第四十五話「禁じない、という答え」
着任百二十日目。
朝から、執務所に人が来ていた。
ゲオルグと、ニルス。
それに、売り先をまだ決めていない家から二人。
「お願いがあります」
ゲオルグが言った。
「商会の申し出を、止めてもらえませんか」
「止める、というのは」
「前払い契約です。ヴォルツさんが、また新しく声をかけて回っています」
「現在示されている条件だけを理由に、契約を禁じることはできません」
ライルは答えた。
「比較表に載せた内容と同じで、担保も取らない。収穫不足の扱いも書かれている。少なくとも、今の契約書だけを見れば違法とは言えません」
「わかっています」
ゲオルグは言った。
「ですが、あの人が土地を奪った人間だということも、皆、知っています」
ニルスの表情が固くなる。
「未定だった家のうち、三戸が、今週また声をかけられたそうです」
ゲオルグは続けた。
「前より条件がよくなっている、とも聞きました」
「前払いの額が増えた、と」
「はい。ただ、確かめてはいません」
ゲオルグは、そこは正直に答えた。
「聞いた話です」
「その点は、執務所で確認します」
ライルは言った。
「今日の申し出は、伝聞として記録します。事実としてではありません」
ニルスが、一歩前に出た。
「監査室が、まだ調べています」
ニルスは言った。
「結論が出るまで、あの人に新しい契約をさせないでほしい」
「その理由では、禁じられません」
ライルは、はっきりと答えた。
「疑われていることと、違法だと決まったことは違います。結論が出ていないことを理由に合法な取引を止めれば、同じやり方で、今度は別の誰かの取引も止められます」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
「納得できません」
ニルスが言った。
「わかります」
「わかるだけですか」
「今、私にできるのは、禁じることではありません」
ライルは言った。
「現在の条件を、公の場で本人に確認させることです。過去の件は、監査室の判断を先取りしない範囲で、本人が答える意思のあることだけを記録します」
「本人が来なければ」
「来なかったことを、不利な事実としては扱いません」
ライルは答えた。
「参加は任意です。ですが、今後も村で契約を続けるなら、自分の条件を自分の言葉で説明する機会にはなります」
ゲオルグが、少し考えてから言った。
「それなら」
「場所は、水路前にします」
ライルは言った。
「誰でも来られる場所で。記録役も置きます」
ニルスは、何も言わなかった。
ただ、頷いた。
五日後。
水路前に、人が集まった。
説明会の時ほどではないが、二十名を超えていた。
公開確認会を始める前に、ロイドが三つのことを読み上げた。
今日の場は、監査の結論を出す場ではないこと。
ヴォルツの出席は任意であり、答えないことだけを理由に不利益を与えないこと。
個人の契約内容は、本人の同意なく読み上げないこと。
ニルスは、自分の土地に関わることについては名前を出してよいと、事前に署名していた。
ロイドとミラが、記録の場所に机を出す。
カイも、少し離れた場所に立っていた。
収穫の合間を縫って来たのか、まだ土のついた手をしている。
誰かに呼ばれたわけではなかった。
集荷連絡役として、皆がどう売り先を選ぶのか、自分の目で見ておきたかった。
ヴォルツが来た。
がっしりした体格。
よく手入れされた上着。
光を抑えた金の留め具。
笑顔は、変わらず自然だった。
「お招きにあずかり、光栄です」
ヴォルツは、集まった人々を見渡した。
「今日は、現在の契約条件について説明すればよろしいのでしょうか」
「それが中心です」
ライルが言った。
「その前に、ニルスさん本人の同意を得た上で、三年前の管理委託について一つ確認します」
「私は、法に反したことをしたとは考えていません」
ヴォルツは、間を置かずに答えた。
「当時の商慣行に従い、署名のある書類を用いて手続きをしました。監査室が調べている以上、ここで違法だったと認めることはできません」
「違法だったとは、認めない」
「はい」
ヴォルツは、少し声を落とした。
「ただ——今も同じやり方をするかと聞かれれば、しません」
小さなざわめきが起きた。
完全な否定でも、謝罪でもなかった。
「理由は」
ライルが尋ねた。
「書類に署名をもらうだけでは、相手が理解したことにはならないと、今は知っているからです」
その言葉に、ニルスが顔を上げた。
ロイドが、個人名を伏せた別帳の写しを掲げた。
「管理委託から農地移動へ至った記録は、十五件あります。そのうち、ニルスさんの件について、取引そのものを否定しますか」
「否定しません」
ヴォルツは答えた。
「書類は作られ、名義は移りました。不当だったかどうかは、監査室の判断を待ちます」
「その土地は、俺のものだった」
ニルスが前へ出た。
「契約書には、あなたの署名がありました」
ヴォルツは静かに答えた。
「急かされて、内容を全部は確認できなかった」
「当時の私は、それでも署名があれば足りると考えていました」
ヴォルツの声は、冷たくはなかった。
だが、責任を引き受ける言葉でもなかった。
「今なら、違うと」
「今なら、説明の記録を残します」
「土地を返すとは言わないんですね」
「それは、私一人がここで決めることではありません」
ニルスは拳を握った。
それでも、言葉を重ねなかった。
場が静まる。
「現在の申し出について確認します」
ライルが話を進めた。
「次回収穫分を対象にした、前払い契約です。実際に助かった家もあります」
「ベンノさんの屋根は、直りました」
ヴォルツが言った。
「私は、それをよかったと思っています」
その時、オットーが手を挙げた。
「私からも、言わせてください」
白髪の目立つ、老いた農民だった。
「五年前、不作の年に、私はヴォルツさんから種麦を用立ててもらいました」
「利息はつきました」
オットーは続けた。
「あの年、種がなければ、翌年の作付けができませんでした。それで、うちは残りました」
「恩は、恩です」
オットーは、はっきりと言った。
「ニルスに起きたことを正しいとは思いません。それでも、私が助けられたことも本当です」
ヴォルツは、何も言わなかった。
ただ、小さく頭を下げた。
「オットーさんは、今回の契約を」
ライルが尋ねた。
「まだ決めていません」
オットーは答えた。
「恩があることと、今の条件が私に合うことは別ですから」
ヴォルツは、その言葉に口を挟まなかった。
「同じ人間が」
村の誰かが言った。
「良いことも、悪いこともするんですか」
「行為ごとに見ます」
ライルが答えた。
「過去の疑いは、監査室が調べています。今の契約が合法である限り、過去の疑いだけを理由に禁じることはできません」
「それでも」
ニルスが、もう一度口を開いた。
「納得は、していません」
「納得しなくても構いません」
ライルは言った。
「納得することと、選ぶことは別です。選ぶのは、皆さんです」
ヴォルツが、集まった人々を見渡した。
「私は条件を出します」
ヴォルツは言った。
「選ぶかどうかは、それぞれのお宅で決めてください」
「一つ、聞いてもいいですか」
別の農家が手を挙げた。
「前より前払い額を増やした家がある、と聞きました」
「一袋あたりの額は、変えていません」
ヴォルツは即答した。
「収穫見込みが多い家には、総額として多く渡しています。それを、条件が違うと受け取ったのかもしれません」
「確かめても」
「いつでも、どうぞ」
ロイドが、その場に提出された契約控えを三件取り出した。
個人名を伏せ、一袋あたりの前払い額、履行方法、担保の有無、収穫不足時の扱いを読み合わせる。
いずれも、比較表と一致していた。
「一袋あたりの条件は同じです」
ロイドが言った。
「総額の差は、契約予定袋数の差です」
ゲオルグが、ゆっくり息を吐いた。
聞いた話と、確かめた事実が、そこで初めて分かれた。
「急がせますか」
誰かが尋ねた。
「急ぐ必要はないと思いますよ」
ヴォルツは、笑みを崩さずに答えた。
「良い条件なら、急がせなくても選ばれるはずですから」
それだけ言って、一礼した。
帰り際、ヴォルツはライルの前を通り過ぎた。
「監査室の判断が出るまで、私は今の形で続けます」
小さく、そう言い残した。
「それが、あなたの答えですね」
「はい」
場が散っていく。
未定だった家のうち、二戸がその場でヴォルツに声をかけ、契約書を見せてほしいと頼んでいた。
ライルは、その光景を見ていた。
胸の奥に、わずかな苦さが残る。
公開の場を設ければ、ヴォルツを選ぶ者が減るとは限らない。
正しい情報を並べることは、望む答えへ人を導くことではなかった。
わかっていたはずのことを、目の前で改めて見せられた。
それでも、止めようとは思わなかった。
ニルスは、何も言わずに水路のほうへ歩いていった。
ゲオルグが、その背中を見送る。
「割れましたね」
ゲオルグが言った。
「割れて当然です」
ライルは答えた。
「同じ過去を持つ人間は、一人もいません」
カイが、離れた場所から歩み寄ってきた。
「決着は、つかないんですか」
「今日は、決着をつける場ではありません」
ライルは答えた。
「あの人を追い出せば終わる話なら、とっくに終わっています」
「終わらない、と」
「良い条件が、これからも同じ条件のまま履行されるか。それを見ます」
ロイドとミラが、記録を閉じていた。
「今日の記録、これで全部ですか」
ミラが尋ねた。
「全部です」
ロイドは答えた。
「意見が割れたなら、割れたまま残します。揃ったことにしてはいけません」
水路の水音が、遠くから聞こえていた。
誰かが勝ち、誰かが負けた日ではなかった。
禁じないことも、行政の答えの一つだった。
そして、その答えが正しかったかどうかは、これからの履行によって確かめられる。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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