第五十六話「今度は、抜く」
着任百八十六日目。
監査室への報告書一式を、朝のうちに発送した。
外封には内容を書かない。
内封にはライルとロイドが封を置き、執務所から継立場までは二人で持ち込んだ。
受領者の署名と時刻を取り、封に異常がないことまで確認している。
木箱の開封記録。
あの方の写しの状態記録。
アルノの私信の扱いについての注記。
ダグラスが受けた接触の記録。
すべてを、事実と伝聞と推測に分けて綴じた。
「これで、こちらの手は尽くしました」
ロイドが言った。
「はい」
ライルは答えた。
「あとは、向こうがどう動くかです」
昼前、カイとゲオルグが執務所へ寄った。
「北側の様子を見てきます」
カイが言った。
「二人で、ですね」
ライルが確認する。
「はい」
ゲオルグが答えた。
「出口と継ぎ目だけです。林の中には入りません」
「帰りも、同じ道を」
「日没より前に戻ります」
ダグラスへの接触があってから、日のあるうちでも、北側へ一人で行かせないことにしていた。
「戻ったら、一言お願いします」
「はい」
二人は、並んで出ていった。
昼過ぎ。
執務所には、いつもの静かな時間が流れていた。
ロイドが手順書の清書を進め、ミラが来訪記録を整理し、ヴェクが発送記録の控えを綴じていた。
日が傾き始めた頃。
扉が勢いよく開いた。
ゲオルグだった。
帽子も取らず、肩で息をしている。
「カイが」
そこで一度、息を整えた。
「四人に、止められています」
ロイドの筆が止まった。
「場所は」
ライルが尋ねた。
「北側の分岐より手前。林際です」
「あなたは、どうしてここへ」
「私を戻しました。四人のうち、一人が」
「何と言いましたか」
「『ゲオルグ殿は執務所へ戻ってください。ライル・フォン・ヴァルディス殿へ、カイ殿を預かっているとお伝えください』」
部屋の空気が変わった。
「預かっている」
ロイドが、低く繰り返した。
「はい」
「武器は」
「見せていません」
「触られましたか」
「いいえ」
「カイは、自分から残ったんですか」
「違います」
ゲオルグは首を振った。
「二人とも戻ろうとしました。でも、道の前と後ろに二人ずつ立たれました」
「それから」
「一人が、『二人とも残れば話が進みません』と」
「カイは」
「私に、行けと言いました。『呼んでこい。俺はここにいる』と」
ライルは立ち上がった。
「ロイド」
「行きます」
「ミラ、ヴェク」
「はい」
「執務所をお願いします。私たちが日没を過ぎても戻らなければ、継立場へ緊急書状を出してください」
「内容は」
「身元不明者四名。カイをその場へ留め、私を呼び出した。場所と時刻。推測は要りません」
「わかりました」
「ダグラスは、ここに」
「承知しました」
ライル、ロイド、ゲオルグ。
三人で、水路北側の林へ向かった。
雪を踏む足音だけが響く。
誰も、口を開かなかった。
林の際、水路の分岐が見えてきたところで、ゲオルグが指をさした。
「あそこです」
雪の上に、複数の足跡が乱れていた。
その先、木々の間に、人影が見えた。
カイだった。
周りを、四人が囲んでいる。
縛られてはいない。
触れられてもいない。
武器も見えない。
だが、前後左右の退路を、四人の位置が塞いでいた。
カイは、動かずに立っていた。
怯えてはいない。
だが、動けば何が起きるかを、正確に測っている顔だった。
ライルは、足を止めなかった。
まっすぐ、その輪の方へ歩いた。
「執務所の者です」
声を張らず、そう告げた。
四人のうち、一人が振り向いた。
頭巾の内側から、静かな声が返ってきた。
「お待ちしておりました」
「私を待っていたと」
「はい」
その声には、焦りも興奮もなかった。
「用件を伺いましょう」
ライルは言った。
「その方を放してください。話は、私が聞きます」
「話は、もう終わっています」
頭巾の男は言った。
「あとは、あなたが決めるだけです」
「決める、とは」
「木箱の中身を、すべて渡していただきます。原本も、写しも」
男は、淡々と続けた。
「あの方の記録を、ここから消します」
その一言が、雪の上に落ちた。
ライルは、内側で静かに息を吸った。
これまで、誰も口にしなかった目的が、初めてはっきりと形になった。
「なぜ、消す必要があるんですか」
ライルは尋ねた。
商会の時のように、記録で、正しい順番で、押し返せる相手かどうかを確かめる問いだった。
「その問いにも、お答えできません」
「あの方が誰か、あなた方はご存じですか」
「お答えできません」
同じ言葉が返る。
「では、条件を伺います」
ライルは、もう一歩踏み込んだ。
「渡せば、その方を解放しますか。渡さなければ」
「渡していただければ、彼には何もしません」
男は、カイの方を一度だけ見た。
「渡さなければ、こちらも次の手段を考えます」
「認証写しは、今朝すでに監査室へ送りました」
男が、初めて一拍だけ黙った。
その間を、ライルは見た。
「原本は、監査室の指示で現地保全中です。私一人の判断で渡すことはできません」
ライルは、いつも通りの言葉を選んだ。
手順を盾にする。
これまで、何度もそうやって、相手の勢いを止めてきた。
「その手順は」
男は、初めて、わずかに声の調子を変えた。
「ここでは、通用しません」
風が、木々を鳴らした。
ライルは、カイを見た。
カイも、こちらを見ていた。
言葉はなかった。
だが、目が、何かを問うていた。
どうするのか。
ライルは、四人の位置を、一人ずつ確かめた。
距離。
足の運び方。
利き手の側。
カイまでの間合い。
どれも、これまでの用心棒や外部人員とは違う、静かな構えだった。
商会の人間なら、まだ言葉が続いただろう。
だが、この男たちは、もう次の言葉を用意していなかった。
「もう一度だけ、確認します」
ライルは言った。
「カイをこちらへ戻し、あなた方の要求を記録した上で、監査室を交えて話す余地は」
「ありません」
「この場を離れ、改めて日時を定める余地は」
「ありません」
迷いのない答えだった。
ロイドが、半歩後ろで言った。
「記録しました」
その時。
カイの背後にいた一人が、半歩、距離を詰めた。
肩へ手を伸ばす。
「止まってください」
ライルが言った。
手は止まらない。
「触れないでください」
指先が、カイの上着へ届く。
ライルは、上着の内側へ、手を伸ばした。
これまで、確かめるだけだった場所。
位置を知っておくためだけの場所。
指先が、短杖の柄に触れる。
話す順番は、尽くした。
記録も残した。
一人で来てもいない。
目の前で、人へ手が伸びている。
手順は、人を守るためにある。
人を守れない時まで、その後ろに隠れるためではない。
柄を握る。
これまでとは違う、確かな力で。
今度は、抜く。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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