第四十九話「全部は、守れなかった」
着任百四十五日目。
収穫の集荷が、終盤に差しかかっていた。
北の継立場でエーリクと会ってから、七日が経っている。
ライルが質問し、ロイドが記録した。
継立場の管理人は、両者の到着時刻と退出時刻、同席者の名だけを別紙へ残した。
契約書状の内容。
エーリクの署名。
支払い先。
受領権限。
いずれも、商務分家が別経路で寄越した回答と一致した。
「この契約書状は、あなたの意思で出したものですか」
「私の権限で出したものです」
「南通り穀物商会と同じ五十七番の受領札が貼られている理由は」
「存じません」
エーリクは答えた。
「私どもが管理する番号ではありません。ガルダへ到着した後に付けられたものではないのですか」
「書状を誰へ渡したかは」
「当家の使いが、ガルダの執務所へ届けています」
「受け取った者の名は」
「控えにはありません」
「受領証は」
「受領印だけです。番号の記載はありません」
エーリクが持参した控えには、確かにガルダ執務所の受領印があった。
印影は、現行のものと一致した。
だが、誰が押したのかは残っていない。
五十七が二つある理由は、わからないままだった。
「本家との関係に、変化はありますか」
ライルが尋ねると、エーリクは以前と同じ答えを返した。
「当家と本家の関係は、従前の通りです」
「南通り穀物商会との関係は」
「取引先の一つです。それ以上でも、それ以下でもありません」
「今回の二十袋について、商会を介していますか」
「介していません」
契約そのものに、不正を示す事実は出なかった。
帰路で道を変える者もいなかった。
予定外の呼び出しもなかった。
誰かに見張られていると確認できる出来事も、起きなかった。
何事もなかったことに、ライルは安堵した。
同時に、何事もなかったからといって、ロイドの異論が間違いだったことにはならないとも思った。
翌日、二十袋は官倉から引き渡された。
所有者ごとの数量を読み上げ、商務分家側の鑑定役が品質を確かめる。
一袋だけ、口紐の緩みが見つかり、その場で重量を量り直した。
減りはなかった。
代金は、四戸の所有者へ分けて支払われた。
受領者の署名と立会人を残し、初回取引は完了した。
その後、商務分家は、今季の収穫分についても追加の買い付け条件を示した。
前払いではない。
官倉または各戸で数量と品質を確かめた後に売る、現物取引だった。
比較表へ条件を追加し、四戸がそれを選んだ。
「確認事項のまま、ですね」
執務所へ戻った後、ロイドが言った。
「今のところは」
ライルは答えた。
「進んでいない、ということですか」
「契約が本人のものだと確認できた。取引も、記録通りに終わった」
ライルは言った。
「そこは進みました」
「あの方と、五十七は」
「進んでいません」
その点は、正直に認めた。
「放っておきますか」
「いいえ」
ライルは答えた。
「確認事項として保全し、監査室からの照会と、残りの記録を待ちます。今すぐ答えが出ないことと、何もしないことは別です」
欠けた頁は、まだ欠けたままだった。
ダグラスが伏せた名前も、まだ封書になっていない。
朝、カイが収穫期最後の集荷報告を持ってきた。
各戸の行き先が、一枚にまとめられている。
南通り穀物商会と前払い契約を結んだ家、六戸。
北西家商務分家へ、収穫後の現物取引で売った家、四戸。
官倉に集積し、次の外部買い手を待つ家、五戸。
隊商の次の巡回時に直接売る家、三戸。
今年は売らず、自家消費と種麦へ回す家、三戸。
二十一戸。
すべての家が、今年の麦をどう扱うか決めていた。
「全戸、揃いましたか」
ライルが尋ねた。
「揃いました」
カイは答えた。
「無理な日は、三度ありました。その都度、前の日までに届けました」
「知っています」
「二度は人を替えました。一度は、搬入日をずらしました」
「最終的な遅れは」
「ありません」
カイの報告は、いつも通り簡潔だった。
誇る調子はない。
ただ、自分がしたことと、できなかったことが分かれていた。
「役務日誌も、確認しました」
ロイドが言った。
「動いた日が、すべて入っています」
「一日、多くありませんか」
カイが、日誌を指した。
「北側の家へ連絡した日は、自分の畑へ行く途中に寄っただけです」
「先方の予定を聞き、変更を執務所へ届けています」
「半日もかかっていません」
「臨時役務基準では、時間ではなく、その日に役務を行ったかで計算します」
カイは、少し考えた。
「決まりなら、受け取ります」
「来年、同じ役目を置くなら、半日基準を作るかは見直します」
ライルが言った。
「今年の途中で、あなたに不利な形へ変えません」
カイは頷いた。
「これで、集荷連絡役としての今年の役目は終わりです」
ロイドが言った。
「はい」
「途中で、放り出しませんでしたね」
カイは、役務書の自分の署名を見た。
「放り出さずに済む順番に、直してもらいましたから」
それだけ、静かに言った。
来年も続けるかという問いを、誰も口にしなかった。
今年の仕事を終えた日に、次の役目まで当然のように背負わせない。
その判断もまた、役務の境目だった。
午後、ゲオルグが執務所に来た。
いつもの、用があるようでないような顔ではなかった。
「水路の北側の一区画なんですが」
机に広げたのは、秋の整備予定表だった。
「冬前に、一度、泥を上げておかないと、凍った時に石の継ぎ目が割れます」
「昔は、毎年していたんですね」
「水が通っていた頃は」
ゲオルグは答えた。
「止まっていた三年は、やっていません。今年は久しぶりに必要になります」
ライルは、予定表を確認した。
秋の水路整備。
収穫後、北側から順次実施。
そう書かれている。
だが、開始日がない。
必要人数もない。
誰が、いつ実施判断をするかも決めていなかった。
予定表には載せた。
役目には、していなかった。
「見落としていました」
ライルは言った。
「予定へ書いたことで、進むものだと思っていました」
「今からでは」
「まず、間に合う条件を確かめます」
ゲオルグとヴェク、カイを呼び、北側の区画へ向かった。
泥は、水路の底へ厚く残っていた。
石の継ぎ目には、水が入り込んでいる。
初霜までは、早ければ四日。
すべての泥を上げるには、八人で二日。
だが、その八人は、北側二戸の刈り取りと、最後の官倉搬入に必要だった。
「刈り取りを一日ずらせば」
ロイドが言った。
「明日の晴れを逃します」
カイが答えた。
「その後は、雨になるかもしれません。麦を畑へ残す方が危ないです」
「水路を後にすれば」
「全部は、上げられません」
ゲオルグが言った。
「出口と、割れやすい継ぎ目だけなら、一日でできます」
ライルは、水路と畑を見比べた。
どちらも、後へ回せば失うものがある。
人手を増やせないか、近隣の家へ確かめた。
商会と契約した家も、官倉へ運ぶ家も、最後の刈り取りに入っている。
出せるのは、四人だけだった。
「刈り取りは、予定通り進めます」
ライルは言った。
「水路は、出口と継ぎ目を優先する。泥を全部上げるのは諦めます」
「北側の奥は、春に流れが悪くなるかもしれません」
ゲオルグが言った。
「はい」
「割れた場合は」
「雪解け前に補修します。必要な石と人足を、今のうちに見積もります」
「今年、全部やるとは言わないんですね」
「言えません」
ライルは答えた。
「全部を守るために、収穫を危険にさらすことはできません」
翌日、四人の人足が水路へ入った。
出口の泥を上げる。
水を抜き、割れやすい継ぎ目へ仮の詰め物をする。
北側の奥には、手を付けられなかった。
整備記録には、実施した場所を図で示した。
未実施区画。
凍結時の危険。
春先に必要となる確認。
できなかったことを、空欄にはしなかった。
夕刻。
ロイドが、収穫期全体の記録をまとめた帳面を持ってきた。
官倉の在庫。
商会との取引実績。
商務分家との取引実績。
隊商への引き渡し予定。
冬に必要な物資と、確保できた分の照らし合わせ。
多くの家で、冬を越す見通しが立っていた。
工具、塩、油。
麦だけでは得られないものも、去年よりは行き渡っている。
「自家消費へ回した三戸は」
ライルが尋ねた。
「売る当てがなかったのではありません」
ロイドが答えた。
「今年は売らないと、自分で決めた家です」
「そのように残してください」
「選んだ、と記します。売れなかった、とは書きません」
その区別は、この執務所が積み重ねてきたものだった。
「今年は、良い年だったと言えますか」
ロイドが尋ねた。
ライルは、すぐには答えなかった。
「大きくは、そうだと思います」
やがて言った。
「二十一戸すべてが、条件を知った上で行き先を決めた。冬を越す見通しも立った」
「ですが」
「全部を守れたわけではありません」
手帳を開く。
左側に、今年守れたものを並べた。
二十一戸すべての選択が決まったこと。
冬を越す見通しが立ったこと。
カイが、役目を途中で放り出さずに終えたこと。
商務分家との二十袋の取引を、確認手続きを増やした上で履行できたこと。
右側に、守れなかったものと、まだ守れたかわからないものを書いた。
水路北側の泥を、すべて上げられなかったこと。
受領札番号五十七の重複理由が、解けなかったこと。
あの方の名前を、まだ確認できていないこと。
「五十七と、あの方の件は、代償ですか」
ロイドが尋ねた。
「いいえ」
ライルは答えた。
「解けなかったことです。水路と同じ欄へ書いても、同じ種類にはしません」
その横へ、小さく区分を書き足した。
未実施。
未解明。
判断の結果。
調査の途中。
守れなかったものにも、違いがある。
「私の異論も、まだ帳面に残っています」
ロイドが言った。
「消しません」
「何事も起きなかったのに」
「何事も起きなかったことは、あなたの異論が不要だった証拠にはなりません」
ライルは答えた。
「次に同じ判断をする時、異論があったことも、立会いを増やしたことも必要です」
窓の外で、収穫の最後の荷車が、官倉へ向かう音がした。
北側の水路は、泥を残している。
だが、出口は開き、割れやすい継ぎ目には印が付いている。
春まで持つかは、まだわからない。
全部は、守れなかった。
それでも、何を守り、何を諦め、何がまだわからないのか。
その違いは、この机の上に残っている。
蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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