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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第七章:牙を、見せる時

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第五十七話「静かに、終わった」

 着任百八十六日目、日没後。


 抜いた瞬間を、ロイドもゲオルグも見ていなかった。


 短杖が上着の内側から出た、と気づいた時には、カイの肩へ伸びていた手が止まっていた。


 男の体が、わずかに傾く。


 次の瞬間には、雪の上に伏していた。


 音は、小さかった。


 もう一人が動く。


 外套の内側へ手を入れかけた。


 それも、最後まで届かなかった。


 膝が折れる。


 雪の上へ沈む。


 二人。


 ほんの数呼吸の間だった。


 残る二人のうち、頭巾の男が半歩下がった。


 もう一人も、それに合わせて間合いを取る。


「退け」


 短く言った。


 二人は、林の奥へ下がり始めた。


 急いではいる。


 だが、背中は見せなかった。


 ライルは追わなかった。


 目の前にはカイがいる。


 倒れた二人もいる。


 ここで三人に分かれる方が、悪い。


 頭巾の男が、木々の影へ入る直前、一度だけ足を止めた。


「伝えておく」


 それだけ言った。


 二人分の足音が、林の奥へ遠ざかる。


 やがて、それも消えた。


 雪の上に残ったのは、倒れた二人と、四人分の呼吸だった。


 ライルは短杖を握ったまま、林を見ていた。


 追ってこない。


 戻ってくる気配もない。


 そこで初めて、カイへ向き直った。


「カイ」


「はい」


「怪我は」


 カイは、自分の肩へ手をやった。


「ありません。上着を掴まれかけただけです」


「ほかには」


「ありません」


「わかりました」


 ライルは短杖を収めた。


 それから、雪の上の二人へ近づく。


「この二人を確認します」


 ロイドへ言った。


「見ていてください」


「はい」


 一人目。


 呼吸。


 脈。


 目立つ出血はない。


 二人目も同じだった。


「命に関わる場所は打っていません」


 ライルは言った。


「ですが、今ここで大丈夫だと決めることもしません。戻ってからも状態を見ます」


 カイが、倒れた男たちを見た。


「動いていません」


「気を失っているだけです」


 ライルは答えた。


「目を覚ませば、動けます」


 ロイドも、ゲオルグも、まだ言葉が少なかった。


 二人の視線は、倒れた男とライルの間を行き来している。


 カイだけが、少し違った。


 驚いていないわけではない。


 ただ、初めて見た顔ではなかった。


「ロイド」


「……はい」


「時刻だけ、先に残せますか」


 ロイドは反射的に懐へ手を伸ばした。


 帳面を出す。


 だが、指が少し震えていた。


「正確な刻までは」


「わかる範囲で構いません」


 ロイドは息を整えた。


 そして、一行だけ書いた。


 ——日没後。林際にて、身元不明者四名のうち二名を制止。二名は林方向へ退去。


 そこまで書き、筆を止めた。


「今は、それで十分です」


 ライルは言った。


「細かいことは、戻ってから各自別々に残します」


「別々に」


「同じものを見ても、同じように見えたとは限りません」


 ロイドが、小さく頷いた。


 ライルは倒れた男の外套を見る。


「武器を持っている可能性があります。二人で確認します」


 ロイドの立会いで、一人ずつ所持品を確かめた。


 短刀が一本ずつ。


 ほかに刃物はない。


 身元を示す札もない。


 書状もない。


 貨幣は、少額。


 短刀には、見える範囲に鍛冶場や持ち主を示す印はなかった。


「短刀、二振り」


 ロイドが言った。


「はい」


「印、確認できず」


「見える範囲では、です」


 ライルは答えた。


「戻ったら、取り上げた時刻と、どちらが持っていたものかを分けて記録します」


 短刀を雪の上へ直接置かず、ゲオルグが持っていた布の上へ並べた。


 一振り目。


 二振り目。


 混ぜない。


 足跡も確認した。


 逃げた二人は、林の北東側へ入っている。


 追わない。


 ただ、方向だけを残す。


 その間、カイは自分の立っていた場所から動かなかった。


「もう、こちらへ来て構いません」


 ライルが言った。


 カイは、初めて輪の外へ出た。


 数歩歩き。


 止まる。


 振り返って、倒れた二人を見た。


「今度は、二人も見たんですね」


 ライルは、その意味をすぐに理解した。


 ロイドとゲオルグのことだった。


 水路が通った夜。


 カイだけが、似た光景を見ている。


「はい」


 ライルは答えた。


「ですが、二人が何を見たかは、二人が決めます」


 カイは、短く頷いた。


「俺の時と同じですね」


「そうです」


 それ以上、話さなかった。


「ゲオルグさん」


 ライルが呼んだ。


「執務所まで戻れますか」


「はい」


「ヴェクとミラに、荷車、縄、毛布、灯りを二つ頼んでください」


「わかりました」


「それと、継立場へ緊急書状を出してください」


 ロイドが顔を上げた。


「今夜のうちに」


「はい」


 ライルは言った。


「身元不明者四名。カイをその場へ留め、木箱の原本と写しを要求。話し合いを拒否。接触後、二名を制止、二名は退去。カイに怪我なし。制止した二名を確保する——そこまでです」


「監査室へ、指示を求める」


「身柄の扱いと、引き渡し方法について、至急指示を求めてください」


「わかりました」


 ゲオルグは、一度だけ倒れた二人を見た。


 それからライルへ目を戻した。


「今、見たことは」


「今夜、執務所へ戻ってから聞きます」


 ライルは答えた。


「思い出せる範囲だけで構いません。私の説明に合わせる必要はありません」


 ゲオルグは頷き、来た道を戻っていった。


 残ったのは、ライル、ロイド、カイ。


 それに、気を失った二人。


 風が、木々の間を抜ける。


 ロイドは帳面を持ったまま、しばらく黙っていた。


「一つ、確認してもいいですか」


「はい」


「さきほどの判断を、記録する時です」


 ロイドは言葉を選んだ。


「私たちが、正しかったと認めた形にしますか」


「しません」


 ライルは答えた。


「判断したのは私です」


「では」


「あなた、ゲオルグさん、カイは、見たことだけを残してください。私の判断に賛成したかどうかは、今ここで聞きません」


 ロイドが、少し目を見開いた。


「後から、異議があれば」


「残してください」


「なければ」


「なかった、と後から書けばいい」


 ライルは言った。


「今、この場で私に向かって異議があるか聞けば、答えにくくなります」


 ロイドは帳面を見た。


「……はい」


「まず、事実です」


「いつも通りですね」


「そのつもりです」


 しばらくして、カイが尋ねた。


「あの二人は、また来ますか」


「わかりません」


 ライルは答えた。


「逃げた二人が何を伝えるかも、わかりません」


「最後じゃないと思いますか」


 少し考えた。


「その可能性はあります」


 今度は、「最後だとは思っていない」とは言わなかった。


 思うことと、わかっていることは違う。


 やがて、灯りが見えた。


 荷車の軋む音。


 ゲオルグ。


 ヴェク。


 ミラ。


 三人が戻ってきた。


「緊急書状は」


 ライルが尋ねた。


「出しました」


 ゲオルグが答えた。


「継立場まで、別の者が持っていきます」


「ありがとう」


 ミラは、雪の上の二人を見て、一瞬だけ足を止めた。


 だが、すぐに荷車の横へ回った。


「何をすればいいですか」


「まず、持ち物の記録を手伝ってください」


「はい」


 短刀二振り。


 少額の貨幣。


 身元を示すもの、確認できず。


 ロイドの記録と、ミラの読み上げを照らす。


 取り上げたものは、それぞれ別の布で包んだ。


 どちらの男から出たものかわかるように札を付ける。


 その後で、二人を荷車へ乗せた。


 乱暴には扱わない。


 逃げられないようにはする。


 呼吸を妨げない。


 毛布をかける。


 ライルが、もう一度二人の状態を確認した。


「戻りましょう」


 荷車が動き出した。


 雪を踏む音。


 車輪の軋み。


 誰も、多くは話さなかった。


 執務所へ着いた頃には、夜は深くなっていた。


 二人の男は、執務所の空き部屋へ移した。


 机や刃物になるものは外へ出す。


 窓と扉を確認する。


 見張りは一人にしない。


 二人一組で交代する。


 水と毛布を用意する。


 まだ意識が戻らないため、状態も定期的に確認する。


「官倉には入れないんですね」


 ヴェクが尋ねた。


「麦と人を、同じ場所で管理する理由はありません」


 ライルは答えた。


「証拠品も別です」


 短刀と所持品は、男たちとは別の施錠棚へ入れた。


 封をする。


 ロイドとミラが、封の前に数量を読み上げる。


 ライルが確認する。


 そこまで終えてから、証言を取った。


 最初に、ロイド。


 自分の記録を、自分で書く。


 ライルの説明は見ない。


 次に、ゲオルグ。


 文字にしにくい部分はミラが聞き取り、本人へ読み返す。


 次に、カイ。


 最後に、ライル。


 四人の記録は、書き終わるまで互いに見せなかった。


 少しずつ、違っていた。


 ロイドは、最初の一撃を「見えなかった」と書いた。


 ゲオルグは、「短杖を抜いたことに気づいた時には、一人が倒れていた」と書いた。


 カイは、「肩に手が来た。その直後、男が倒れた」とだけ書いた。


 どれも、直さなかった。


 その後で、ライルの判断記録を別に作った。


 相手四名が、カイの退路を塞いでいたこと。


 木箱の原本と写しを要求したこと。


 話し合い、監査室を交えた確認、日時を改める提案を、すべて拒否したこと。


 制止を二度求めた後も、カイへ手が伸びたこと。


 その時点で、実力による制止が必要と判断したこと。


 目的は、カイから相手を離すこと。


 致命的な結果を避けること。


 結果として二名を制止し、二名が退去したこと。


 判断者。


 ライル・フォン・ヴァルディス。


 ほかの三名は、判断そのものには関与していない。


「異議欄は」


 ロイドが尋ねた。


「空けておいてください」


「空欄に」


「『後日追記可』と書いてください」


 ライルは言った。


「今夜の時点で、結論を求めません」


 ロイドは頷いた。


 最後に、緊急書状の控えを綴じた。


 監査室への報告。


 身元不明者二名を確保。


 二名退去。


 カイ負傷なし。


 確保者二名、意識なし。呼吸・脈確認。


 所持品、短刀二振りほか。


 身柄の扱いについて指示を求める。


 そこまでだった。


「今日は、ここまでにします」


 ライルが言った。


 カイは、戸口近くに立っていた。


「家へ送りますか」


 ロイドが尋ねた。


「今夜は、こちらにいてもらった方がいいと思います」


 ライルはカイへ向いた。


「嫌でなければ、泊まっていってください」


「構いません」


「家には」


「ゲオルグさんから伝えてもらいます」


「お願いします」


 執務所の灯りは、消さなかった。


 ロイドとヴェクが最初の見張りに入る。


 その次を、ライルとダグラスが引き継ぐ。


 一人にはしない。


 自分も例外にしない。


 少しだけ時間が空いた時、ライルは机の前に座った。


 向かいには、ロイドがいた。


 何かを書くでもなく、帳面を閉じたまま置いている。


「水路が通った夜」


 ライルは小さく言った。


「カイに、力で人を動かせば、力を見ている間しか人は動かない、と話しました」


 ロイドは黙って聞いていた。


「あの考えは、今も変わっていません」


「はい」


「今日も、相手を従わせるために使ったわけではありません」


 言ってから、少し考える。


「そう記録したから正しい、という意味でもありません」


 ロイドが顔を上げた。


「後で、確かめるために残した」


「はい」


「判断が正しかったかも」


「それもです」


 ライルは、上着の内側へ手をやった。


 短杖は、そこに戻っている。


 位置を確かめる。


 今までと同じ仕草だった。


 だが、今日だけは、その意味が違った。


 抜いた。


 使った。


 二人が倒れた。


 二人が逃げた。


 そのすべてを、もう記録から消すことはできない。


 林の奥で聞いた声が、まだ耳に残っていた。


「伝えておく」


 誰に。


 何を。


 まだ、わからない。


 ライルは手を離した。


 今夜は、一人ではなかった。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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