第四十七話「続きを、話します」
着任百三十日目。
旧受領台帳の見直しは、まだ続いていた。
五十七の重複を見つけてから、四日が経っている。
ミラが、未使用のまま残っていた受領札の束を数え直す。
ヴェクが、古い年度の綴りを棚の奥から運び出す。
ロイドが、半券の欠番を一件ずつ確認していく。
同じ番号の重なりが、ほかにもないか。
商務分家の書状に対応する半券が、別の場所へ紛れていないか。
今のところ、どちらも見つかっていない。
地味な作業だった。
窓の外では、収穫の報せが今日も届いている。
カイの字は、相変わらず角ばっていた。
南側の集荷は終わり、中央の区画へ移った。
朝露で一日遅れた家があったが、畑の順番は崩れていない。
見直しを始めて三日目の昼過ぎ。
ヴェクが、一冊の綴りを手にしたまま動きを止めた。
「ロイドさん。これ」
綴りの中央だけが、不自然に薄い。
糸で綴じた背には、紙を引き抜いた跡が残っていた。
「何枚、抜けていますか」
ミラが尋ねた。
「前後を確かめます」
ロイドが、残っている頁の日付を追う。
途中には、切れた糸と、紙の端だけが挟まっていた。
「二十枚近くです。記録の日付でいえば、およそ二年分」
「最初から綴じられていなかった可能性は」
ライルが尋ねた。
ロイドは、背の部分を確かめた。
「低いと思います。ここだけ糸が切られています。紙の端も残っています」
「破られたのか、切り取られたのか」
「両方です」
ヴェクが言った。
「最初に糸を切って、急いで引き抜いたように見えます」
ライルは、綴りを机へ置いた。
「時期は」
「前後の日付から見て、七、八年ほど前です」
ロイドが答えた。
人口が目に見えて減り始めるより前。
税の帳尻だけが、不自然に揃い始める頃。
今まで調べてきた異常の、始まりに近い時期だった。
「欠落の前は、誰が書いていますか」
ライルが尋ねた。
ロイドが、直前の頁を開く。
日付。
受領した書状の差出人。
確認者。
訂正の理由。
誤記は塗り潰さず、一本の線を引き、横へ正しい内容を書き足してある。
「几帳面ですね」
ミラが、覗き込んで言った。
「今の保全記録に、少し似ています」
「考え方は同じです」
ロイドが言った。
「訂正を消さない。確認できないことは、空欄のままにせず、確認できずと書く」
「欠落の後は」
続きの頁を開く。
日付だけの走り書き。
差出人の名が抜けた記録。
確認者の欄は、空白のままだった。
筆跡も違う。
「同じ人間が書いたものではありません」
ロイドが言った。
「誰かが、以前にも、後から確かめられる記録を作ろうとしていた」
ライルは、欠けた箇所へ指を置いた。
「そして、その途中が抜き取られた」
ミラが、五十七の確認帳を見た。
「五十七の件と、つながりますか」
「今の時点では、つなげません」
ライルは答えた。
「五十七が二つあるのは、半年前と先月の書状です。この欠落は、七、八年前。時期が違います」
「では、別の話ですか」
「同じ原因かもしれない。別の原因かもしれない」
ライルは言った。
「今わかったのは、この執務所では以前にも、記録が途中から失われている。それだけです」
似ているからといって、同じものにしてはいけない。
五十七の異常は、五十七の異常。
欠けた二年は、欠けた二年。
並べて残すことはできる。
だが、線を引くのは、線を引ける事実が出てからだった。
午後、ダグラスが呼ばれた。
ライルは、綴りを机に置いた。
「この頁が、なぜ欠けているか、ご存じですか」
ダグラスは、綴りを見た。
切れた糸。
残された紙の端。
その顔から、わずかに血の気が引いた。
長い間、何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと息を吸った。
「知っています」
その一言に、部屋の空気が変わった。
ロイドの筆が、動き始める。
「以前、あなたはこう言いました」
ライルは、証言の控えを開いた。
「断った者がどうなるかを、私は知っていました。前任調整官の前任者が——そこで、言葉が止まりました」
ダグラスは、目を伏せた。
「続きを、話します」
少しの間を置いて、口を開いた。
「前任調整官様より前に、ガルダへ赴任していた方がいました」
「名前は」
「あの方、と呼ばせてください」
ダグラスは答えた。
「名前は、まだ言えません」
「理由を聞かせてください」
「名前を口にすれば、あの方だけではなく、当時あの方と関わった者まで特定されます」
「今も、危険があると」
「わかりません」
ダグラスは言った。
「ですが、ないとも言えません」
ライルは、すぐには答えなかった。
「名前を伏せた証言では、人物を確認できません」
「わかっています」
「今日は、証言者が氏名の開示を保留したと、そのまま記録します」
ライルは言った。
「ただし、監査室から人物の特定を求められた場合は、必要になります。その時は、私とロイドだけが確認する封書にしてください」
ダグラスは、しばらく考えた。
「わかりました」
「今は、経緯を聞きます」
ダグラスは頷いた。
「あの方は、水路と税の記録がおかしいことに、早くから気づいていました」
欠落の直前の頁へ目を向ける。
「今、あなた方がしているように、日付と確認者を残し、訂正を消さないやり方を始めたのも、あの方です」
「この綴りを書いたのは」
「はい。あの方です」
「何を確かめようとしていたんですか」
「水路の修繕費と、土地の移動。それから、税として集めた穀物の行き先です」
ダグラスは答えた。
「詳しい中身までは、私にはわかりません。当時の私は下働きで、帳面を運ぶことしかしていませんでした」
「この頁がなくなった時のことは」
「覚えています」
ダグラスの声が低くなった。
「あの方は、帝都へ報告を送る準備をしていました。机の上に、写しと綴りを置いていました」
「送り終えたのですか」
「送った、と聞きました。私が使者へ渡したわけではありません」
「直接確認したことではない」
「はい」
ロイドの筆が、その言葉も残す。
「その数日後です」
ダグラスは続けた。
「朝、執務所へ来ると、机から報告書の写しが消えていました。この綴りも、今の形になっていました」
「誰が持ち出したかは」
「見ていません」
「棚や扉に、壊された跡は」
「ありませんでした」
「鍵を持っていた者は」
「当時の調整官と、書記役。それから、管理を任されていた者です」
「名前は」
「その一覧は、人事綴りに残っているはずです」
ロイドが、別の棚から当時の人事綴りを持ってきた。
赴任日。
担当者。
異動日。
その中で、前任調整官の前任者に当たる一行だけは、終わり方が違っていた。
——病没。
それだけだった。
日付はある。
確認者の名はない。
「この記載は、誰が書いたものですか」
ライルが尋ねた。
ロイドが筆跡を見比べる。
「欠落後の受領記録と、同じ筆跡に見えます」
「断定は」
「できません。筆跡を比べただけです」
ダグラスが、机の一点を見つめた。
「あの方は、報告を送ろうとした後、執務所へ来なくなりました」
「病を得たと」
「そう聞かされました」
「亡くなったところを、見ましたか」
「見ていません」
「医師の記録や、埋葬の記録は」
「私は、見ていません」
ダグラスは、はっきりと言った。
「一月も経たないうちに、病で亡くなったと伝えられただけです」
「病死ではなかったと思いますか」
「わかりません」
ダグラスは繰り返した。
「早すぎたとは思っています。ですが、わからないことを、わかったことにはできません」
それは、この執務所が積み重ねてきた作法そのものだった。
「断った者がどうなるかを、私は知っていました」
ダグラスは、ようやく最初の一文を最後まで言った。
「正しく言えば、知っていたのではありません。あの方に起きたことを見て、自分も同じ目に遭うと思った」
声が、わずかに震えた。
「その後、前任調整官様の代になり、私は、言われた通りに動くようになりました。止めることも、尋ねることも、しませんでした」
ロイドの筆が、止まらずに動いていた。
「一つ、聞かせてください」
ライルが言った。
「なぜ、今日、話す気になったんですか」
「以前、証言した時から、ずっと考えていました」
「何をですか」
「知っていて黙ることと、確かめようとしないことは、同じではないかと」
ダグラスは、欠けた綴りを見た。
「あの頁が見つかったのに、また黙れば、私は前と同じことをします」
「これで、全部ですか」
「全部ではありません」
ダグラスは答えた。
「ですが、今、名前を伏せて話せることは、これで全部です」
「わかりました」
ライルは、綴りを閉じた。
「今日話した内容と、直接見たこと、聞いただけのことを分けて記録します。異議はありますか」
「ありません」
「名前の開示を保留したことも」
「残してください」
ダグラスは、証言記録を読み返した。
直接確認したこと。
他者から聞いたこと。
自分がそう考えたこと。
三つが、別の欄に分けられている。
末尾へ署名し、静かに頭を下げて退出した。
夕刻。
ロイドが、証言記録と欠落した綴りを机へ並べた。
「監査室へ、追加報告しますか」
「します」
ライルは答えた。
「欠落した原本と、人物を特定しない証言が得られたこと。氏名は証言者が保留していること。病没の記載に確認者がないこと」
「推測は」
「入れません」
「五十七との関係も」
「書きません。今は、別々の異常です」
欠けた綴りは、元の棚へ戻さない。
現在の保全番号を振り、欠けた状態を図にして残す。
証言記録とは別々に封じ、相互参照だけを付ける。
「欠けた部分を、写しで埋めることはできませんね」
ミラが言った。
「埋めない方がいい欠落もあります」
ライルは答えた。
「なくなっていること自体が、今残っている事実です」
一人になった執務所で、ライルは、欠落直前の頁の写しをもう一度開いた。
几帳面な字が、ある日を境に途切れている。
誰かが、今この執務所でやっていることを、七、八年も前に始めていた。
一人で始めたのか。
誰かと進めていたのか。
それさえ、まだわからない。
ただ、続けられなかったことだけは、紙の切れ目として残っていた。
自分がここで作ったものも、自分がいなくなれば途切れるかもしれない。
その考えが、胸の奥に冷たく残った。
だから、人へ渡している。
ロイドへ。
ヴェクへ。
ミラへ。
カイへ。
一人が消えても、全部が消えないように。
ライルは、手帳に一行だけ書いた。
——あの方。氏名は、まだ確認できず。
窓の外は、とうに暗くなっていた。
収穫はまだ半ばで、明日もカイからの報せが届く。
畑の順番と、書類の順番。
どちらも、まだ途切れていない。
蝋燭を消した。
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次回は明日19:10更新予定です。
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