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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第七章:牙を、見せる時

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第五十三話「まだ、抜かない」

 着任百七十二日目。


 あの夕方から、執務所の閉め方だけを変えた。


 表向きの仕事は、変えていない。


 受付の時刻も。


 官倉の確認も。


 水路の見回りも。


 変えたのは、最後に残る者を一人にしないこと。


 日没後に裏の小部屋を確認しないこと。


 閉庁後の移動先と帰着予定を、帳面へ残すこと。


 人影が見えたからといって、村中へ知らせることはしなかった。


 だが、何も変えないことと、平静を保つことは違う。


 ロイドが、そう言った。


 ライルも同意した。


 裏の小部屋の紙帯は、その後も切れていない。


 ただ、雪の上には二度、見慣れない足跡が残った。


 一度は執務所の裏手。


 一度は官倉に近い路地。


 どちらも、足跡があったというだけだった。


 同じ人物かどうか。


 何をしていたのか。


 誰も見ていない。


 追加確認記録には、そのまま書いた。


 昼前、カイが執務所へ来た。


 薪は持っていなかった。


「少し、いいですか」


「どうぞ」


 カイは椅子へ座らず、入口の近くに立った。


「昨日の夕方、二人に声をかけられました」


 ロイドの筆が動き始める。


「場所は」


「水路の東側。林に入る手前です。薪を運んだ帰りでした」


「時刻は」


「日が落ちる少し前です」


「何を聞かれましたか」


 カイは、順番に思い出した。


「執務所の人間と、よく話すのか」


「次に」


「集荷連絡役は、今も続けているのか」


「ほかには」


「執務所で作っている手順書を、見たことがあるか」


 ライルは、そこで一度だけロイドを見た。


 手順書という言葉そのものは、秘密ではない。


 ゲオルグも知っている。


 カイも、すでに聞いていた。


 それだけで、帝都からの照会を知っているとは言えない。


「答えましたか」


「はい」


「何と」


「執務所とは、用があれば話す。集荷の役目は今年で終わった。手順書は見ていない」


「事実ですか」


「全部、事実です」


「相手の反応は」


「『そうか』と言いました」


「ほかに」


「ありません」


「顔は見ましたか」


「よく見えませんでした。二人とも、頭巾を深くかぶっていました」


「年齢、背丈、声」


「一人は俺より少し高い。もう一人は同じくらいです。声は男でした。年齢はわかりません」


「触られたり、道を塞がれたりは」


「ありません」


「脅す言葉も」


「ありません」


 ロイドが、記録した内容を読み上げた。


 日時。


 場所。


 人数二名。


 質問内容。


 回答。


 威圧、身体接触なし。


 身元不明。


「印象としては、何かありますか」


 ライルが尋ねた。


 カイは少し考えた。


「俺が嘘をついているか、見ている感じがしました」


「そう感じた理由は」


「答えたあと、すぐ次を聞かなかったからです」


「どれくらい」


「数えてはいません。少しです」


「では、印象として残します」


「はい」


 ライルは、少し間を置いた。


「なぜ今日、話そうと思ったんですか」


「最初は、大したことではないと思っていました」


 カイは答えた。


「でも、ゲオルグさんから、執務所の裏に知らない人がいたと聞きました」


「ゲオルグには、誰から」


「見回りの時、ロイドさんから注意だけ聞いたそうです」


 ライルはロイドを見る。


「人影があった。見かけても近づかず、日時と場所だけ知らせてほしい、と伝えました」


「その範囲なら、問題ありません」


 ライルは頷いた。


「だから、同じ人かもしれないと思って」


 カイが言った。


「同じかどうかは、まだわかりません」


「はい」


「ですが、話してくれたことは記録できます」


 ロイドが最後の行を書き終えた。


「相手は、何を確かめているんでしょう」


 ミラが尋ねた。


「まだ、わかりません」


 ライルは答えた。


「手順書を聞いた。集荷連絡役を聞いた。執務所との距離を聞いた」


「カイさんを、執務所に近い人だと思っている」


「そう見ている可能性はあります」


 ライルは言った。


「ただ、それも相手に聞いたわけではありません」


 カイが、自分の手を見た。


「俺は、何を変えればいいですか」


 ライルは、すぐには答えなかった。


「まず、日が落ちてから一人で林側を通らないでください」


「畑は」


「日のあるうちは、今まで通りで構いません。遅くなる日は、執務所かゲオルグへ先に知らせてください」


「家まで誰か来るんですか」


「毎日誰かを付けるつもりはありません」


 ライルは答えた。


「それでは、暮らしそのものが変わります。必要な時だけ、二人で帰れるようにします」


「見回りは」


「あなたの家を見張る形にはしません」


 ロイドが口を挟んだ。


「水路の通常見回りの中で、東側の道を通る回数を増やします」


「わかりました」


 カイは頷いた。


「俺の仕事を増やしたせいですか」


「そうは判断していません」


 ライルは答えた。


「集荷連絡役をしたことで、外から名前が見えやすくなった可能性はあります。ですが、今の時点では可能性です」


 カイは、それ以上は尋ねなかった。


「一つだけ」


「はい」


「俺だけですか」


「何がですか」


「夜、一人で歩かないのは」


 ライルは、一瞬、言葉に詰まった。


 先に答えたのはロイドだった。


「調整官様もです」


「ロイド」


「違いますか」


 静かな声だった。


「カイさんに一人で歩くなと言って、決定した本人が一人で歩けば、手順になりません」


 ミラが、視線だけをライルへ向ける。


 ダグラスも、何も言わずに聞いていた。


 ライルは、短く息を吐いた。


「その通りです」


 カイが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「では、わかりました」


「今日から、閉庁後は二人以上で出ます」


 ライルはロイドへ言った。


「すでに、そのつもりでした」


「記録には」


「昨日から入れています」


 ライルは、それ以上何も言えなかった。


 カイが帰った後、追加確認記録へ新しい項目を加えた。


 ——対象者への接触。


 誰に。


 いつ。


 どこで。


 何を聞かれたか。


 何を答えたか。


 威圧、接触の有無。


 推測は別欄。


「手順が、また増えましたね」


 ミラが言った。


「増やしたくて、増やしているわけではありません」


 ライルは答えた。


「必要になったから、増えただけです」


「手順書に入れますか」


「今は入れません」


「なぜですか」


「まだ、一つの事例です」


 ライルは言った。


「一度起きたことを、すぐ一般の手順にすると、例外へ全員を合わせることになります」


「では」


「当面の措置として残します。続くなら、見直します」


 夕刻。


 閉庁の準備を終えた。


 ロイドが最後の帳面を棚へ戻す。


 ミラは先に、ダグラスと一緒に帰った。


 残ったのは、ライルとロイド。


「出ますか」


「はい」


 二人で扉を閉める。


 施錠。


 時刻。


 帰着予定なし。


 退出者、二名。


 ロイドが最後に記録した。


 水路沿いの道を並んで歩く。


 上着の内側にある短杖の位置を、ライルは一度だけ確かめた。


 持っている。


 それだけでいい。


 抜く理由は、まだない。


「気になりますか」


 ロイドが尋ねた。


「何がですか」


「短杖です」


「見ていましたか」


「さっきから、二度触っています」


「二度でしたか」


「はい」


 ライルは手を離した。


「使うつもりはありません」


「使わずに済む方がいいです」


「私も、そう思います」


 しばらく、雪を踏む音だけが続いた。


 林の際へ差しかかった時。


 別の足音が、一度だけ止まった。


 ライルとロイドのものではない。


 二人とも、立ち止まらなかった。


 振り返りもしない。


 角を曲がり、灯りのある通りまで出てから、ロイドが小さく言った。


「聞こえましたか」


「はい」


「一人」


「そう聞こえました」


「確認は」


「できていません」


「では、そのように」


 執務所へ戻ることはしなかった。


 明日の朝、追加確認記録へ書く。


 日時。


 場所。


 二人が同時に聞いたこと。


 姿は確認していないこと。


 それで足りる。


 まだ、姿は見えない。


 まだ、名乗る者もいない。


 まだ、何を求めているのかもわからない。


 だから、こちらから答えを作らない。


 刃を抜けば、相手が敵だと決めることになる。


 今は、まだそこまでの事実はない。


 ライルは、短杖から手を離したまま歩いた。


 まだ、抜かない。


 必要になるまでは。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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