第四十三話「暫定命令」
着任百十二日目。
五日前に予告した契約説明会は、予定通り水路前で開かれた。
比較表を前に、ロイドとミラが条件を説明し、質問に答えた。
参加は三十名ほど。
その場で決めた家もあれば、持ち帰って考えると言った家もあった。
カール家はすでに商会と契約済みだった。
ベンノも変わらなかった。
一方で、官倉での取引を選び直した家、様子見を続ける家もあった。
誰か一人の言葉で、村全体が一斉に動いたわけではない。
それぞれの家が、それぞれの事情で、それぞれの答えを出した。
オットーは、最後まで比較表を眺めていたが、その場では決めなかった。
「恩は恩、損得は損得です。ゆっくり考えます」
それだけ言って、帰っていった。
ライルは、その結果を短く記録に残した。
商会選択、四戸。
官倉・貴族家取引継続、六戸。
未定、その他多数。
多いとも、少ないとも言えない数字だった。
「思ったより、割れましたね」
ミラが言った。
「割れて当然です」
ライルは答えた。
「同じ事情の家は、一つもありません」
ミラは、その言葉を帳面に書き添えた。
初めて村の分裂を目の当たりにした一日だった。
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同じ日の午後、帝国内政調整局監査室から、書状が届いた。
ロイドが封蝋を確認し、記録した上でライルへ渡す。
封を切ると、これまでとは違う調子の文面だった。
「暫定命令、とあります」
ロイドが言った。
ライルは、文面を読み上げた。
一、係争地とされる土地について、当面の間、再譲渡・再移転を禁止する。
二、水路修繕記録・農地移動記録・証言記録・別帳を含む関係書類は、現状のまま保全すること。
三、筆頭役人ダグラス及び窓口担当であったベルクについて、土地関連書類の単独処理を禁じ、以後の処理は調整官の監督下に置くこと。
継続審議、という言葉から一歩進んだ内容だった。
「係争地の再譲渡禁止……」
ロイドが呟いた。
「ニルスさんの土地も、含まれますね」
「含まれます」
ライルは答えた。
「戻るとは、まだ言っていません。ですが、これ以上動かせなくなった、ということです」
「書類の保全というのは」
「これまでも動かしていませんが、正式に命じられた以上、さらに厳格に扱います」
「三の項目は」
ロイドが、文面を指した。
「ダグラス様とベルクさんの権限を制限する、という内容ですね」
「はい。単独処理を禁じ、私の監督下に置くこと、とあります」
「これまでも、実質的にはそうしてきましたが」
「実質と、正式な命令は違います」
ライルは言った。
「命令が出た以上、私にも監督責任が生じます」
継続審議とされていたものが、初めて具体的な拘束力を持つ形で戻ってきた。
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ダグラスを呼んだ。
「命令の内容は、ご存知の通りです」
「土地関連書類は、単独では扱えない」
ダグラスは、静かに繰り返した。
「いつか、こうなると思っていました」
「不満は」
「ありません」
ダグラスは、はっきりと言った。
「私が、以前どういう立場で印を押していたかを思えば、当然の措置です」
「監督下での処理は、これまで通り続けてください」
「承知しました」
「これまでと、何が変わりますか」
ロイドが尋ねた。
「書類の作成自体は、ダグラスが行います。ただし、確認と署名は、必ず私が同席します」
「二重の手間になりますが」
「手間をかけてでも、疑いの余地を残さない方を選びます」
ダグラスの声には、落胆も安堵もなかった。
ただ、一つの区切りを受け止めた声だった。
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ベルクにも、使いを出した。
命令の中に名前が挙がっている以上、伝えないわけにはいかなかった。
夕刻、ベルクが執務所に来た。
最後に顔を合わせたのは、何ヶ月も前のことだった。
「お呼びと伺いました」
「監査室から、命令が届きました」
ライルは、命令の内容をそのまま伝えた。
「土地関連書類を扱う際は、私の監督下に置かれます」
「今、私は、何をすればいいですか」
ベルクの声は、硬かった。
「今すぐ、以前のように執務所へ戻ってもらうわけではありません」
ライルは言葉を選んだ。
「ただ、土地関連の記録について、確認が必要になった時には、協力を求めることがあります」
「それだけ、ですか」
「今は、それだけです」
ベルクは、しばらく黙っていた。
「戻れる、ということですか。それとも」
「まだ、決めていません」
ライルは、正直に答えた。
「命令が求めているのは、監督体制です。あなたの処遇そのものについては、別に考える必要があります」
ベルクは、小さく頭を下げた。
「わかりました」
ベルクは、それ以上は何も尋ねなかった。
「一つ、伺ってもいいですか」
立ち去りかけて、振り返った。
「私は、まだ罰を受けていません。それでいいんでしょうか」
「監査室の判断が出るまでは、誰にも決められません」
ライルは答えた。
「私が、勝手に赦すことも、勝手に罰することもできません」
「待つしか、ないんですね」
「はい」
ベルクは、小さく頷いた。
「以前より、はっきりしました。何も言われないまま放っておかれるより、ましです」
それだけ言って、執務所を出ていった。
距離は、まだ縮まっていなかった。
だが、何もない状態から、一歩だけ動いた。
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夜の手前、ニルスが来た。
「土地の話、聞きました」
「はい」
「戻る、わけじゃないんですよね」
「まだ、わかりません。ですが、これ以上、誰かの手で動かされることはなくなります」
ニルスは、しばらく黙っていた。
「止まっていたものが、動いたわけじゃない。ただ、これ以上崩れなくなった、ということですね」
「その通りです」
「十分です」
ニルスは、短く言った。
「戻るかどうかより、これ以上失わないというだけで、今日は十分です」
「まだ、決着ではありません」
ライルは念を押した。
「わかっています」
ニルスは、水路の方へ目をやった。
「三年前は、書類一枚で、何もかもが動いた。今度は、書類一枚で、何もかもが止まった」
同じ書類という道具が、今度は自分の側に働いた。
ニルスにとって、それは初めての感覚だった。
「監査室の判断が出たら、必ず伝えます」
「待ちます」
ニルスは、軽く頭を下げて出ていった。
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人手の話も、その場に出た。
「補助者の募集、七日の予定でしたね」
ロイドが言った。
「結局、二十七日かかりました」
「その通りです」
ライルは頷いた。
「予定と違ったことを、隠す必要はありません。ミラさんが来てくれたことは、結果として良かったです」
「二十日、余分にかかったことは」
ヴェクが尋ねた。
「反省点として残します。ただ、急いで基準を下げていたら、別の結果になっていたかもしれません」
早さと、確かさは、必ずしも両立しない。
今回は、確かさを選んだ結果として、日数がかかった。
それ以上、深追いはしなかった。
予定通りにいかなかったという事実だけを、記録に残した。
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その日の最後に、ゲオルグとニルスが揃って執務所に来た。
「一つ、ご相談があります」
ゲオルグが言った。
「これから、商会・貴族家・官倉と、麦の流れが複雑になります。現場をまとめる人間が、必要だと思います」
「候補は」
「カイです」
ニルスが言った。
「水路の頃から、人をまとめる役目を、誰に言われるでもなくやっていました」
「本人に、その気があるかは」
「わかりません。ただ、周りは、あいつを見ています」
ゲオルグが付け加えた。
「口数は少ないですが、現場では誰よりも頼られています」
ライルは、少し考えた。
カイの名前は、この数日、何度も耳にしていた。
「本人には」
「まだ、話していません」
「では、まず本人に確認します」
ライルは言った。
「引き受けるかどうかは、本人が決めることです」
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翌朝、カイが執務所に呼ばれた。
「現場をまとめる役目を、正式にお願いできないかと思っています」
ライルは、率直に切り出した。
「肩書きが要る話ですか」
カイが尋ねた。
「今はまだ、決めていません。まず、あなたの意思を確認したいだけです」
カイは、しばらく黙っていた。
畑仕事の合間に、人をまとめてきた日々を思い返しているようだった。
「考えます」
短い答えだった。
「急ぎません」
「畑もあります。すぐには、答えが出ません」
「急ぎません」
もう一度、ライルは言った。
「肩書きより、あなたの都合を優先します」
カイは、それだけ言うと、いつものように背を向けて歩き出した。
だが、扉の前で一度だけ足を止めた。
「悪い話だとは、思っていません」
振り返らずに、それだけ言った。
扉が閉まる音が、いつもより少しだけ静かだった。
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次回は明日19:10更新予定です。
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