第五十四話「もう一つの写し」
着任百七十七日目。
雪は、まだ解けていない。
だが、朝の光の角度が、少しずつ変わってきていた。
その数日、目立った動きはなかった。
雪の上の見慣れない足跡も、あれから増えていない。
カイは、日のあるうちだけ畑と家を往復し、日没前には必ず戻っていた。
ゲオルグの見回りにも、変わったことはなかった。
「静かなだけです」
ロイドが、追加確認記録に書いた。
「収まった、とは書かないでください」
ライルは言った。
「収まったかどうかは、まだわかりません」
静かな数日は、それだけで記録になった。
昼前、監査室からの書状が届いた。
厚みのある封書だった。
ロイドが開封記録を付け、封を切る。
ライルが原本を読む。
内容は、二点だった。
一点目。
裏の小部屋にある木箱の開封を許可する。
ただし、現地での状態記録を条件とし、開封時の記録と認証写しを提出すること。
発見物の原本は、別途指示があるまで現地での保全を継続すること。
二点目。
——当局として、あの方に関する記録の有無を、確認中である。
それだけだった。
ロイドが、その一文を二度読んだ。
「確認中、というのは」
「わかりません」
ライルは答えた。
「記録があると言っているわけではありません。ないとも言っていません」
「なぜ、わざわざ書いたんでしょう」
「わかりません」
ライルは繰り返した。
「ただ、書かなくてもいい一文です。書いてある以上、意味はあります」
ロイドは、その一文をそのまま書き写した。
推測は加えなかった。
昼過ぎ、立会人を揃えた。
ライル、ロイド、ミラ、ダグラス。
ヴェクは官倉の受け渡しがあり同席できず、後で記録を読む役に回った。
裏の小部屋。
紙帯を確認する。
切れていない。
四人の署名も、そのままだった。
「開封前の状態を記録します」
ロイドが言った。
紙帯の色、結び目、蝋の劣化具合。
一つずつ、確かめて書く。
「よろしいですか」
ライルが尋ねた。
三人が頷いた。
紙帯を切る。
錠を開ける。
木箱を、部屋の外、明るい場所へ運び出した。
縄をほどく。
蓋を開ける。
中には、古びた布に包まれたものが、いくつか収まっていた。
一つずつ、取り出す。
擦り切れた上着。
木製の櫛。
小さな砥石。
質素な指輪——飾りのない、細い輪。
「私物のようですね」
ミラが言った。
「そう見えます」
ライルは答えた。
「まだ、断定はしません」
一つずつ、位置と状態を図に記す。
指輪の内側に、何か彫られていないか確かめたが、摩耗していて読めなかった。
箱の底、布の下に、もう一つ包みがあった。
油紙で、二重に巻かれている。
「これは」
ダグラスが、息を止めるようにして言った。
ライルは、慎重に油紙を開いた。
中から出てきたのは、綴じられた紙の束だった。
表紙はない。
だが、開いてすぐ、見覚えのある書き方があった。
日付。
差出人。
確認者。
訂正は消さず、線を引いて書き直してある。
「これは」
ロイドが、声を落とした。
「今の保全記録と、同じやり方です」
「はい」
ライルは頷いた。
「ダグラスさんの証言とは、よく合います」
ライルは言った。
「ですが、あの方の報告の写しだと決めるのは、まだ早い。筆跡も署名も、確認できていません」
ダグラスが、箱の縁に手をついた。
「もう一つ、あったんですね」
「あなたは、知りませんでしたか」
「知りませんでした」
ダグラスは、はっきりと言った。
「消えたのは、机の上にあった一部だけだと聞いていました。控えを別に隠していたとは、誰からも聞いていません」
一枚ずつ、めくる。
水路の修繕費の流れ。
土地の移動記録。
穀物の行き先。
今、ライルたちが追ってきたものと、同じ種類の異常が、七、八年前の日付で記されている。
最後の頁。
署名の欄があった。
だが、そこだけ、水に濡れたような染みが広がっている。
文字の輪郭はある。
だが、判読できない。
「読めますか」
ミラが尋ねた。
ロイドが、光にかざした。
「一部は、線が見えます。ですが、これが何の字か、断定はできません」
「無理に読もうとしないでください」
ライルは言った。
「読めないものは、読めないと記録します」
ロイドが、写しを取りながら、その頁だけ、特に丁寧に図で残した。
染みの形。
判読できる線の位置。
判読できない範囲。
「あの方は、控えを残していた」
ライルは、静かに言った。
「私たちがしていることと、同じことを、一人でしていました」
ダグラスは、何も言わなかった。
ただ、油紙の折り目を、指でなぞった。
「別帳と、似ていますね」
ロイドが言った。
「隠すためではなく、消されないために、もう一つ残す」
ダグラスが、初めてそこで口を開いた。
「私は、燃やさずに持っていました。あの方は、隠して、送ろうとしていました」
「違うのは」
ライルが尋ねた。
「あの方は、届ける前に、消された。私は、届けようとする前に、あなたに見つかりました」
ダグラスは、木箱を見た。
「同じにはなりません」
その日のうちに、開封記録・写し・状態図を整え、監査室への提出用として一式にまとめた。
夕方前、ヴェクが官倉の受け渡しを終えて戻り、開封記録を読んだ。
「もう一つの写し、ですか」
「はい」
「見つかって、良かったんでしょうか」
ライルは、少し考えた。
「わかりません。ただ、なかったことにはできません」
ヴェクは頷き、記録の写しを丁寧に綴じた。
夕刻、もう一通の書状が届いた。
私的な経路だった。
差出人は、アルノ・フォン・ケステル。
これまでの私信と同じ、簡素な封蝋。
文面は短かった。
——ガルダの周辺で、見慣れぬ者たちが動いているという話を、別の筋からも耳にした。商会や北西の家の通常の使者とは、動き方が違うようだという話までしか確認できていない。身元も目的も、まだわからない。わかることが増えれば知らせる。
ライルは、その一文を何度か読み返した。
商会や北西の家とは違う。
ロイドが、隣で同じ文面を読んでいた。
「アルノ様も、まだ、正体をつかんでいないんですね」
「そう読めます」
ライルは答えた。
「商会や北西家ではない、と断定しているわけでもありません。動き方が違うという情報がある。それだけです」
夜、ライルは机の上に、二つのものを並べた。
一つは、あの方の写し——判読できない署名を持つ、七、八年前の証拠。
もう一つは、アルノの私信——正体のわからない動きについての、外からの示唆。
どちらも、名前までは届いていない。
だが、どちらも、同じ暗がりの方向を指しているような気がした。
二つとも、同じ場所を指しているのかもしれない。
声には出さず、そう思った。
蝋燭を消した。
窓の外、雪はまだ白いままだった。
だが、朝の光の角度は、少しずつ変わっている。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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