第五十五話「触れるな、と言われた」
着任百八十二日目。
木箱の開封記録と認証写しを、監査室への報告書に添える形でまとめ終えていた。
アルノの私信は添付しない。
私的書簡から得た参考情報として、必要な要旨だけを出所付きで付記している。
提出はまだしていない。
「もう一度、確認しますか」
ロイドが尋ねた。
「お願いします」
写しの判読できない署名の記述。
アルノの私信の扱い——原本も写しも添えず、私信にそう記されていたという事実と、そこから得た参考情報を分けた。
「これで、よろしいですか」
「はい」
昼前、ダグラスとヴェクが官倉への使いに出た。
先日、商会裏でマルコを見かけて以来、ダグラスを一人で使いに出さないことにしていた。
官倉で帳票を確かめ、二人で表通りへ戻る。
その途中。
官倉裏から表通りへ抜ける細い道に、二人の男が立っていた。
商会の者ではない。
見覚えのない外套。
顔は、頭巾に隠れている。
「ダグラス殿」
一人が言った。
名を呼ばれたことに、ダグラスとヴェクは同時に足を止めた。
「どちらの方でしょうか」
「その問いには、お答えできません」
声は静かだった。
脅す響きではない。
「お連れの方にも、聞いていただいて構いません」
男は、ヴェクへ一度だけ視線を向けた。
「一つだけ、お伝えします」
「聞きましょう」
「その箱には、これ以上、触れるな」
ダグラスは動かなかった。
「届けるものも、届けるな」
「箱、というのは」
「執務所の裏に保全されているものです」
今度は、曖昧にしなかった。
ヴェクが口を開く。
「届けるもの、とは何ですか」
「それは、ご理解いただけるはずです」
「わからないものを、わかったことにはできません」
ヴェクが答えた。
男は、わずかに間を置いた。
「では、言い方を変えます。箱の中身を、外へ出すな」
「これは、脅しですか」
ダグラスが尋ねた。
「伝達です」
「誰からの」
「お答えできません」
「従わなければ」
「今日は、伝えるだけです」
声は最後まで事務的だった。
「案件として、処理が必要なだけです」
案件。
処理。
ダグラスは、その二語を頭に残した。
商会の者が普段使う言い回しとは違う。
だが、それだけで相手の所属を決めることはできない。
「お名前を伺っても」
「必要ありません」
二人は、道の端へ退いた。
「お通りください」
ダグラスとヴェクは、そのまま歩いた。
振り返らなかった。
人通りのある場所まで出ても、二人は内容をすり合わせなかった。
執務所へ戻ってから、別々に記録するためだった。
執務所へ戻ると、ダグラスとヴェクは別々の机へ座った。
ロイドが、一人ずつ記録を取る。
互いの証言は、書き終えるまで見せなかった。
「場所は」
「官倉裏から表通りへ抜ける道です」
「時刻は」
「昼前です」
「人数は」
「二人」
「言われたことを、順番に」
ダグラスは、思い出した通りに答えた。
「『その箱には、触れるな』『届けるものも、届けるな』」
「それだけですか」
「はい。理由は言いませんでした」
「口調は」
「脅すというより、事務的でした」
ダグラスは、言葉を選んだ。
「『案件として、処理が必要なだけです』と言いました」
ロイドの筆が、一瞬止まった。
「案件」
「処理」
ライルが、その二語を繰り返した。
「商会の人間の言い方ではありませんね」
「はい」
ダグラスは頷いた。
「もっと、書式めいた言い方でした」
「印は」
「一瞬だけ、袖口に何か見えた気がしました」
ダグラスは、正直に言った。
「ですが、はっきりとは見ていません。商会の印でも、商務分家の印でもなかった、というくらいしか言えません」
「見たことのない印、ということですね」
「そうです。ただ、これも、確かに見たとまでは言い切れません」
ロイドが、事実と印象を分けて書いた。
——発言内容、二点。口調、事務的。袖口に印らしきものを見た可能性、断定せず。
「その箱、というのは」
ミラが尋ねた。
「木箱のことです」
ライルは答えた。
「相手自身が、執務所裏に保全しているものだと明言しています」
「届けるもの、というのは」
「監査室への報告を指している可能性は高いです」
その二つが、直接名指しされた。
商会が求めてきたものとは、種類が違う。
商会は、取引や妨害の停止を求めてきた。
今回は、記録そのものを止めさせようとしている。
「これまでの相手とは、要求の種類が違います」
ライルは言った。
「商会は、取引や行政判断を自分たちに有利な方向へ動かそうとしていました。今回は、記録を外へ出さないよう求めている」
「あの方の記録を、監査室へ出させたくない」
ロイドが言った。
「そう見えます」
ライルは答えた。
「ただし、消したいのか、別の理由で止めたいのかまでは、まだわかりません」
夕方、移動時の手順を見直した。
ダグラスだけを特別扱いするのではない。
木箱、監査室への報告、追加確認記録に関わる者については、日のあるうちでも一人で北側や官倉裏の細い道へ入らない。
出発と帰着の時刻を残し、同行者の組み合わせも固定しない。
「私にまで」
ダグラスが言った。
「あなただけではありません」
ライルは答えた。
「今、狙われる可能性がある者すべてに、同じ手順を適用します」
ダグラスは、それ以上何も言わなかった。
夜。
ライルは執務所に残った。
一人ではない。
ロイドが、隣の机で書類を整理していた。
閉庁後、一人にならない。
その手順を、自分自身にも課している。
机の上に、木箱の開封記録と、ダグラスの証言記録を並べた。
これまで、短杖の位置を確かめる時、それは「知っておく」ためだった。
使うつもりのない備えだった。
だが、今日の言葉を思い返すと、それだけでは足りない気がした。
使わずに済ませられるかどうかは、まだわからない。
そう思った。
初めてだった。
「使わない」と決めていたことが、「済ませられるか、まだわからない」に変わったのは。
声には出さなかった。
ロイドにも、何も言わなかった。
ただ、上着の内側、短杖の位置に、いつもより少し長く、手を止めた。
指先が、柄に触れる。
握りはしなかった。
ただ、そこにある感触を、確かめただけだった。
窓の外は、静かだった。
雪は、まだ解けていない。
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次回は明日19:10更新予定です。
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