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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第六章:帝国の闇に、触れる

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第五十話「まだ、全部ではない」

 着任百五十二日目。


 朝、雪が降っていた。


 今年、初めての雪だった。


 着任した日は、まだ道の土がぬかるんでいた。


 種をまく時期の話を、ロイドから聞いた覚えがある。


 あれから、百五十二日が経った。


 執務所の窓の外では、水路の縁に、白いものが薄く積もり始めていた。


 ロイドが、官倉の在庫表を持ってきている。


 冬に必要な物資と、確保できた分の照らし合わせは、先日で一区切りついた。


 今日の帳面は、来年の種麦の割り当てだった。


 ヴェクは官倉で、俵の数と封札を確かめていた。


 昼前に戻ると、外套についた雪を払いながら報告した。


「先週と、変わっていません」


「湿気は」


「確かめました。今のところ、傷んだ俵はありません。壁際の二俵だけ、念のため位置を替えました」


「記録は」


「移動前と移動後、両方つけています」


 ライルは頷いた。


 ミラは、過去の綴りを調べる仕事ではなく、いつもの受付帳をつけていた。


 雪のせいか、朝から来訪者はない。


「今日は、静かですね」


 ミラが言った。


「静かな日も、記録します」


 ロイドが答えた。


「何もなかったことと、書き忘れたことが、後から区別できるように」


 ミラは少し笑い、日付の下へ書き込んだ。


 ——午前、来訪者なし。


 昼前、ゲオルグが顔を出した。


「水路が、端の方から凍り始めています」


「昨日は、まだでしたね」


「今朝からです」


「北側は、持ちそうですか」


「泥を全部は上げられませんでしたからね」


 ゲオルグは、窓の外を見た。


「出口は開いています。継ぎ目の詰め物も、今のところは持っています」


「持たなければ」


「割れた場所を記して、春に直します」


「村の備えは」


「薪と塩は、大方揃いました。油が足りない家が、まだ二戸あります」


「融通記録に」


「もう、書いてあります」


 ゲオルグは、短く笑った。


「言われる前に書く癖が、つきました」


 不足している量。


 融通できる家。


 返す時期。


 まだ決まっていない箇所には、未定と書いたという。


 それだけ確認して、ゲオルグは水路の見回りへ戻っていった。


 昼過ぎ、監査室から書状が届いた。


 厚みのある封書だった。


 ロイドが封の状態を確認し、開封時刻と立会人を記す。


 ライルとミラの前で封を切り、原本をライルへ渡した。


 内容は、大きく二点あった。


 一点目。


 別帳に記された十五件の管理委託契約について、三か月の滞納だけを理由として、耕作と管理に関する権限の全部を受託者へ移す条項は、著しく均衡を欠くとして無効とする。


 ただし、契約のほかの条項まで、すべて無効と判断したものではない。


 二点目。


 土地の名義を最終的に誰へ帰属させるかについては、なお審理を継続する。


 最終判断までの間、十五件の係争地について、従前の耕作者に暫定使用を認める。


 認められるのは、耕作、収穫、通常の維持管理。


 再譲渡、名義変更、担保設定、第三者への貸付けは、引き続き禁じる。


 係争地の名義を動かさないための暫定命令が届いてから、およそ二か月。


 その間、土地は誰の手にも渡らなかった。


 今度は、動かさないだけではない。


 結論が出るまで、荒らさず、使い続けられる形にする。


 そのための一歩だった。


「全部、戻るわけではないんですね」


 ロイドが言った。


「はい」


 ライルは答えた。


「一つの条項が無効になった。暫定的に使えるようになった。ですが、名義はまだ決まっていません」


「使えるようになったことは」


「進んだことです」


 進んだことを、小さく言う必要はない。


 決まっていないことまで、大きく言う必要もない。


 ライルは、認定書をもう一度読んだ。


 十五件。


 一件ずつ、土地の表示と、従前の耕作者の名が並んでいる。


 七件目に、ニルスの名前があった。


 別帳と公の台帳を初めて照らし合わせた時も、七件目だった。


 あの時は、台帳の空白が、何もなかったという意味ではないことを確かめた。


 今度は、その空白へ、暫定的な答えを返す番だった。


「通知は、執務所から十五件すべてへ出します」


 ロイドが確認した。


「認定書の原本は保全棚へ。実務には認証写しを使います」


「はい」


「通知には、認められたことと、まだ認められていないことを分けて書きます」


「今日から自由に扱える、とは読めないようにしてください」


「暫定使用の範囲と、禁止が続く行為を、別の欄にします」


「受領した人には」


「内容を読み上げた上で、受領日と説明者、立会人を残します」


 ライルが答える前に、ダグラスが口を開いた。


 執務所の奥で、書類の整理をしていた手を止めている。


「私が、届けます」


 ロイドが、静かに確認した。


「土地関連の書類は、あなた一人では扱えません」


「承知しています」


 ダグラスは言った。


「通知文を作ることも、受領記録を一人で持ち帰ることも、しません。立会いをお願いします」


「それでも、届けたいと」


「はい」


 ライルは、少しの間、ダグラスを見た。


「理由を聞かせてください」


「台帳を隠したのは、私です」


 ダグラスは、認定書を見たまま答えた。


「土地を戻す判断をしたのは、私ではありません。戻ると決まったわけでもない。それでも、使えるようになったという知らせを運ぶことには、私が関わるべきだと思っています」


「償いになると」


「なりません」


 ダグラスは答えた。


「一度運んだからといって、隠したことは消えません」


 そこで一度、息をついた。


「消えないからこそ、私が運びます」


 ライルは頷いた。


「ロイドが同行します。説明と受領の記録は、ロイドが担当してください」


「はい」


「ダグラスは通知を渡し、書かれている内容を読む。質問に、記載以上の判断では答えない」


「承知しました」


「十五件すべて、同じ手順で行います」


「はい」


 ミラが、監査室の認定書へ新しい保全番号を付けた。


 原本の頁数。


 封の状態。


 到着時刻。


 開封者と立会人。


 一つずつ記録する。


 次に、認定書の認証写しと、十五件分の通知案を並べた。


 ヴェクが別帳の写しを読み上げ、ミラが通知先を指で追う。


 ロイドが認定書の土地表示と照合する。


「十五件、全部一致しました」


 ミラが言った。


「名前だけでなく、土地の表示も」


「一致しています」


「では、もう一度、逆から確かめます」


 十五件の通知から認定書へ。


 認定書から別帳へ。


 順番を変えて、もう一度見る。


 抜けはなかった。


「見直せば、わかる、ですね」


 ロイドが言った。


 ミラは、少しだけ照れたように頷いた。


 認定書の原本は保全棚へ入れる。


 実務用の認証写しはロイドが管理する。


 発送控えには、通知番号と受領欄を付けた。


 ヴェクは十五通の封筒へ宛名を書き、書き終えたものから、別の紙で隠していった。


「隣の家の名前を、見せる必要はありませんから」


 その言葉に、ライルは頷いた。


 翌日、雪はやんでいた。


 十五件のうち、最初に向かったのはニルスの家だった。


 ダグラスとロイド。


 それに、ライルも同行した。


 ニルスは畑の脇に立ち、雪をかぶった土を見ていた。


 三年前まで、自分のものとして耕していた田んぼ。


 水路が再び通った日、流れてきた水へ指先を触れさせた場所だった。


 ダグラスが、通知を差し出した。


「監査室から、判断が届きました」


 ニルスは封を受け取らず、しばらくダグラスを見た。


「あなたが、持ってくるんですか」


「私が運びたいと申し出ました」


「どうして」


「隠した書類の中に、あなたの土地がありました」


 ダグラスは目を逸らさなかった。


「運んだからといって、そのことがなくなるとは思っていません」


 ニルスは、ようやく通知を受け取った。


 封を開く。


 ロイドが、説明する箇所を指した。


「三か月の滞納によって管理権のすべてが移るという条項は、無効と認められました」


「土地は」


「名義の判断は、まだ続いています」


 ライルが答えた。


「戻った、と言うことはできません」


「では、何が変わったんですか」


「監査室の認定日から、暫定的に耕作できます。収穫と、通常の手入れもできます」


「売ることは」


「できません。担保に入れることも、誰かに貸すことも、まだ禁じられています」


「使える。だが、俺のものだとは決まっていない」


「その通りです」


 ニルスは、通知を最初から読み直した。


 読み終えても、しばらく何も言わなかった。


 やがて、雪の積もった畦を、ゆっくり歩いた。


「納得は、していません」


 戻ってきて、そう言った。


「土地一枚で、何もかも動いた三年前と」


「書類一枚で、これ以上は動かせなくなった時と」


「今度は、書類一枚で、また使えるようになった」


 通知を持った手を下ろす。


「同じ紙が、そのたびに、違うことをしている」


「紙が決めているのではありません」


 ライルは言いかけた。


 だが、止めた。


 紙の向こうに人がいると説明することはできる。


 正しい手続きと、間違った手続きを分けることもできる。


 けれど、ニルスが紙によって土地を失い、紙によって待たされてきた事実は変わらない。


「そう見えると思います」


 ライルは答えた。


 それ以上は、付け加えなかった。


「受領したことを、記録してもいいですか」


 ロイドが尋ねた。


「してください」


 ニルスは言った。


 受領日。


 説明者。


 立会人。


 質問されたことと、答えたこと。


 最後に、ニルス自身が一文だけ加えた。


 ——暫定使用を認められたことは確認した。名義については、なお異議がある。


「これも、残してください」


「残します」


 ダグラスが答えた。


 ニルスは、通知を持ったまま畑を見た。


 拳を握るでも、頭を下げるでもなかった。


 雪の下の土は、まだ何も語らない。


 だが、次の作付けを考えてよい土にはなった。


 帰り道、水路沿いでカイに会った。


 荒縄で束ねた薪を、橇に積んで運んでいる。


「ニルスさんのところですか」


「はい」


「土地は」


「暫定的に、また使えるようになりました」


 ライルは答えた。


「戻ったと決まったわけではありません」


「そうですか」


 カイは、それ以上は聞かなかった。


「北側は、持ちそうですか」


「今のところは、とゲオルグが」


「今のところ、ですか」


「はい」


 来年も集荷連絡役を続けるかは、まだ誰も口にしていない。


 カイも何も言わなかった。


 橇の綱を締め直し、自分の家の方へ、雪を踏んで歩いていった。


 執務所へ戻ると、もう一通の書状が届いていた。


 帝都からだった。


 差出人は、アルノ・フォン・ケステル。


 だが、これまでの私信とは封の形式が違う。


 蝋の色。


 紐の結び方。


 押された印。


 私的な書状ではなく、帝国内政調整局の照会として送られたものだった。


 ロイドが封を確かめ、眉を寄せた。


「これまでの書簡とは、違う形です」


「はい」


 ライルは、開封記録を付けてから封を切った。


 内容は、ガルダで行っている行政運用の手順について、正式な文書を提出するよう求める照会だった。


 来訪者記録の様式。


 原本保全記録の運用。


 証言を取る際の、直接確認、伝聞、推測の区分。


 係争案件で、最終判断までに行う暫定措置の考え方。


 住民へ複数の選択肢を示す際、行政が決定を代行しないための手順。


 それらを、実際に使っている帳票の写しとともにまとめてほしいとある。


 提出期限は設けない。


 現在の運用を止めず、可能な範囲で提出すること。


 完成した制度としてではなく、試行中の手順と、現在判明している問題点を含めること。


 そう記されていた。


 急がせて整ったものだけを出させるより、途中の欠点まで見ようとしている。


 少なくとも、文面からはそう読めた。


 理由は、簡潔だった。


 ——他の地域における行政運用の参考とするため。


 それだけだった。


 ライルは、机の引き出しから辞令書を取り出した。


 押印欄の外にある、余白の印。


 アルノが以前の書簡で触れていた印だった。


 今日届いた照会書の公印と並べる。


 同じ印ではない。


 だが、外縁の意匠と、中央を空ける形が似ている。


 似ているというだけだった。


 同じ権限から出たものとも、同じ人物が押したものとも、まだ言えない。


「これまでは、求めることは何もない、という書簡でした」


 ロイドが言った。


「今回は、求めています」


「そうですね」


「応じますか」


「応じます」


 ライルは答えた。


「手順を文書にすること自体は、いつか必要でした」


「別の土地で、使うつもりでしょうか」


 ライルは、すぐには答えなかった。


 ガルダを離れろとは、どこにも書かれていない。


 この仕組みをそのまま広げるとも、書かれていない。


 ここで作ったものが、ほかの場所でも使えるのか。


 誰かが、確かめようとしている。


「わかりません」


 ライルは、正直に答えた。


「ただし、使えたことだけを書いてはいけません」


「水路の遅れも」


「書きます」


「五十七の重複も」


「手順上の問題として書きます。誰かの関与を示す事実がないことも」


「あの方の記録は」


「原本が欠けていた事例として。氏名と証言の中身は、監査室への報告と分けます」


 ロイドは頷いた。


「誰が、まとめますか」


「私が全体の下書きをします」


 ライルは答えた。


「ロイドには、実際の手順と違う箇所がないかを見てほしい。ヴェクには、帳票を使う側から確認してもらいます」


「ミラにも」


「新しく入った者が読んで、同じ運用ができるかを見てもらいます」


「ダグラスは」


 ライルは少し考えた。


「過去のやり方と比べてもらいます。都合の悪い違いも、消さずに」


 夜。


 机の上に、二通の書状を並べた。


 一通は、十五件の土地について暫定使用を認める認定書の写し。


 もう一通は、ガルダの手順を文書として求める照会書。


 一方は、ガルダの中で、長く動かなかったものが少し動いた記録。


 もう一方は、ガルダの外から初めて正式に届いた問いだった。


 ——今年は、良い年だったと言えますか。


 先日、ロイドに聞かれた言葉が、頭の中で繰り返された。


 答えは変わらない。


 大きくは、そうだ。


 だが、全部ではない。


 十五件のうち、名義が戻った土地は、まだ一件もない。


 あの方の名前も、まだ確認できていない。


 五十七の受領札が二つある理由も、解けていない。


 水路の北側は、泥を残したまま、雪の下で春を待っている。


 それでも、動いたものはある。


 不当な条項は、無効になった。


 ニルスたちは、また土へ手を入れられる。


 ガルダで作った手順を、外から確かめたいという問いが届いた。


 十五件の空白は、まだ埋まっていない。


 だが、空白を、何もなかったことにはしない。


 着任初日、帳簿の空欄を見た時から続いていることだった。


 ライルは、二通の書状を、それぞれの保全番号へ丁寧に綴じた。


 照会書だけは、実務用の写しを机に残す。


 明日から、書くべきことを集めるためだった。


 窓の外では、雪がまた降り始めていた。


 まだ、全部ではない。


 それでも、次の年へ持ち越すものが、去年より少しだけ、はっきりしていた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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