第四十八話「誰を、前に出すか」
着任百三十三日目。
商務分家への二十袋の引き渡しは、予定の日を過ぎていた。
契約を取りやめたわけではない。
五十七の受領札が二つ見つかったため、双方の合意で、本人確認が済むまで引き渡しだけを留保している。
麦は官倉の区画を分け、所有者ごとの封札を付けたまま保管されていた。
エーリク本人に、契約内容と署名を再確認してもらう。
支払い先と受領権限も、書状とは別の経路で確かめる。
五十七の重複が見つかった日に決めた方針だった。
朝、ロイドが日程案を持ってきた。
「先方の都合を聞いたところ、五日後、北の継立場で会えるそうです」
「立会人は」
ライルが尋ねた。
「継立場の管理人が、場所と時刻だけは記録すると答えています。ただ、契約の中身には関与しないと」
「それで構いません」
ロイドは、日程案を机へ置いた。
それでも、手を離さなかった。
「一つ、決める必要があります」
「誰が行くか、ですね」
「はい」
二十袋の搬出は、執務所とヴェクが担う。
各戸の収穫をまとめるカイの役目とは、役務書を作った時点で切り分けていた。
それでも、ライルの頭には一度、カイの顔が浮かんでいた。
収穫の日程を最もよく知っている。
商会、官倉、隊商の窓口とも話している。
継立場の近くまで行く荷車に、同乗させることもできる。
現場を知る者が一人いれば、話は早い。
「カイに、同行を頼む案も考えました」
ライルが言った。
「反対です」
ロイドは、間を置かずに答えた。
声に強さはなかった。
だが、はっきりしていた。
「理由を聞かせてください」
「カイさんの役目は、各戸の収穫と搬入の連絡です」
ロイドは、机の上の役務書を指した。
「契約書状の真偽や、商務分家の受領権限を確かめることではありません」
「現場の経緯を説明できる者がいた方が」
「早いと思います」
ロイドは言った。
「ですが、早いことと、正しい役割であることは別です」
ライルは、口を閉じた。
役務を定めた時、自分が言ったことだった。
保管済みの二十袋を引き渡す仕事と、畑から麦を集める仕事は別だと。
表の上で近くに並んでいるからといって、同じ役目にしてはいけないと。
それを、今度は自分が混ぜかけていた。
「もう一つあります」
ロイドは続けた。
「五十七の件と、ダグラスさんの証言が出た後です。何が危険なのかも、危険があるのかさえ、まだわかっていません」
「だからこそ、確かめます」
「確かめることには、反対していません」
ロイドは言った。
「わからないものへ、役務の外にいる村の人間を近づけることに反対しています」
ミラが、机の端で写しを取る手を止めていた。
「私にも、覚えがあります」
ロイドは、手元の帳面を見たまま言った。
「役目が曖昧なまま、都合のいい窓口として前に立たされたことがあります。断れば、仕事を放り出したことにされました」
それ以上は、語らなかった。
過去を持ち出して、情に訴える声ではなかった。
「あなたの異論は、記録します」
ライルは言った。
「その上で、聞かせてください。確認そのものも、止めるべきだと思いますか」
「今の方法のままなら、止めるべきです」
「方法を変えるなら」
「行政側の人間だけで行くべきです」
ロイドは答えた。
「契約を確かめるのは、執務所の仕事です」
「取引そのものは」
「五十七の異常だけで止める根拠は、まだありません」
ロイドは、少し間を置いた。
「ですが、本人確認が終わるまでは、二十袋を渡さない。今の留保は続けるべきです」
感情と判断を混ぜていない。
危険を感じている。
それでも、止める根拠と、止めない根拠を分けている。
「わかりました」
ライルは言った。
「確認は続けます。カイは同行させません」
「誰が行きますか」
「私が行きます」
ロイドが顔を上げた。
「一人で、という意味なら反対です」
「私が決めたことなので、私が一人で行く」
口にしかけた言葉を、ライルは止めた。
それもまた、責任と危険を混ぜる答えだった。
「続けてください」
ライルが言った。
「確認する者と、記録する者を分けます」
ロイドは答えた。
「調整官様が質問し、私が記録する。継立場の管理人には、到着と退出、同席者だけを証明してもらう」
「往復は」
「執務所の御者を付けます。行程と帰着予定を残します」
「その形なら」
ライルは頷いた。
「私と、あなたで行きます」
「私は、確認の続行に異論を残したまま同行します」
「構いません」
「反対した者を外すのではなく」
「反対したことを残した上で、記録者としてお願いします」
ロイドは、しばらく机の上を見ていた。
「わかりました」
「取引は続ける。ただし、本人確認が終わるまで引き渡さない。確認には行政側の者だけが行く」
ライルは、一つずつ言葉にした。
「決定したのは私です。判断の責任者も、私と記録してください」
「単独で責任を負う、としますか」
「いいえ」
ライルは答えた。
「責任を取ることと、一人で抱えることは違います。あなたの異論も、立会いの条件も、全部残してください」
ロイドの筆が、静かに動いた。
「責任者の名を曖昧にしない。それが、ここで私にできることです」
昼過ぎ、カイが呼ばれた。
「商務分家との二十袋の件ですが」
ライルは言った。
「本人確認は、私とロイドで行います」
「俺は」
「今年の集荷連絡役としての仕事を、これまで通りお願いします。この確認は、あなたの役目の外です」
カイは、少しの間、ライルを見ていた。
「俺を外す理由は」
「外すのではありません」
ライルは答えた。
「最初から、あなたへ頼むべき仕事ではありませんでした。現場を知っているからという理由で、役目を広げかけました」
「何か、危ないことがあるんですか」
「書状の受領経路に、確認できていない点があります」
ライルは言った。
「違法だと決まったわけではありません。ただ、行政が確かめるべきことです」
カイは頷いた。
「役目の外なら、聞きません」
そこで、少し考えた。
「ただ、集荷の日程に影響するなら、先に言ってください」
「必ず伝えます」
「それなら、構いません」
「畑と収穫の方を、お願いします」
「そちらは変わりません」
「無理な日があれば」
「先に言います」
カイは、いつも通りに答えた。
不満を飲み込んだ声ではなかった。
自分の仕事と、他人の仕事の境目を確認した声だった。
短く頭を下げ、部屋を出ていった。
夕刻。
ロイドが、今日の決定を清書した帳面を持ってきた。
四つの欄が並んでいた。
決定事項。
商務分家との契約確認を継続し、確認完了まで二十袋の引き渡しを留保する。
決定責任者。
ライル・フォン・ヴァルディス。
異論。
ロイド。集荷連絡役を確認業務へ同行させる案に反対。未知の危険と役務範囲の逸脱を理由とする。
実施条件。
確認者はライル、記録者はロイド。継立場管理人が入退場を記録し、執務所の御者を付ける。予定外の場所へ移動しない。
「これで、よろしいですか」
ロイドが尋ねた。
「はい」
「出発は、五日後」
「帰着予定も入れてください」
「入れてあります」
「異議は」
「残っています」
ロイドは答えた。
「ですが、決定後の記録を正確に取ることとは別です」
ライルは帳面を受け取り、確認の署名をした。
反対が消えたわけではない。
危険がなくなったわけでもない。
ただ、誰を前に出し、誰を出さないか。
その境目だけは、決まった。
窓の外では、カイからの集荷の報せが、いつも通り届いていた。
中央一戸、搬入完了。
北側二戸、刈り取りを二日後に変更。
理由、土の湿り。
畑は、今日も予定通りには進んでいない。
それでも、役目の順番は崩れていなかった。
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次回は明日19:10更新予定です。
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