない。ただし、判断に至る経緯と結果は、正確に記録されたものと認める。
書き終えて、顔を上げた。
「これで、いいですか」
「はい」
ライルは頷いた。
「無理に、賛成や反対を書く必要はありません」
「わかっています」
ロイドは、帳面を閉じた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「この記録は、いつか、公になりますか」
ライルは、少し考えた。
「監査室が求めれば、なります。求めなければ、この執務所に残ります」
「どちらにせよ、残る」
「はい」
ロイドは、小さく頷いた。
それ以上は、聞かなかった。
昼前、ゲオルグが来た。
カイの家に寄ってから来たという。
「ご家族には」
ライルが尋ねた。
「水路の見回り中に、身元のわからない者たちと行き違いがあったと伝えました」
ゲオルグは答えた。
「怪我はない、とだけ」
「詳しいことは」
「話していません。話せることが、まだ多くないので」
ゲオルグは、椅子には座らず、戸口の近くに立った。
「一晩、考えました」
「何をですか」
「あなたのことです」
ゲオルグは、まっすぐライルを見た。
「昔、夜中に税を持っていって、受け取ってもらえなかった年寄りがいました」
「知っています」
「その年寄りが、今、ここに立っています」
ライルは、何も言わなかった。
「あの夜、あなたは私の話を聞いて、受け取ってくれました。それから、水路が動いて、麦の道ができて、土地の話も少しずつ進んで」
ゲオルグは、言葉を選びながら続けた。
「そして昨日、あなたは、また別のやり方で、カイを守りました」
「怖くはありませんか」
ライルが尋ねた。
ゲオルグは、少し黙った。
「怖くない、と言えば嘘になります」
正直な答えだった。
「ですが、それより先に、はっきりしたことがあります」
「何が」
「あなたが何であれ、ガルダを守る側にいる、ということです」
それだけ言って、ゲオルグは頭を下げた。
深くはない。
だが、迷いのない下げ方だった。
「一つ、お願いがあります」
ゲオルグは、顔を上げて続けた。
「村の者から、何か聞いたら、私に先に教えてください。噂を止めるためではありません。おかしな方向へ行く前に、事実を渡せるようにしたいだけです」
「お願いします」
ライルは答えた。
「ただし、あなたが盾になる必要はありません」
「わかっています」
ゲオルグは、小さく笑った。
「盾になるには、もう歳です。伝えるだけで十分です」
午後、カイが薪を運んできた。
いつも通りの様子だった。
「体は」
ロイドが尋ねた。
「平気です」
「昨夜のことは」
「よく眠れませんでした」
カイは、正直に答えた。
「ですが、慣れているわけではありません。ただ、二度目なので、少しは違います」
「一度目は」
「水路が通った夜です」
カイは答えた。
ライルが、外から来た三人を、誰にも騒がせずに退けた夜。
あの時、その場にいたのはカイだけだった。
ロイドは一瞬だけライルを見た。
だが、今は深く聞かなかった。
「怖くはなかったんですか」
ロイドが、もう一度尋ねた。
「あの時も、今回も」
カイは、少し考えた。
「怖かったです。ですが、それとは別に、わかることもありました」
「何が」
「調整官様が、誰彼構わずやるわけではない、ということです」
カイは、薪を積み終えて、手を払った。
「必要な時しか、やりません。それは、今回でよくわかりました」
その言葉に、ロイドは何も返さなかった。
ただ、帳面へ、また何か書き足していた。
三人の反応は、それぞれ違っていた。
その頃には、空き部屋の二人とも目を開けていた。
水は、自分で飲んだ。
食事も、少量だけ口にした。
名前を尋ねても、答えない。
必要なこと以外は、何も話さなかった。
そのことも、発言なしではなく、質問に回答せず、と記録した。
ロイドは、記録の重みを確かめるように。
ゲオルグは、過去と今を結び直すように。
カイは、変わらない日常を保つように。
誰も、同じ言葉を使わなかった。
誰も、間違ってはいなかった。
夕方、監査室からの返答が届いた。
早い返答だった。
内容は、簡潔だった。
確保した二名について、調査官到着までガルダでの留置継続を認める。
条件は三つ。
医療上必要な処置を行うこと。
強制的な尋問を行わないこと。
発言があれば、そのまま記録し、判断は加えないこと。
後日、調査官を派遣する。
それだけだった。
ライルの判断そのものについて、評価も、批判も書かれていなかった。
「継続保全、ですね」
ロイドが言った。
「今は、それだけです」
ライルは答えた。
「評価は、まだ先だと思います」
「後日、というのは」
ロイドが尋ねた。
「十日か、それ以上か」
「書かれていません」
ライルは、書状をもう一度見た。
「わからないことは、わからないままにします。ただ、その間、条件は守り続けます」
「その間も、見張りは続けますか」
「続けます」
ライルは答えた。
「一人にはしません。今回も、これからも」
「不満ですか」
「いいえ」
ライルは、書状を綴じた。
「今、評価される必要はありません。今は、条件を守ることが必要です」
三つの条件を、そのまま帳面へ書き写す。
医療。
強制なし。
発言の記録。
守るべきことが、また一つ増えた。
「強制的な尋問を行わない、というのは」
ロイドが確認した。
「目を覚ましても、無理に聞き出そうとはしない、ということですね」
「はい」
ライルは答えた。
「聞けることがあれば聞きます。ですが、答えを引き出すために、何かを強いることはしません」
「それでは、何もわからないままかもしれません」
「かもしれません」
ライルは頷いた。
「それでも、条件は条件です」
ロイドは、それ以上、異を唱えなかった。
その日の夕刻、ミラが市場での聞き込みから戻ってきた。
「北側で何かあったらしい、という話が出ています」
「内容は」
「はっきりしません。争いがあった、という人もいれば、荷馬車が壊れただけだ、という人もいます」
噂は、まだ一つの形になっていなかった。
「ニルスさんにも、聞かれました」
ミラは続けた。
「『ゲオルグが慌てて執務所へ走っていくのを見た』と。何があったのか、と」
「何と答えましたか」
「まだ話せることがない、とだけ」
ミラは、少し不安そうだった。
「それで、よかったでしょうか」
「よかったです」
ライルは言った。
「知らないことを、知っているふりで答えないでください」
「発表しますか」
ロイドが尋ねた。
「します」
ライルは答えた。
短い文を用意する。
——水路北側にて、身元不明者との接触があった。村人側に負傷者はなく、身元不明者二名を確保して監査室へ報告済み。詳細は調査中のため、現時点では公表を控える。
「これで、足りますか」
「足りません」
ライルは、正直に言った。
「ですが、嘘は書いていません」
「いつか、全部を話しますか」
「話せる時が来れば」
その掲示は、翌朝、執務所の前に貼り出されることになった。
噂は消えないだろう。
だが、間違った形のまま広がるよりは、ましだった。
夜、ロイドが四冊の帳面を棚へ戻した。
ライルの判断記録には、異議欄に「異議なし」の一行が加わっている。
ゲオルグの証言には、ライルへの一言は書かれていない。
カイの証言には、「二度目」という言葉もない。
それぞれが見たものだけが、それぞれの言葉で残っている。
統一されないまま。
それでいい、とライルは思った。
同じものを見ても、同じように覚えているとは限らない。
揃えようとすれば、どこかに無理が生じる。
無理をした記録は、いつか崩れる。
崩れない記録だけが、次に誰かが読んだ時、役に立つ。
窓の外、水路の縁に、まだ雪が残っていた。
それでも、日ごとに、少しずつ量が減っている。
変わらないものと、変わっていくもの。
その両方が、この執務所には同居していた。
村には、まだ、本当のことは届いていない。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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