第五十二話「刃ではなく、影」
着任百六十六日目。
手順書の下書きは、七割ほどまでまとまっていた。
本体の五項目は、形になりつつある。
残っているのは、別紙に付ける「未解決事例」の整理だった。
水路北側の整備を、すべて終えられなかったこと。
受領札番号五十七の重複。
欠けた受領綴り。
裏の小部屋に残されていた木箱。
最後の一件については、監査室へ開封の可否を照会している。
返答は、まだない。
書けることだけを書く。
わからないことは、わからないと残す。
その作業は、地味に続いていた。
昼過ぎ、ダグラスが官倉への使いから戻った。
普段より、少し遅かった。
「遅くなりました」
「何かありましたか」
ライルが尋ねた。
ダグラスは、すぐには答えなかった。
「南通り穀物商会の裏で、マルコを見ました」
ロイドの筆が止まった。
マルコ。
以前、商会側で何度か顔を合わせた男だった。
「話しましたか」
「少しだけです」
「その前に、見たことからお願いします」
ダグラスは頷いた。
「商会裏の荷捌き場に、荷車が一台ありました。マルコと、知らない男が二人いました」
「二人は、ガルダの者ですか」
「わかりません。ただ、話し方に、ここでは聞き慣れない訛りがありました」
「何を積んでいましたか」
「木箱です。三つ。布が掛けられていて、中身は見ていません」
「商会の印は」
「見えませんでした」
「それから」
「私がマルコに声をかけました」
ダグラスは、その時の言葉を思い出すように続けた。
「『久しぶりですね』と。向こうも『お久しぶりです』と返しました」
「様子は」
「驚いたようには見えました。ですが、それは私の見方です」
「事実としては」
「声をかけた時、一度手を止めた。目を合わせたのは短かった。その後、すぐ荷車へ戻った」
「ほかに」
「私が離れかけた時、マルコが別の男へ言いました」
ダグラスは、一語ずつ確かめるように言った。
「『こっちの荷は、上から預かってきたやつだ。触るな』と」
「聞き間違いの可能性は」
「あります。距離は、十歩ほどでした」
「では、そのように残します」
ロイドが記録する。
発言内容。
距離。
周囲の音。
聞き間違いの可能性。
「上、という言葉が何を指すかは」
「わかりません」
ダグラスは答えた。
「商会の上役かもしれない。別の取引先かもしれない。私には判断できません」
「それでいいです」
ライルは言った。
少しの沈黙の後、ダグラスが続けた。
「ただ、以前と、感じが違いました」
「そこからは、あなたの印象ですね」
「はい」
「聞かせてください」
「以前、商会が人を動かした時は、見せるための動きでした」
ダグラスは言った。
「人数を見せる。荷を止める。誰の指示かを匂わせる。こちらが気づくことに意味がありました」
「今日は」
「見られたくないように、私には見えました」
「理由は」
「マルコが、私を見た後、布を掛け直したからです」
「それは、見た」
「はい」
「『見られたくない』は、あなたの推測」
「はい」
ロイドが、二つを分けて書いた。
ミラが、その記録を横から見ていた。
「手順書に書いたばかりですね」
小さく言った。
「直接見たことと、そこから考えたことを分ける」
「書いたから、使えるか確かめられます」
ライルは答えた。
ロイドが来訪者記録を開いた。
「商会関係者の執務所への来訪は、ここ数日ありません」
「それは、この件の証拠にはなりません」
ライルは言った。
「商会の裏で荷を扱うのに、執務所へ来る必要はありません」
「では、記録の外で動いている、とは言えませんね」
「言えません」
ライルは頷いた。
「今言えるのは、商会裏で、目的のわからない荷と、見慣れない二人をダグラスが見た。それだけです」
「五十七や、木箱との関係も」
「ありません。少なくとも、今は」
ロイドは、新しい紙を一枚出した。
「どこへ綴じますか」
「確認待ちの事実へ」
「題は」
ライルは少し考えた。
「『未確認動向』では、何かが起きていることを前提にしてしまいます」
「では」
「『追加確認記録』にしましょう」
日付。
場所。
確認者。
直接見たこと。
聞いたこと。
推測。
今後確かめること。
手順書で作った区分を、そのまま使った。
夕方、ライルはゲオルグとカイに、それぞれ別に声をかけた。
「最近、見慣れない人を見ましたか」
ゲオルグは首を振った。
「私は、見ていません」
「聞いた話は」
「荷車が増えた、という話もないですね」
「わかりました」
カイも、見ていないと答えた。
「何かあったんですか」
「確認できていないことがあります」
ライルは言った。
「もし、見慣れない人から執務所のことを聞かれたり、何か変わったものを見たりしたら、日時と場所だけ覚えておいてください」
「理由まで、聞かなくていいんですか」
「聞かないでください」
ライルは答えた。
「確かめようとして、余計なことを起こす必要はありません」
カイは頷いた。
「わかりました」
村全体へ触れて回ることはしなかった。
知らない人間がいる。
商会が何かを隠している。
そんな言葉だけが先に広がれば、それ自体が新しい噂になる。
必要な者へ、必要な範囲だけ伝える。
それ以上は、まだしない。
日が落ちる前、ロイドが窓の鎧戸を閉めようとして、手を止めた。
「調整官様」
低い声だった。
ライルが窓辺へ寄る。
裏の小部屋へ続く細い通路。
その先に、人影が二つあった。
雪の上に立ち、物置の方を見ている。
「見えますか」
「二人」
「はい」
「何をしているかは」
「わかりません」
二人は、扉に触れてはいない。
小部屋へ近づいてもいない。
ただ、立っていた。
「呼びかけますか」
ロイドが尋ねた。
「ここから、一度だけ」
ライルは窓を少し開けた。
「そこにいる方。執務所へご用件がありますか」
二人のうち一人が、こちらを向いた。
顔は、外套の襟と影に隠れている。
返事はなかった。
数秒後。
二人は別々の方向へ歩き出した。
一人は水路沿い。
もう一人は商会とは反対側の路地。
「追いますか」
「追いません」
ライルは即答した。
「何もしていない者を、夜道で追う理由はありません」
「小部屋は」
「今から確認します。ただし、一人では行きません」
ヴェクを呼び、ライル、ロイド、ヴェクの三人で裏手へ回った。
小部屋の紙帯は、切れていない。
錠にも、目立った傷はない。
箱があることは、扉を開けずに確認できない。
だが、紙帯を切る理由もない。
「今日は、開けません」
ライルは言った。
「扉の外までを確認した。そこまでです」
ロイドが、紙帯の状態を記録する。
ヴェクが、雪の足跡を見た。
「二人分です」
「形は」
「片方は、踵に鋲があります。もう片方は、よくわかりません」
「ガルダの誰のものかわかりますか」
「わかりません」
「では、それ以上は書かないでください」
足跡は、水路沿いの踏み固められた道へ入ると、ほかの跡に紛れた。
追跡はしなかった。
執務所へ戻り、追加確認記録へ書き足す。
——日没前、裏手通路に人物二名。執務所から呼びかけるも応答なし。小部屋の紙帯、錠に異常なし。足跡二名分。身元、目的とも確認できず。
刃を見せた者はいない。
脅す言葉もない。
何かを壊した跡もない。
残ったのは、見られていたという事実だけだった。
ライルは帳面を閉じた。
今までの相手は、何を求めているかが、形になって現れた。
買い取りを止める。
噂を流す。
条件を出す。
書面を送る。
今回は、まだ形になっていない。
だからこそ、こちらで形を決めてはいけない。
刃ではなく、影。
今のところは、それだけだった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




