第五十話「まだ、全部ではない」
着任百五十二日目。
朝、雪が降っていた。
今年、初めての雪だった。
着任した日は、まだ道の土がぬかるんでいた。
種をまく時期の話を、ロイドから聞いた覚えがある。
あれから、百五十二日が経った。
執務所の窓の外では、水路の縁に、白いものが薄く積もり始めていた。
ロイドが、官倉の在庫表を持ってきている。
冬に必要な物資と、確保できた分の照らし合わせは、先日で一区切りついた。
今日の帳面は、来年の種麦の割り当てだった。
ヴェクは官倉で、俵の数と封札を確かめていた。
昼前に戻ると、外套についた雪を払いながら報告した。
「先週と、変わっていません」
「湿気は」
「確かめました。今のところ、傷んだ俵はありません。壁際の二俵だけ、念のため位置を替えました」
「記録は」
「移動前と移動後、両方つけています」
ライルは頷いた。
ミラは、過去の綴りを調べる仕事ではなく、いつもの受付帳をつけていた。
雪のせいか、朝から来訪者はない。
「今日は、静かですね」
ミラが言った。
「静かな日も、記録します」
ロイドが答えた。
「何もなかったことと、書き忘れたことが、後から区別できるように」
ミラは少し笑い、日付の下へ書き込んだ。
——午前、来訪者なし。
昼前、ゲオルグが顔を出した。
「水路が、端の方から凍り始めています」
「昨日は、まだでしたね」
「今朝からです」
「北側は、持ちそうですか」
「泥を全部は上げられませんでしたからね」
ゲオルグは、窓の外を見た。
「出口は開いています。継ぎ目の詰め物も、今のところは持っています」
「持たなければ」
「割れた場所を記して、春に直します」
「村の備えは」
「薪と塩は、大方揃いました。油が足りない家が、まだ二戸あります」
「融通記録に」
「もう、書いてあります」
ゲオルグは、短く笑った。
「言われる前に書く癖が、つきました」
不足している量。
融通できる家。
返す時期。
まだ決まっていない箇所には、未定と書いたという。
それだけ確認して、ゲオルグは水路の見回りへ戻っていった。
昼過ぎ、監査室から書状が届いた。
厚みのある封書だった。
ロイドが封の状態を確認し、開封時刻と立会人を記す。
ライルとミラの前で封を切り、原本をライルへ渡した。
内容は、大きく二点あった。
一点目。
別帳に記された十五件の管理委託契約について、三か月の滞納だけを理由として、耕作と管理に関する権限の全部を受託者へ移す条項は、著しく均衡を欠くとして無効とする。
ただし、契約のほかの条項まで、すべて無効と判断したものではない。
二点目。
土地の名義を最終的に誰へ帰属させるかについては、なお審理を継続する。
最終判断までの間、十五件の係争地について、従前の耕作者に暫定使用を認める。
認められるのは、耕作、収穫、通常の維持管理。
再譲渡、名義変更、担保設定、第三者への貸付けは、引き続き禁じる。
係争地の名義を動かさないための暫定命令が届いてから、およそ二か月。
その間、土地は誰の手にも渡らなかった。
今度は、動かさないだけではない。
結論が出るまで、荒らさず、使い続けられる形にする。
そのための一歩だった。
「全部、戻るわけではないんですね」
ロイドが言った。
「はい」
ライルは答えた。
「一つの条項が無効になった。暫定的に使えるようになった。ですが、名義はまだ決まっていません」
「使えるようになったことは」
「進んだことです」
進んだことを、小さく言う必要はない。
決まっていないことまで、大きく言う必要もない。
ライルは、認定書をもう一度読んだ。
十五件。
一件ずつ、土地の表示と、従前の耕作者の名が並んでいる。
七件目に、ニルスの名前があった。
別帳と公の台帳を初めて照らし合わせた時も、七件目だった。
あの時は、台帳の空白が、何もなかったという意味ではないことを確かめた。
今度は、その空白へ、暫定的な答えを返す番だった。
「通知は、執務所から十五件すべてへ出します」
ロイドが確認した。
「認定書の原本は保全棚へ。実務には認証写しを使います」
「はい」
「通知には、認められたことと、まだ認められていないことを分けて書きます」
「今日から自由に扱える、とは読めないようにしてください」
「暫定使用の範囲と、禁止が続く行為を、別の欄にします」
「受領した人には」
「内容を読み上げた上で、受領日と説明者、立会人を残します」
ライルが答える前に、ダグラスが口を開いた。
執務所の奥で、書類の整理をしていた手を止めている。
「私が、届けます」
ロイドが、静かに確認した。
「土地関連の書類は、あなた一人では扱えません」
「承知しています」
ダグラスは言った。
「通知文を作ることも、受領記録を一人で持ち帰ることも、しません。立会いをお願いします」
「それでも、届けたいと」
「はい」
ライルは、少しの間、ダグラスを見た。
「理由を聞かせてください」
「台帳を隠したのは、私です」
ダグラスは、認定書を見たまま答えた。
「土地を戻す判断をしたのは、私ではありません。戻ると決まったわけでもない。それでも、使えるようになったという知らせを運ぶことには、私が関わるべきだと思っています」
「償いになると」
「なりません」
ダグラスは答えた。
「一度運んだからといって、隠したことは消えません」
そこで一度、息をついた。
「消えないからこそ、私が運びます」
ライルは頷いた。
「ロイドが同行します。説明と受領の記録は、ロイドが担当してください」
「はい」
「ダグラスは通知を渡し、書かれている内容を読む。質問に、記載以上の判断では答えない」
「承知しました」
「十五件すべて、同じ手順で行います」
「はい」
ミラが、監査室の認定書へ新しい保全番号を付けた。
原本の頁数。
封の状態。
到着時刻。
開封者と立会人。
一つずつ記録する。
次に、認定書の認証写しと、十五件分の通知案を並べた。
ヴェクが別帳の写しを読み上げ、ミラが通知先を指で追う。
ロイドが認定書の土地表示と照合する。
「十五件、全部一致しました」
ミラが言った。
「名前だけでなく、土地の表示も」
「一致しています」
「では、もう一度、逆から確かめます」
十五件の通知から認定書へ。
認定書から別帳へ。
順番を変えて、もう一度見る。
抜けはなかった。
「見直せば、わかる、ですね」
ロイドが言った。
ミラは、少しだけ照れたように頷いた。
認定書の原本は保全棚へ入れる。
実務用の認証写しはロイドが管理する。
発送控えには、通知番号と受領欄を付けた。
ヴェクは十五通の封筒へ宛名を書き、書き終えたものから、別の紙で隠していった。
「隣の家の名前を、見せる必要はありませんから」
その言葉に、ライルは頷いた。
翌日、雪はやんでいた。
十五件のうち、最初に向かったのはニルスの家だった。
ダグラスとロイド。
それに、ライルも同行した。
ニルスは畑の脇に立ち、雪をかぶった土を見ていた。
三年前まで、自分のものとして耕していた田んぼ。
水路が再び通った日、流れてきた水へ指先を触れさせた場所だった。
ダグラスが、通知を差し出した。
「監査室から、判断が届きました」
ニルスは封を受け取らず、しばらくダグラスを見た。
「あなたが、持ってくるんですか」
「私が運びたいと申し出ました」
「どうして」
「隠した書類の中に、あなたの土地がありました」
ダグラスは目を逸らさなかった。
「運んだからといって、そのことがなくなるとは思っていません」
ニルスは、ようやく通知を受け取った。
封を開く。
ロイドが、説明する箇所を指した。
「三か月の滞納によって管理権のすべてが移るという条項は、無効と認められました」
「土地は」
「名義の判断は、まだ続いています」
ライルが答えた。
「戻った、と言うことはできません」
「では、何が変わったんですか」
「監査室の認定日から、暫定的に耕作できます。収穫と、通常の手入れもできます」
「売ることは」
「できません。担保に入れることも、誰かに貸すことも、まだ禁じられています」
「使える。だが、俺のものだとは決まっていない」
「その通りです」
ニルスは、通知を最初から読み直した。
読み終えても、しばらく何も言わなかった。
やがて、雪の積もった畦を、ゆっくり歩いた。
「納得は、していません」
戻ってきて、そう言った。
「土地一枚で、何もかも動いた三年前と」
「書類一枚で、これ以上は動かせなくなった時と」
「今度は、書類一枚で、また使えるようになった」
通知を持った手を下ろす。
「同じ紙が、そのたびに、違うことをしている」
「紙が決めているのではありません」
ライルは言いかけた。
だが、止めた。
紙の向こうに人がいると説明することはできる。
正しい手続きと、間違った手続きを分けることもできる。
けれど、ニルスが紙によって土地を失い、紙によって待たされてきた事実は変わらない。
「そう見えると思います」
ライルは答えた。
それ以上は、付け加えなかった。
「受領したことを、記録してもいいですか」
ロイドが尋ねた。
「してください」
ニルスは言った。
受領日。
説明者。
立会人。
質問されたことと、答えたこと。
最後に、ニルス自身が一文だけ加えた。
——暫定使用を認められたことは確認した。名義については、なお異議がある。
「これも、残してください」
「残します」
ダグラスが答えた。
ニルスは、通知を持ったまま畑を見た。
拳を握るでも、頭を下げるでもなかった。
雪の下の土は、まだ何も語らない。
だが、次の作付けを考えてよい土にはなった。
帰り道、水路沿いでカイに会った。
荒縄で束ねた薪を、橇に積んで運んでいる。
「ニルスさんのところですか」
「はい」
「土地は」
「暫定的に、また使えるようになりました」
ライルは答えた。
「戻ったと決まったわけではありません」
「そうですか」
カイは、それ以上は聞かなかった。
「北側は、持ちそうですか」
「今のところは、とゲオルグが」
「今のところ、ですか」
「はい」
来年も集荷連絡役を続けるかは、まだ誰も口にしていない。
カイも何も言わなかった。
橇の綱を締め直し、自分の家の方へ、雪を踏んで歩いていった。
執務所へ戻ると、もう一通の書状が届いていた。
帝都からだった。
差出人は、アルノ・フォン・ケステル。
だが、これまでの私信とは封の形式が違う。
蝋の色。
紐の結び方。
押された印。
私的な書状ではなく、帝国内政調整局の照会として送られたものだった。
ロイドが封を確かめ、眉を寄せた。
「これまでの書簡とは、違う形です」
「はい」
ライルは、開封記録を付けてから封を切った。
内容は、ガルダで行っている行政運用の手順について、正式な文書を提出するよう求める照会だった。
来訪者記録の様式。
原本保全記録の運用。
証言を取る際の、直接確認、伝聞、推測の区分。
係争案件で、最終判断までに行う暫定措置の考え方。
住民へ複数の選択肢を示す際、行政が決定を代行しないための手順。
それらを、実際に使っている帳票の写しとともにまとめてほしいとある。
提出期限は設けない。
現在の運用を止めず、可能な範囲で提出すること。
完成した制度としてではなく、試行中の手順と、現在判明している問題点を含めること。
そう記されていた。
急がせて整ったものだけを出させるより、途中の欠点まで見ようとしている。
少なくとも、文面からはそう読めた。
理由は、簡潔だった。
——他の地域における行政運用の参考とするため。
それだけだった。
ライルは、机の引き出しから辞令書を取り出した。
押印欄の外にある、余白の印。
アルノが以前の書簡で触れていた印だった。
今日届いた照会書の公印と並べる。
同じ印ではない。
だが、外縁の意匠と、中央を空ける形が似ている。
似ているというだけだった。
同じ権限から出たものとも、同じ人物が押したものとも、まだ言えない。
「これまでは、求めることは何もない、という書簡でした」
ロイドが言った。
「今回は、求めています」
「そうですね」
「応じますか」
「応じます」
ライルは答えた。
「手順を文書にすること自体は、いつか必要でした」
「別の土地で、使うつもりでしょうか」
ライルは、すぐには答えなかった。
ガルダを離れろとは、どこにも書かれていない。
この仕組みをそのまま広げるとも、書かれていない。
ここで作ったものが、ほかの場所でも使えるのか。
誰かが、確かめようとしている。
「わかりません」
ライルは、正直に答えた。
「ただし、使えたことだけを書いてはいけません」
「水路の遅れも」
「書きます」
「五十七の重複も」
「手順上の問題として書きます。誰かの関与を示す事実がないことも」
「あの方の記録は」
「原本が欠けていた事例として。氏名と証言の中身は、監査室への報告と分けます」
ロイドは頷いた。
「誰が、まとめますか」
「私が全体の下書きをします」
ライルは答えた。
「ロイドには、実際の手順と違う箇所がないかを見てほしい。ヴェクには、帳票を使う側から確認してもらいます」
「ミラにも」
「新しく入った者が読んで、同じ運用ができるかを見てもらいます」
「ダグラスは」
ライルは少し考えた。
「過去のやり方と比べてもらいます。都合の悪い違いも、消さずに」
夜。
机の上に、二通の書状を並べた。
一通は、十五件の土地について暫定使用を認める認定書の写し。
もう一通は、ガルダの手順を文書として求める照会書。
一方は、ガルダの中で、長く動かなかったものが少し動いた記録。
もう一方は、ガルダの外から初めて正式に届いた問いだった。
——今年は、良い年だったと言えますか。
先日、ロイドに聞かれた言葉が、頭の中で繰り返された。
答えは変わらない。
大きくは、そうだ。
だが、全部ではない。
十五件のうち、名義が戻った土地は、まだ一件もない。
あの方の名前も、まだ確認できていない。
五十七の受領札が二つある理由も、解けていない。
水路の北側は、泥を残したまま、雪の下で春を待っている。
それでも、動いたものはある。
不当な条項は、無効になった。
ニルスたちは、また土へ手を入れられる。
ガルダで作った手順を、外から確かめたいという問いが届いた。
十五件の空白は、まだ埋まっていない。
だが、空白を、何もなかったことにはしない。
着任初日、帳簿の空欄を見た時から続いていることだった。
ライルは、二通の書状を、それぞれの保全番号へ丁寧に綴じた。
照会書だけは、実務用の写しを机に残す。
明日から、書くべきことを集めるためだった。
窓の外では、雪がまた降り始めていた。
まだ、全部ではない。
それでも、次の年へ持ち越すものが、去年より少しだけ、はっきりしていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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