第四十四話「俺にも、順番があります」
着任百十三日目。
カイは、その日も畑にいた。
昨日も、その前の日も。
執務所へは、まだ来ていない。
ライルは急かさなかった。
「考えます」
その言葉を、そのまま受け取ることにした。
一日目、カイは自分の畑を歩いた。
麦の穂を指でつまみ、硬さを確かめる。
まだ早い。
あと十日ほどか、と見当をつけた。
二日目、ゲオルグの畑へ足を向けた。
「収穫の話か」
ゲオルグが言った。
「うちは北側だ。低い土地だから、いつも乾くのが遅い」
「今年も」
「変わらんはずだ」
三日目、ニルスの畑を見た。
水路の終端に近い、あの畑だった。
「うちは真ん中あたりだ」
ニルスが言った。
「乾く早さは、去年と同じくらいだと思う」
四日目、ベンノの畑の前を通りかかった。
商会と前払い契約を結んだ畑だった。
「お前も、集荷の話か」
ベンノが声をかけた。
「まだ、引き受けるとは決めていない」
カイは答えた。
「商会に売る家も、官倉に置く家も、まだ決めていない家も、同じ収穫の中で動く。それで本当に回るのか、確かめている」
「別に、構わない」
ベンノは言った。
「売り先が違っても、刈る畑は同じ畑だ」
カイは、それ以上は聞かなかった。
ただ、聞いたことを頭に入れて帰った。
四日目の夕方。
カイが執務所へ来た。
畑の土がついたままの手だった。
「収穫の予定を、見てきました」
「はい」
「自分の畑だけじゃありません。近くの家も、何軒か回りました」
ライルは頷いた。
「それで」
「引き受けます」
短く、それだけ言った。
ダグラスが、各戸への通知文の書式をすでに用意していた。
「集荷日と搬入先を、後から書き込めるようにしてあります」
「日程が決まってから使います」
ロイドが、日程案を机に広げた。
各戸の刈り取り予定日。
次回収穫分を官倉へ搬入する日。
商会と前払い契約を結んだ家の引き渡し期限。
それに、すでに官倉にある二十袋を、商務分家へ渡す日。
一枚の表にまとめてある。
ミラが、その隣で写しを取っていた。
カイは、表を一通り見た。
黙って見ていた時間は、短くなかった。
「これは、無理です」
最初に、そう言った。
「どこがですか」
「全部の家が、同じ日に刈り取れるわけじゃありません」
カイは、表の日付を指でなぞった。
「水路の時と同じです」
「水路の」
「先に抜くところと、後で抜くところがありました。土台の固さと、水の流れ方で、順番が決まっていました」
ライルは黙って聞いた。
「畑も同じです。日当たりのいい畑と、悪い畑では、乾き方が違います。低いところの土は、長く湿ったままです」
「乾き方が違えば」
「刈る時期がずれます。無理に合わせれば、早すぎる麦を刈るか、遅れて傷んだ麦を刈るかのどちらかです」
カイは、表の別の欄を指した。
「それに、この日程だと、刈り取りと運び出しが同じ日に重なっています」
「集積の効率を考えました」
ロイドが答えた。
「効率は、わかります」
カイは言った。
「ですが、刈り取りにも人手が要ります。うちの村では、同じ家が同じ日に、刈ることと運ぶことの両方はできません」
さらに、三か所の日付を順に指した。
「この三日は、各戸から官倉と商会へ運ぶ日が、商務分家へ二十袋を出す日と重なっています」
「集荷連絡は、あなた一人で担う想定です」
「どこまでを、ですか」
カイは表から目を上げた。
「二十一戸の予定を聞く。刈り取りを見に行く。官倉と商会への人手を合わせる。その上、官倉から商務分家へ出す荷車まで俺が合わせるなら、どこかが抜けます」
その言葉に、間があった。
ライルは、カイが示した箇所を順に見直した。
期限は書かれている。
戸数も、搬入先も書かれている。
だが、畑ごとの乾き方と、家ごとの人手は書かれていなかった。
「去年までの記録と、今年の引き渡し期限から組みました」
ライルは言った。
「三つの売り先が並ぶことも、考えに入れたつもりでした」
「畑のことは、机の上ではわかりません」
「そうですね」
否定はできなかった。
表の中に数字は揃っていた。
揃っていたからこそ、足りないものを見落とした。
ライルは表を裏返し、白紙の面を出した。
「もう一度、組み直します。今度は、あなたが見てきたことから」
「俺が」
「刈り取りの順番を、先に聞かせてください。日当たり、水はけ、家ごとの人手。その後で、集積日を決めます」
カイは少し考えてから、話し始めた。
最初は、南側の乾きやすい畑。
次に、中央の区画。
その後に、東側の日当たりの弱い畑。
最後に、北側の低い土地。
水路の工事順とは違う並びだったが、理由は同じ種類のものだった。
先に動かさなければならない場所があり、待たなければならない場所がある。
ロイドが記録しながら、途中で手を止めた。
「これだと、南側の搬入が一時に集中します」
「南側は、乾くのが早い代わりに、傷み始めるのも早いです」
カイが答えた。
「後回しにはできません」
「商会への引き渡し期限は」
ライルが尋ねた。
「動かせますか」
「一律には動かせません」
ロイドが答えた。
「ですが、期限の中に三日から五日ほどの幅があるはずです。契約ごとに確認します」
「聞いてください」
ライルは言った。
「商務分家へ出す二十袋は、各戸の集荷とは分けます。官倉からの搬出は、ヴェクと執務所で人足を組んでください」
「カイさんの役目から、外すんですね」
ミラが尋ねた。
「畑から集める仕事と、保管済みの麦を引き渡す仕事は別です」
ライルは答えた。
「一枚の表に並べたために、同じ仕事のように扱っていました」
自分で作った表の区切りが、現場の役割まで曖昧にしていた。
「商会の期限に幅があれば、畑の順番に合わせられます」
その日のうちに、ゲオルグとニルスが呼ばれた。
二人の見立ては、カイの話とほぼ一致した。
ロイドが日程を組み直す。
南側から始め、区画ごとに数日ずつずらす。
商会への引き渡しは、その幅の中で調整する。
商務分家へ渡す二十袋は、各戸の刈り取りが少ない日に、官倉からまとめて出す。
ヴェクは、搬出人足の割り振り表を作り直し、集積日ごとに必要な人数を書き足した。
「刈り取りと運び出しが、同じ家の同じ日に重ならないようにしました」
「人手が足りない日は」
ロイドが尋ねた。
「近くの家に声をかけます」
カイは答えた。
「水路の時と同じです。足りないところへ、声をかける」
「それでも足りない時は、執務所から臨時人足を出します」
ライルが言った。
「集荷連絡役に、一人で埋めさせる仕事ではありません」
カイは、わずかに目を上げた。
ライルは、新しい役務書を机に置いた。
「期間は、最初の刈り取りから、最後の搬出が終わるまで。日当は、執務所の臨時役務基準に従って、動いた日ごとに支払います」
カイが黙って読む。
「あなたが決めてよいのは、連絡の順番と、人手の相談までです。売り先、価格、契約条件は決めない。変更が必要な時は、本人と執務所へ戻す」
「畑を優先します」
「構いません」
「自分の刈り取りと重なった日は、そちらを先にします」
「その日は、前日までに知らせてください。代わりを出します」
「無理な日は、先に言います」
カイは即答した。
「無理を黙って抱えると、あとで誰かにしわ寄せがいきます」
ミラが、その言葉を書き足した。
「役目の名前は」
「集荷連絡役、とします」
ライルは言った。
「必要なら、後で変えます」
「今は、それで十分です」
カイは役務書の末尾に署名した。
その字は、まだ大きく、少し傾いていた。
だが、迷いはなかった。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「途中で放り出したくない、と言いました」
「覚えています」
「無理な日程を、無理なまま引き受ければ、途中で放り出すことになります。だから、先に言いました」
「それが、あなたの引き受け方なんですね」
カイは、それには答えなかった。
ただ、小さく頭を下げて出ていった。
夕刻。
水路沿いを、カイが歩いていた。
流れる水の音は、今日も変わらない。
三年前、ここは土砂で埋まっていた。
出口側から先に開けた。
土台を固めてから、真ん中を抜いた。
順番を間違えなければ、水は通った。
畑も、同じだった。
乾いたところから刈る。
刈った家から運ぶ。
誰かに言われたからではなく、そういう順番があるだけだった。
水路の縁に、ライルが立っていた。
「見に来たんですか」
カイが尋ねた。
「様子を、少し」
「順番は、組み直しました」
カイは言った。
「あとは、俺が間違えないようにするだけです」
それは、いつかライルが口にした言葉と、よく似ていた。
——私は、順番を間違えないようにしただけです。
あの夜、水路の縁で聞いた言葉。
カイが覚えていたのかは、わからない。
ただ今は、それを自分の仕事の言葉として口にしていた。
「明日から、また畑です」
カイが言った。
「収穫が始まったら、連絡は日が暮れる前に届けます」
「遅れそうな時は」
「遅れそうだと、先に届けます」
ライルは頷いた。
「それで、十分です」
水の音が、二人の間を通り過ぎていった。
畑の麦は、まだ完全には乾いていない。
だが、誰が何を担い、どこで助けを求めるか。
その順番は、もう決まっていた。
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次回は明日19:10更新予定です。
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