第七十五話「ガルダだけの話ではない」
着任二百八十八日目、朝。
報告書が完成した。
報告書本体はライルがまとめ、ダグラスの証言は署名付きの補足陳述として別紙にした。
ロイドが清書し、ミラが写しを整え、日付と署名を確認した。
「読み上げます」
ロイドが言った。
旧受領台帳の欠落。
辞令書の余白印、布切れの意匠、欠落した綴りの印影——共通する特徴を持つが同一性は未判定。
旧受領札番号五十七の重複。
フェルンでの同型の「病没」記録。
倉庫番ヨナスの証言(響きの一部のみ、詳細は本人の意向により未開示)。
ダグラスの証言(「鍵」という呼び名、使われていた文脈、証言者自身の推測部分)。
最後に、分析欄が添えられていた。
——複数地域で、本人名ではない呼称に関する証言と、記録上の異常が確認されている。各事象の因果関係、関与人数、組織性の有無はいずれも未確認。単独人物説・複数関与説の双方を残したまま、広域照会の要否を検討願いたい。
ダグラスは、読み上げられる自分の言葉を、黙って聞いていた。
「直すところは、ありますか」
ライルが尋ねた。
「ありません」
ダグラスは、静かに首を振った。
「これで、十分です。足すことも、引くこともありません」
「これで、いいと思います」
ライルは言った。
「監査室と、アルノ様、両方へ送ります」
封を二つ用意した。
一つは正式な報告として監査室へ。
もう一つは、私信としてアルノへ。
アルノへの私信には、正式報告を監査室へ提出したことと、追加証言が出たことだけを書いた。
ダグラスの補足陳述そのものは添付しない。
証言の原文を扱う権限は、監査室側で確認してもらう。
継立場の使者に託し、二通は同じ朝、それぞれの道へ向かった。
馬の足音が遠ざかるのを、ダグラスがしばらく見送っていた。
「戻ってこない言葉、ですね」
ぽつりと言った。
「戻ってきますよ」
ロイドが言った。
「今度は、答えという形で」
その日から、ガルダはいつも通りの日々に戻った。
水路の見回り、官倉の入出庫、受付の来訪者。
カイが弟に集荷の記録を少しずつ教え、ゲオルグが村の様子を伝えに来る。
ミラは相変わらず原本保全記録を几帳面につけ、ヴェクは官倉の雨漏りを気にして屋根を見上げていた。
大きなことの後でも、日々の仕事は止まらなかった。
夜、ライルは手帳に記した。
——正式報告送付済み。返答待ち。通常業務継続。
数日が過ぎても、書状は来なかった。
誰も、それを急かす言葉は口にしなかった。
着任二百九十四日目、朝。
継立場から、二通の書状が同時に届いた。
一通は監査室の公印、もう一通はアルノの私印。
ライルは、先に監査室のものを開いた。
文面は、これまでとは違っていた。
これまでの照会・命令は、監査室名義だった。
今回は、その冒頭に本局の付記がある。
——本件は、一地方における個別案件としての取扱いを超える可能性があるため、内政調整局本局の「特別監察案件」として管理区分を変更する。現地調査実務は引き続き監査室が担う。
「特別監察案件」
ロイドが、その一文を読み上げた。
「新しい部署、という意味ではないんですね」
「はい」
ライルは文面を指した。
「案件の扱いが変わった、と書いてあります」
続く文面には、これまでにない要求が並んでいた。
保全中資料について、原本・認証写し・状態図の総目録を作成すること。
原本の移送が必要な場合は、対象を個別指定した正式命令を別途出す。それまでは現在の保全場所・封印を維持すること。
ダグラスの署名付き補足陳述と、ロイドがフェルンで作成したヨナス発言の同時記録を提出可能な状態に整えること。ヨナス本人の正式証言書としては扱わないこと。
ガルダ・フェルン双方の関係者について、安全上の必要が生じた場合に備え、監察側でも支援人員派遣の準備に入ること。
そして、最後の一文。
——本件は、単一の地方における不正事案ではなく、より広い範囲に及ぶ可能性がある事案として、今後扱う。
「これまでと、明らかに違います」
ロイドが言った。
「これまでは、確認と、暫定的な処置でした。今回は」
「扱う範囲が広がりました」
ライルは言った。
「ガルダだけの個別案件として閉じず、他地域との照合を前提にする、ということです」
「特別監察案件というのは」
ミラが尋ねた。
「本局でも、他地域と照らして扱う案件になった、という意味だと読めます」
ライルは文面を見た。
「現地調査をする監査室そのものが変わるわけではありません」
「良いことなんでしょうか」
「少なくとも、ガルダだけで結論を出さずに済みます」
ライルは答えた。
「ただし、関わる人と記録が増える分、誰が何を知ってよいかも、今まで以上に分ける必要があります」
ロイドは、その言葉を、そのまま帳面に書き留めた。
次に、アルノの書状を開いた。
いつもの、簡潔で抑制の効いた文面ではなかった。
筆跡は同じだが、行間が詰まり、文字がわずかに乱れていた。
——「鍵」という言葉を、あなたの報告で読んだ時、手が止まった。
——この語を、私は過去の内部資料で見たことがある。ただし、人名なのか、役目なのか、組織内の符号なのかは、その資料だけでは判別できなかった。
ライルは、そこで一度、目を上げた。
これまでアルノが、「知っている」と明言したことのない種類の情報だった。
続きを読む。
——辞令書の余白印についても、関連する可能性のある旧資料を知っている。だが、同じ印だと確認できたわけではない。
——以前、詳しく伝えなかったのは、資料が断片的だったことと、出所を不用意に広げるべきではないと判断したためだ。
——今回、監査室側でも広域照合へ移る判断が出た。私一人の判断で伏せ続ける段階ではなくなった。
ロイドが、隣で静かに文面を追う。
アルノは、何も「答え」を書いていない。
「鍵」を知っている。
余白印に関連するかもしれない旧資料を知っている。
だが、どちらも正体までは確認できていない。
それでも、今までより一段深い場所へ踏み込んだことだけは確かだった。
——フェルンを制度検証候補に挙げた判断と、監査室の調査は別のものとして扱っている。この点は変わらない。
その一文を読み、ライルは小さく息を吐いた。
技術協力を、過去を探るための隠れ蓑にはしない。
そこは、アルノ側も同じ線を守っている。
——あなたの前任者に関する記録と、私が知る旧資料に接点があるかどうかは、まだわからない。書面で推測を重ねるより、手元の資料を持って直接話したい。
最後の一文は、短かった。
——私自身が、ガルダへ向かう。
ライルは、その一文を二度読んだ。
「アルノ様が、来られるんですか」
ロイドが尋ねた。
「そう書いてあります」
「理由は」
「書面では足りない、と」
ライルは答えた。
それ以上の意味は、まだ付けなかった。
ダグラスが、二通の書状の内容を聞き、しばらく黙っていた。
「私の証言が、ここまで動かしたんでしょうか」
やがて、そう尋ねた。
「どの材料を決め手にしたのかは、こちらには書かれていません」
ライルは答えた。
「あなたの証言も、その一つとして送っています。ただ、それだけで動いたとは言えません」
「重く、感じます」
「重いことです」
ライルは、隠さずに答えた。
「軽く扱うつもりは、ありません」
ダグラスは、その言葉に、静かに頷いた。
怯えではなく、覚悟に近い表情だった。
「材料は、増えてきました」
ライルは、二通の書状を静かに並べて置いた。
「そして今日、少なくとも『ガルダだけで完結させない案件』として扱うことが正式に決まりました」
窓の外、水路の音が、いつもと変わらず聞こえていた。
その変わらなさが、今日はどこか、頼りなく感じられた。
ライルは、二通の書状をもう一度読み返し、静かに立ち上がった。
「準備を、始めます」
その声には、これまでにない重さがあった。
「何を、始めますか」
ロイドが尋ねた。
「資料総目録の作成。証言記録の保全確認。安全連絡先の整理。アルノ様を迎える準備」
ライルは一つずつ挙げた。
「それから、監査室から追加指示が来ても、通常業務を止めないための担当分けです」
ロイド、ミラ、ダグラス、それぞれの表情が、わずかに変わった。
誰も、それ以上は何も言わなかった。
執務所の外では、いつも通り水路の音が聞こえていた。
カイとゲオルグが、いつものように水路の様子を報告に来て、いつものように帰っていった。
変わらない一日と、これから変わっていく何かが、同じ部屋の中に、静かに同居していた。
その日から、ガルダの仕事に一つだけ項目が増えた。
——広域照合案件への対応。
水路や官倉と同じように、誰が、何を、どこまで担うかを決めなければならない仕事だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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