第五十三話「まだ、抜かない」
着任百七十二日目。
あの夕方から、執務所の閉め方だけを変えた。
表向きの仕事は、変えていない。
受付の時刻も。
官倉の確認も。
水路の見回りも。
変えたのは、最後に残る者を一人にしないこと。
日没後に裏の小部屋を確認しないこと。
閉庁後の移動先と帰着予定を、帳面へ残すこと。
人影が見えたからといって、村中へ知らせることはしなかった。
だが、何も変えないことと、平静を保つことは違う。
ロイドが、そう言った。
ライルも同意した。
裏の小部屋の紙帯は、その後も切れていない。
ただ、雪の上には二度、見慣れない足跡が残った。
一度は執務所の裏手。
一度は官倉に近い路地。
どちらも、足跡があったというだけだった。
同じ人物かどうか。
何をしていたのか。
誰も見ていない。
追加確認記録には、そのまま書いた。
昼前、カイが執務所へ来た。
薪は持っていなかった。
「少し、いいですか」
「どうぞ」
カイは椅子へ座らず、入口の近くに立った。
「昨日の夕方、二人に声をかけられました」
ロイドの筆が動き始める。
「場所は」
「水路の東側。林に入る手前です。薪を運んだ帰りでした」
「時刻は」
「日が落ちる少し前です」
「何を聞かれましたか」
カイは、順番に思い出した。
「執務所の人間と、よく話すのか」
「次に」
「集荷連絡役は、今も続けているのか」
「ほかには」
「執務所で作っている手順書を、見たことがあるか」
ライルは、そこで一度だけロイドを見た。
手順書という言葉そのものは、秘密ではない。
ゲオルグも知っている。
カイも、すでに聞いていた。
それだけで、帝都からの照会を知っているとは言えない。
「答えましたか」
「はい」
「何と」
「執務所とは、用があれば話す。集荷の役目は今年で終わった。手順書は見ていない」
「事実ですか」
「全部、事実です」
「相手の反応は」
「『そうか』と言いました」
「ほかに」
「ありません」
「顔は見ましたか」
「よく見えませんでした。二人とも、頭巾を深くかぶっていました」
「年齢、背丈、声」
「一人は俺より少し高い。もう一人は同じくらいです。声は男でした。年齢はわかりません」
「触られたり、道を塞がれたりは」
「ありません」
「脅す言葉も」
「ありません」
ロイドが、記録した内容を読み上げた。
日時。
場所。
人数二名。
質問内容。
回答。
威圧、身体接触なし。
身元不明。
「印象としては、何かありますか」
ライルが尋ねた。
カイは少し考えた。
「俺が嘘をついているか、見ている感じがしました」
「そう感じた理由は」
「答えたあと、すぐ次を聞かなかったからです」
「どれくらい」
「数えてはいません。少しです」
「では、印象として残します」
「はい」
ライルは、少し間を置いた。
「なぜ今日、話そうと思ったんですか」
「最初は、大したことではないと思っていました」
カイは答えた。
「でも、ゲオルグさんから、執務所の裏に知らない人がいたと聞きました」
「ゲオルグには、誰から」
「見回りの時、ロイドさんから注意だけ聞いたそうです」
ライルはロイドを見る。
「人影があった。見かけても近づかず、日時と場所だけ知らせてほしい、と伝えました」
「その範囲なら、問題ありません」
ライルは頷いた。
「だから、同じ人かもしれないと思って」
カイが言った。
「同じかどうかは、まだわかりません」
「はい」
「ですが、話してくれたことは記録できます」
ロイドが最後の行を書き終えた。
「相手は、何を確かめているんでしょう」
ミラが尋ねた。
「まだ、わかりません」
ライルは答えた。
「手順書を聞いた。集荷連絡役を聞いた。執務所との距離を聞いた」
「カイさんを、執務所に近い人だと思っている」
「そう見ている可能性はあります」
ライルは言った。
「ただ、それも相手に聞いたわけではありません」
カイが、自分の手を見た。
「俺は、何を変えればいいですか」
ライルは、すぐには答えなかった。
「まず、日が落ちてから一人で林側を通らないでください」
「畑は」
「日のあるうちは、今まで通りで構いません。遅くなる日は、執務所かゲオルグへ先に知らせてください」
「家まで誰か来るんですか」
「毎日誰かを付けるつもりはありません」
ライルは答えた。
「それでは、暮らしそのものが変わります。必要な時だけ、二人で帰れるようにします」
「見回りは」
「あなたの家を見張る形にはしません」
ロイドが口を挟んだ。
「水路の通常見回りの中で、東側の道を通る回数を増やします」
「わかりました」
カイは頷いた。
「俺の仕事を増やしたせいですか」
「そうは判断していません」
ライルは答えた。
「集荷連絡役をしたことで、外から名前が見えやすくなった可能性はあります。ですが、今の時点では可能性です」
カイは、それ以上は尋ねなかった。
「一つだけ」
「はい」
「俺だけですか」
「何がですか」
「夜、一人で歩かないのは」
ライルは、一瞬、言葉に詰まった。
先に答えたのはロイドだった。
「調整官様もです」
「ロイド」
「違いますか」
静かな声だった。
「カイさんに一人で歩くなと言って、決定した本人が一人で歩けば、手順になりません」
ミラが、視線だけをライルへ向ける。
ダグラスも、何も言わずに聞いていた。
ライルは、短く息を吐いた。
「その通りです」
カイが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「では、わかりました」
「今日から、閉庁後は二人以上で出ます」
ライルはロイドへ言った。
「すでに、そのつもりでした」
「記録には」
「昨日から入れています」
ライルは、それ以上何も言えなかった。
カイが帰った後、追加確認記録へ新しい項目を加えた。
——対象者への接触。
誰に。
いつ。
どこで。
何を聞かれたか。
何を答えたか。
威圧、接触の有無。
推測は別欄。
「手順が、また増えましたね」
ミラが言った。
「増やしたくて、増やしているわけではありません」
ライルは答えた。
「必要になったから、増えただけです」
「手順書に入れますか」
「今は入れません」
「なぜですか」
「まだ、一つの事例です」
ライルは言った。
「一度起きたことを、すぐ一般の手順にすると、例外へ全員を合わせることになります」
「では」
「当面の措置として残します。続くなら、見直します」
夕刻。
閉庁の準備を終えた。
ロイドが最後の帳面を棚へ戻す。
ミラは先に、ダグラスと一緒に帰った。
残ったのは、ライルとロイド。
「出ますか」
「はい」
二人で扉を閉める。
施錠。
時刻。
帰着予定なし。
退出者、二名。
ロイドが最後に記録した。
水路沿いの道を並んで歩く。
上着の内側にある短杖の位置を、ライルは一度だけ確かめた。
持っている。
それだけでいい。
抜く理由は、まだない。
「気になりますか」
ロイドが尋ねた。
「何がですか」
「短杖です」
「見ていましたか」
「さっきから、二度触っています」
「二度でしたか」
「はい」
ライルは手を離した。
「使うつもりはありません」
「使わずに済む方がいいです」
「私も、そう思います」
しばらく、雪を踏む音だけが続いた。
林の際へ差しかかった時。
別の足音が、一度だけ止まった。
ライルとロイドのものではない。
二人とも、立ち止まらなかった。
振り返りもしない。
角を曲がり、灯りのある通りまで出てから、ロイドが小さく言った。
「聞こえましたか」
「はい」
「一人」
「そう聞こえました」
「確認は」
「できていません」
「では、そのように」
執務所へ戻ることはしなかった。
明日の朝、追加確認記録へ書く。
日時。
場所。
二人が同時に聞いたこと。
姿は確認していないこと。
それで足りる。
まだ、姿は見えない。
まだ、名乗る者もいない。
まだ、何を求めているのかもわからない。
だから、こちらから答えを作らない。
刃を抜けば、相手が敵だと決めることになる。
今は、まだそこまでの事実はない。
ライルは、短杖から手を離したまま歩いた。
まだ、抜かない。
必要になるまでは。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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