第五十七話「静かに、終わった」
着任百八十六日目、日没後。
抜いた瞬間を、ロイドもゲオルグも見ていなかった。
短杖が上着の内側から出た、と気づいた時には、カイの肩へ伸びていた手が止まっていた。
男の体が、わずかに傾く。
次の瞬間には、雪の上に伏していた。
音は、小さかった。
もう一人が動く。
外套の内側へ手を入れかけた。
それも、最後まで届かなかった。
膝が折れる。
雪の上へ沈む。
二人。
ほんの数呼吸の間だった。
残る二人のうち、頭巾の男が半歩下がった。
もう一人も、それに合わせて間合いを取る。
「退け」
短く言った。
二人は、林の奥へ下がり始めた。
急いではいる。
だが、背中は見せなかった。
ライルは追わなかった。
目の前にはカイがいる。
倒れた二人もいる。
ここで三人に分かれる方が、悪い。
頭巾の男が、木々の影へ入る直前、一度だけ足を止めた。
「伝えておく」
それだけ言った。
二人分の足音が、林の奥へ遠ざかる。
やがて、それも消えた。
雪の上に残ったのは、倒れた二人と、四人分の呼吸だった。
ライルは短杖を握ったまま、林を見ていた。
追ってこない。
戻ってくる気配もない。
そこで初めて、カイへ向き直った。
「カイ」
「はい」
「怪我は」
カイは、自分の肩へ手をやった。
「ありません。上着を掴まれかけただけです」
「ほかには」
「ありません」
「わかりました」
ライルは短杖を収めた。
それから、雪の上の二人へ近づく。
「この二人を確認します」
ロイドへ言った。
「見ていてください」
「はい」
一人目。
呼吸。
脈。
目立つ出血はない。
二人目も同じだった。
「命に関わる場所は打っていません」
ライルは言った。
「ですが、今ここで大丈夫だと決めることもしません。戻ってからも状態を見ます」
カイが、倒れた男たちを見た。
「動いていません」
「気を失っているだけです」
ライルは答えた。
「目を覚ませば、動けます」
ロイドも、ゲオルグも、まだ言葉が少なかった。
二人の視線は、倒れた男とライルの間を行き来している。
カイだけが、少し違った。
驚いていないわけではない。
ただ、初めて見た顔ではなかった。
「ロイド」
「……はい」
「時刻だけ、先に残せますか」
ロイドは反射的に懐へ手を伸ばした。
帳面を出す。
だが、指が少し震えていた。
「正確な刻までは」
「わかる範囲で構いません」
ロイドは息を整えた。
そして、一行だけ書いた。
——日没後。林際にて、身元不明者四名のうち二名を制止。二名は林方向へ退去。
そこまで書き、筆を止めた。
「今は、それで十分です」
ライルは言った。
「細かいことは、戻ってから各自別々に残します」
「別々に」
「同じものを見ても、同じように見えたとは限りません」
ロイドが、小さく頷いた。
ライルは倒れた男の外套を見る。
「武器を持っている可能性があります。二人で確認します」
ロイドの立会いで、一人ずつ所持品を確かめた。
短刀が一本ずつ。
ほかに刃物はない。
身元を示す札もない。
書状もない。
貨幣は、少額。
短刀には、見える範囲に鍛冶場や持ち主を示す印はなかった。
「短刀、二振り」
ロイドが言った。
「はい」
「印、確認できず」
「見える範囲では、です」
ライルは答えた。
「戻ったら、取り上げた時刻と、どちらが持っていたものかを分けて記録します」
短刀を雪の上へ直接置かず、ゲオルグが持っていた布の上へ並べた。
一振り目。
二振り目。
混ぜない。
足跡も確認した。
逃げた二人は、林の北東側へ入っている。
追わない。
ただ、方向だけを残す。
その間、カイは自分の立っていた場所から動かなかった。
「もう、こちらへ来て構いません」
ライルが言った。
カイは、初めて輪の外へ出た。
数歩歩き。
止まる。
振り返って、倒れた二人を見た。
「今度は、二人も見たんですね」
ライルは、その意味をすぐに理解した。
ロイドとゲオルグのことだった。
水路が通った夜。
カイだけが、似た光景を見ている。
「はい」
ライルは答えた。
「ですが、二人が何を見たかは、二人が決めます」
カイは、短く頷いた。
「俺の時と同じですね」
「そうです」
それ以上、話さなかった。
「ゲオルグさん」
ライルが呼んだ。
「執務所まで戻れますか」
「はい」
「ヴェクとミラに、荷車、縄、毛布、灯りを二つ頼んでください」
「わかりました」
「それと、継立場へ緊急書状を出してください」
ロイドが顔を上げた。
「今夜のうちに」
「はい」
ライルは言った。
「身元不明者四名。カイをその場へ留め、木箱の原本と写しを要求。話し合いを拒否。接触後、二名を制止、二名は退去。カイに怪我なし。制止した二名を確保する——そこまでです」
「監査室へ、指示を求める」
「身柄の扱いと、引き渡し方法について、至急指示を求めてください」
「わかりました」
ゲオルグは、一度だけ倒れた二人を見た。
それからライルへ目を戻した。
「今、見たことは」
「今夜、執務所へ戻ってから聞きます」
ライルは答えた。
「思い出せる範囲だけで構いません。私の説明に合わせる必要はありません」
ゲオルグは頷き、来た道を戻っていった。
残ったのは、ライル、ロイド、カイ。
それに、気を失った二人。
風が、木々の間を抜ける。
ロイドは帳面を持ったまま、しばらく黙っていた。
「一つ、確認してもいいですか」
「はい」
「さきほどの判断を、記録する時です」
ロイドは言葉を選んだ。
「私たちが、正しかったと認めた形にしますか」
「しません」
ライルは答えた。
「判断したのは私です」
「では」
「あなた、ゲオルグさん、カイは、見たことだけを残してください。私の判断に賛成したかどうかは、今ここで聞きません」
ロイドが、少し目を見開いた。
「後から、異議があれば」
「残してください」
「なければ」
「なかった、と後から書けばいい」
ライルは言った。
「今、この場で私に向かって異議があるか聞けば、答えにくくなります」
ロイドは帳面を見た。
「……はい」
「まず、事実です」
「いつも通りですね」
「そのつもりです」
しばらくして、カイが尋ねた。
「あの二人は、また来ますか」
「わかりません」
ライルは答えた。
「逃げた二人が何を伝えるかも、わかりません」
「最後じゃないと思いますか」
少し考えた。
「その可能性はあります」
今度は、「最後だとは思っていない」とは言わなかった。
思うことと、わかっていることは違う。
やがて、灯りが見えた。
荷車の軋む音。
ゲオルグ。
ヴェク。
ミラ。
三人が戻ってきた。
「緊急書状は」
ライルが尋ねた。
「出しました」
ゲオルグが答えた。
「継立場まで、別の者が持っていきます」
「ありがとう」
ミラは、雪の上の二人を見て、一瞬だけ足を止めた。
だが、すぐに荷車の横へ回った。
「何をすればいいですか」
「まず、持ち物の記録を手伝ってください」
「はい」
短刀二振り。
少額の貨幣。
身元を示すもの、確認できず。
ロイドの記録と、ミラの読み上げを照らす。
取り上げたものは、それぞれ別の布で包んだ。
どちらの男から出たものかわかるように札を付ける。
その後で、二人を荷車へ乗せた。
乱暴には扱わない。
逃げられないようにはする。
呼吸を妨げない。
毛布をかける。
ライルが、もう一度二人の状態を確認した。
「戻りましょう」
荷車が動き出した。
雪を踏む音。
車輪の軋み。
誰も、多くは話さなかった。
執務所へ着いた頃には、夜は深くなっていた。
二人の男は、執務所の空き部屋へ移した。
机や刃物になるものは外へ出す。
窓と扉を確認する。
見張りは一人にしない。
二人一組で交代する。
水と毛布を用意する。
まだ意識が戻らないため、状態も定期的に確認する。
「官倉には入れないんですね」
ヴェクが尋ねた。
「麦と人を、同じ場所で管理する理由はありません」
ライルは答えた。
「証拠品も別です」
短刀と所持品は、男たちとは別の施錠棚へ入れた。
封をする。
ロイドとミラが、封の前に数量を読み上げる。
ライルが確認する。
そこまで終えてから、証言を取った。
最初に、ロイド。
自分の記録を、自分で書く。
ライルの説明は見ない。
次に、ゲオルグ。
文字にしにくい部分はミラが聞き取り、本人へ読み返す。
次に、カイ。
最後に、ライル。
四人の記録は、書き終わるまで互いに見せなかった。
少しずつ、違っていた。
ロイドは、最初の一撃を「見えなかった」と書いた。
ゲオルグは、「短杖を抜いたことに気づいた時には、一人が倒れていた」と書いた。
カイは、「肩に手が来た。その直後、男が倒れた」とだけ書いた。
どれも、直さなかった。
その後で、ライルの判断記録を別に作った。
相手四名が、カイの退路を塞いでいたこと。
木箱の原本と写しを要求したこと。
話し合い、監査室を交えた確認、日時を改める提案を、すべて拒否したこと。
制止を二度求めた後も、カイへ手が伸びたこと。
その時点で、実力による制止が必要と判断したこと。
目的は、カイから相手を離すこと。
致命的な結果を避けること。
結果として二名を制止し、二名が退去したこと。
判断者。
ライル・フォン・ヴァルディス。
ほかの三名は、判断そのものには関与していない。
「異議欄は」
ロイドが尋ねた。
「空けておいてください」
「空欄に」
「『後日追記可』と書いてください」
ライルは言った。
「今夜の時点で、結論を求めません」
ロイドは頷いた。
最後に、緊急書状の控えを綴じた。
監査室への報告。
身元不明者二名を確保。
二名退去。
カイ負傷なし。
確保者二名、意識なし。呼吸・脈確認。
所持品、短刀二振りほか。
身柄の扱いについて指示を求める。
そこまでだった。
「今日は、ここまでにします」
ライルが言った。
カイは、戸口近くに立っていた。
「家へ送りますか」
ロイドが尋ねた。
「今夜は、こちらにいてもらった方がいいと思います」
ライルはカイへ向いた。
「嫌でなければ、泊まっていってください」
「構いません」
「家には」
「ゲオルグさんから伝えてもらいます」
「お願いします」
執務所の灯りは、消さなかった。
ロイドとヴェクが最初の見張りに入る。
その次を、ライルとダグラスが引き継ぐ。
一人にはしない。
自分も例外にしない。
少しだけ時間が空いた時、ライルは机の前に座った。
向かいには、ロイドがいた。
何かを書くでもなく、帳面を閉じたまま置いている。
「水路が通った夜」
ライルは小さく言った。
「カイに、力で人を動かせば、力を見ている間しか人は動かない、と話しました」
ロイドは黙って聞いていた。
「あの考えは、今も変わっていません」
「はい」
「今日も、相手を従わせるために使ったわけではありません」
言ってから、少し考える。
「そう記録したから正しい、という意味でもありません」
ロイドが顔を上げた。
「後で、確かめるために残した」
「はい」
「判断が正しかったかも」
「それもです」
ライルは、上着の内側へ手をやった。
短杖は、そこに戻っている。
位置を確かめる。
今までと同じ仕草だった。
だが、今日だけは、その意味が違った。
抜いた。
使った。
二人が倒れた。
二人が逃げた。
そのすべてを、もう記録から消すことはできない。
林の奥で聞いた声が、まだ耳に残っていた。
「伝えておく」
誰に。
何を。
まだ、わからない。
ライルは手を離した。
今夜は、一人ではなかった。
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次回は明日19:10更新予定です。
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