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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第六章:帝国の闇に、触れる

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第四十五話「禁じない、という答え」

 着任百二十日目。


 朝から、執務所に人が来ていた。


 ゲオルグと、ニルス。


 それに、売り先をまだ決めていない家から二人。


「お願いがあります」


 ゲオルグが言った。


「商会の申し出を、止めてもらえませんか」


「止める、というのは」


「前払い契約です。ヴォルツさんが、また新しく声をかけて回っています」


「現在示されている条件だけを理由に、契約を禁じることはできません」


 ライルは答えた。


「比較表に載せた内容と同じで、担保も取らない。収穫不足の扱いも書かれている。少なくとも、今の契約書だけを見れば違法とは言えません」


「わかっています」


 ゲオルグは言った。


「ですが、あの人が土地を奪った人間だということも、皆、知っています」


 ニルスの表情が固くなる。


「未定だった家のうち、三戸が、今週また声をかけられたそうです」


 ゲオルグは続けた。


「前より条件がよくなっている、とも聞きました」


「前払いの額が増えた、と」


「はい。ただ、確かめてはいません」


 ゲオルグは、そこは正直に答えた。


「聞いた話です」


「その点は、執務所で確認します」


 ライルは言った。


「今日の申し出は、伝聞として記録します。事実としてではありません」


 ニルスが、一歩前に出た。


「監査室が、まだ調べています」


 ニルスは言った。


「結論が出るまで、あの人に新しい契約をさせないでほしい」


「その理由では、禁じられません」


 ライルは、はっきりと答えた。


「疑われていることと、違法だと決まったことは違います。結論が出ていないことを理由に合法な取引を止めれば、同じやり方で、今度は別の誰かの取引も止められます」


 部屋の中に、沈黙が落ちた。


「納得できません」


 ニルスが言った。


「わかります」


「わかるだけですか」


「今、私にできるのは、禁じることではありません」


 ライルは言った。


「現在の条件を、公の場で本人に確認させることです。過去の件は、監査室の判断を先取りしない範囲で、本人が答える意思のあることだけを記録します」


「本人が来なければ」


「来なかったことを、不利な事実としては扱いません」


 ライルは答えた。


「参加は任意です。ですが、今後も村で契約を続けるなら、自分の条件を自分の言葉で説明する機会にはなります」


 ゲオルグが、少し考えてから言った。


「それなら」


「場所は、水路前にします」


 ライルは言った。


「誰でも来られる場所で。記録役も置きます」


 ニルスは、何も言わなかった。


 ただ、頷いた。


 五日後。


 水路前に、人が集まった。


 説明会の時ほどではないが、二十名を超えていた。


 公開確認会を始める前に、ロイドが三つのことを読み上げた。


 今日の場は、監査の結論を出す場ではないこと。


 ヴォルツの出席は任意であり、答えないことだけを理由に不利益を与えないこと。


 個人の契約内容は、本人の同意なく読み上げないこと。


 ニルスは、自分の土地に関わることについては名前を出してよいと、事前に署名していた。


 ロイドとミラが、記録の場所に机を出す。


 カイも、少し離れた場所に立っていた。


 収穫の合間を縫って来たのか、まだ土のついた手をしている。


 誰かに呼ばれたわけではなかった。


 集荷連絡役として、皆がどう売り先を選ぶのか、自分の目で見ておきたかった。


 ヴォルツが来た。


 がっしりした体格。


 よく手入れされた上着。


 光を抑えた金の留め具。


 笑顔は、変わらず自然だった。


「お招きにあずかり、光栄です」


 ヴォルツは、集まった人々を見渡した。


「今日は、現在の契約条件について説明すればよろしいのでしょうか」


「それが中心です」


 ライルが言った。


「その前に、ニルスさん本人の同意を得た上で、三年前の管理委託について一つ確認します」


「私は、法に反したことをしたとは考えていません」


 ヴォルツは、間を置かずに答えた。


「当時の商慣行に従い、署名のある書類を用いて手続きをしました。監査室が調べている以上、ここで違法だったと認めることはできません」


「違法だったとは、認めない」


「はい」


 ヴォルツは、少し声を落とした。


「ただ——今も同じやり方をするかと聞かれれば、しません」


 小さなざわめきが起きた。


 完全な否定でも、謝罪でもなかった。


「理由は」


 ライルが尋ねた。


「書類に署名をもらうだけでは、相手が理解したことにはならないと、今は知っているからです」


 その言葉に、ニルスが顔を上げた。


 ロイドが、個人名を伏せた別帳の写しを掲げた。


「管理委託から農地移動へ至った記録は、十五件あります。そのうち、ニルスさんの件について、取引そのものを否定しますか」


「否定しません」


 ヴォルツは答えた。


「書類は作られ、名義は移りました。不当だったかどうかは、監査室の判断を待ちます」


「その土地は、俺のものだった」


 ニルスが前へ出た。


「契約書には、あなたの署名がありました」


 ヴォルツは静かに答えた。


「急かされて、内容を全部は確認できなかった」


「当時の私は、それでも署名があれば足りると考えていました」


 ヴォルツの声は、冷たくはなかった。


 だが、責任を引き受ける言葉でもなかった。


「今なら、違うと」


「今なら、説明の記録を残します」


「土地を返すとは言わないんですね」


「それは、私一人がここで決めることではありません」


 ニルスは拳を握った。


 それでも、言葉を重ねなかった。


 場が静まる。


「現在の申し出について確認します」


 ライルが話を進めた。


「次回収穫分を対象にした、前払い契約です。実際に助かった家もあります」


「ベンノさんの屋根は、直りました」


 ヴォルツが言った。


「私は、それをよかったと思っています」


 その時、オットーが手を挙げた。


「私からも、言わせてください」


 白髪の目立つ、老いた農民だった。


「五年前、不作の年に、私はヴォルツさんから種麦を用立ててもらいました」


「利息はつきました」


 オットーは続けた。


「あの年、種がなければ、翌年の作付けができませんでした。それで、うちは残りました」


「恩は、恩です」


 オットーは、はっきりと言った。


「ニルスに起きたことを正しいとは思いません。それでも、私が助けられたことも本当です」


 ヴォルツは、何も言わなかった。


 ただ、小さく頭を下げた。


「オットーさんは、今回の契約を」


 ライルが尋ねた。


「まだ決めていません」


 オットーは答えた。


「恩があることと、今の条件が私に合うことは別ですから」


 ヴォルツは、その言葉に口を挟まなかった。


「同じ人間が」


 村の誰かが言った。


「良いことも、悪いこともするんですか」


「行為ごとに見ます」


 ライルが答えた。


「過去の疑いは、監査室が調べています。今の契約が合法である限り、過去の疑いだけを理由に禁じることはできません」


「それでも」


 ニルスが、もう一度口を開いた。


「納得は、していません」


「納得しなくても構いません」


 ライルは言った。


「納得することと、選ぶことは別です。選ぶのは、皆さんです」


 ヴォルツが、集まった人々を見渡した。


「私は条件を出します」


 ヴォルツは言った。


「選ぶかどうかは、それぞれのお宅で決めてください」


「一つ、聞いてもいいですか」


 別の農家が手を挙げた。


「前より前払い額を増やした家がある、と聞きました」


「一袋あたりの額は、変えていません」


 ヴォルツは即答した。


「収穫見込みが多い家には、総額として多く渡しています。それを、条件が違うと受け取ったのかもしれません」


「確かめても」


「いつでも、どうぞ」


 ロイドが、その場に提出された契約控えを三件取り出した。


 個人名を伏せ、一袋あたりの前払い額、履行方法、担保の有無、収穫不足時の扱いを読み合わせる。


 いずれも、比較表と一致していた。


「一袋あたりの条件は同じです」


 ロイドが言った。


「総額の差は、契約予定袋数の差です」


 ゲオルグが、ゆっくり息を吐いた。


 聞いた話と、確かめた事実が、そこで初めて分かれた。


「急がせますか」


 誰かが尋ねた。


「急ぐ必要はないと思いますよ」


 ヴォルツは、笑みを崩さずに答えた。


「良い条件なら、急がせなくても選ばれるはずですから」


 それだけ言って、一礼した。


 帰り際、ヴォルツはライルの前を通り過ぎた。


「監査室の判断が出るまで、私は今の形で続けます」


 小さく、そう言い残した。


「それが、あなたの答えですね」


「はい」


 場が散っていく。


 未定だった家のうち、二戸がその場でヴォルツに声をかけ、契約書を見せてほしいと頼んでいた。


 ライルは、その光景を見ていた。


 胸の奥に、わずかな苦さが残る。


 公開の場を設ければ、ヴォルツを選ぶ者が減るとは限らない。


 正しい情報を並べることは、望む答えへ人を導くことではなかった。


 わかっていたはずのことを、目の前で改めて見せられた。


 それでも、止めようとは思わなかった。


 ニルスは、何も言わずに水路のほうへ歩いていった。


 ゲオルグが、その背中を見送る。


「割れましたね」


 ゲオルグが言った。


「割れて当然です」


 ライルは答えた。


「同じ過去を持つ人間は、一人もいません」


 カイが、離れた場所から歩み寄ってきた。


「決着は、つかないんですか」


「今日は、決着をつける場ではありません」


 ライルは答えた。


「あの人を追い出せば終わる話なら、とっくに終わっています」


「終わらない、と」


「良い条件が、これからも同じ条件のまま履行されるか。それを見ます」


 ロイドとミラが、記録を閉じていた。


「今日の記録、これで全部ですか」


 ミラが尋ねた。


「全部です」


 ロイドは答えた。


「意見が割れたなら、割れたまま残します。揃ったことにしてはいけません」


 水路の水音が、遠くから聞こえていた。


 誰かが勝ち、誰かが負けた日ではなかった。


 禁じないことも、行政の答えの一つだった。


 そして、その答えが正しかったかどうかは、これからの履行によって確かめられる。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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