第四十二話「選べることの、重さ」
着任百七日目。
ベンノの決断は、三日のうちに村へ広まっていた。
朝から、執務所への来訪が続いた。
最初に来たのはニルスだった。
「ベンノの話、聞きました」
「はい」
「あいつの気持ちも、わかります」
ニルスは、少し間を置いた。
「ただ、俺は、ヴォルツを信用していません。土地のことがあります」
「今回の申し出は、土地とは別の話です」
ライルは言った。
「はい。それは、わかっています」
ニルスは頷いたが、表情は晴れなかった。
「わかっていても、簡単には割り切れません」
「土地のことは、今も変わっていません」
ライルは言った。
「監査室の判断も、まだ出ていません」
「急かしているわけじゃありません」
ニルスは首を振った。
「ただ、ヴォルツが儲かる方に、俺の土地が絡んでいるかもしれないと思うと、素直に喜べないだけです」
「その気持ちは、記録しておきます」
「記録して、何になりますか」
「今すぐ何かが変わるわけではありません。ですが、誰が何を思っていたかが残らなければ、後で振り返ることもできません」
ニルスは、それ以上は何も言わず、軽く頭を下げて出ていった。
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昼前、ゲオルグが来た。
「村の中で、話が分かれ始めています」
「どのように」
「今すぐ銅貨が要る家と、そうでない家。それだけでも、見る目が違います」
ゲオルグは、少し言葉を選んだ。
「それに、昔ヴォルツに助けられたという家もあります」
「助けられた」
「オットーという家です。数年前、不作の年に、種麦を前払いで融通してもらったと聞いています」
初めて聞く名前だった。
「土地のことと、その恩は、また別の話だと言っていました」
ゲオルグは続けた。
「オットー自身が、ここへ話しに来るかもしれません」
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午後、そのオットーが来た。
白髪の目立つ、六十代の男だった。
「調整官様に、言っておきたいことがあります」
「どうぞ」
「ヴォルツ様には、世話になったことがあります」
オットーは、ゆっくりと話した。
「五年前、不作の年でした。種麦が足りず、うちは終わると思いました。その時、ヴォルツ様が前払いで種麦を融通してくれました」
「土地の件とは」
「別です。土地のことは、ひどい話だと思っています。ですが、恩は恩です」
オットーは、まっすぐライルを見た。
「調整官様が、ヴォルツ様を悪人だと決めつけて追い出そうとしているなら、俺は反対です」
「追い出そうとは、していません」
ライルは答えた。
「不正があれば正します。ですが、合法な商売を禁じる理由はありません」
オットーは、少し驚いた顔をした。
「では、今回のことも」
「選ぶのは、それぞれの家です」
オットーは、しばらく黙っていたが、やがて小さく頭を下げた。
「それなら、いいです」
「一つ、伺ってもいいですか」
ライルが尋ねた。
「土地の件について、オットーさんはどう思いますか」
「ひどい話です。それは、変わりません」
オットーは、はっきりと言った。
「ですが、俺が受けた恩と、ニルスが受けた仕打ちは、別の出来事です。同じ人間がやったことでも、一緒くたにはしません」
「それぞれを、別に見る、と」
「はい。でなければ、俺は恩を感じてはいけないことになる。それは、違う気がします」
ライルは、その言葉を記録に残した。
一人の人間の中に、感謝される行為と、裁かれるべき行為が同時にあり得る。
単純な善悪では、割り切れない現実だった。
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夕刻、執務所の中でミラが尋ねた。
「あの、商会を禁止しないんですか」
「禁止する理由がありません」
ライルは答えた。
「現金前払いは、違法ではありません。むしろ、商売としては真っ当です」
「でも、ヴォルツ様は、以前ひどいことをしていましたよね」
「土地の件は、正式に処分の対象です。今回の申し出は、それとは別の、新しい取引です」
ミラは、少し混乱した顔をした。
「同じ人が、悪いことも、良いことも、するんですか」
「します」
ライルは短く答えた。
「だから、行為ごとに見ます。人ごとに、まとめて決めません」
「難しいです」
「難しいことです」
ライルは認めた。
「簡単に割り切れるなら、誰も迷いません」
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夜になる前、ロイドとミラで、比較表を作り始めた。
項目は四つ。
価格。
支払い時期。
継続条件。
リスク。
官倉・貴族家取引の欄には、市価並みの価格、支払いは受け渡し後七日以内、継続は来年実績次第、リスクは低いが即時性がないと記した。
商会の欄には、価格は要交渉、支払いは即時、継続条件は不明、リスクは過去の不正歴、と記した。
「不利なところも、隠さず書くんですね」
ミラが尋ねた。
「隠せば、比較表の意味がなくなります」
ロイドが答えた。
「官倉側に不利なことも、同じように書きます」
「即時性がない、というところですか」
「はい。ここが、ベンノさんのような人には一番響く部分です」
都合の良いことだけを並べれば、説得にはなる。
だが、それでは選ばせているのではなく、誘導しているだけになる。
「商会の欄の、継続条件は『不明』のままですか」
ミラが尋ねた。
「今はまだ、確かめようがありません」
ロイドが答えた。
「わからないことを、埋めない」
「はい。空欄も、一つの情報です」
ミラは、その言葉を書き取りながら、少し考えた。
「これを見て、みんなが同じ答えを選ぶわけじゃないですよね」
「はい」
「それでも、作る意味はあるんですか」
「あります」
ロイドは、迷わず答えた。
「同じ表を見て、違う答えを選ぶ。それは、選んだ人がそれぞれの事情で決めたということです。誰かに誘導された結果ではありません」
ミラは、その言葉を、今度は自分の中でも繰り返した。
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そこへ、村の男が一人、勢いよく入ってきた。
「筆頭役人殿に、聞きたいことがある」
ダグラスへ向けられた声だった。
「何でしょう」
ダグラスが応じる。
「あんたは、前の不正に関わっていた人間だろう。そんな人間が作った比較表を、なぜ信じられる」
執務所の空気が張り詰めた。
「作ったのは、私一人ではありません」
ダグラスは、視線を逸らさなかった。
「ロイドとミラが確認し、調整官が最終確認します」
「それでも、あんたの手が入っているんだろう」
「入っています」
ダグラスは、それを否定しなかった。
「私が知っていることと、していたことは、以前に正式な記録として残っています。今、隠すつもりはありません」
「じゃあ、今のあんたの立場は、何なんだ」
男の問いに、ダグラスは、すぐには答えなかった。
「正式な処分も、正式な赦免も、まだ出ていません」
ダグラスは、ゆっくりと言った。
「今できることをする。それだけです」
「宙ぶらりんじゃないか」
「そうかもしれません」
ダグラスは、それも否定しなかった。
「ですが、宙ぶらりんであることと、嘘をつくことは別です。私は、確認できたことだけをこの表に入れました。信じるかどうかは、あなたが決めることです」
男は、それ以上は何も言わず、腕を組んで黙った。
答えになっていないことは、ライルにもわかっていた。
だが、それ以上の答えを、今のダグラスは持っていなかった。
処分も赦免も、ガルダの執務所だけで決められることではない。
監査室の判断を待つしかない部分が、ここにも残っていた。
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「契約説明会を開きます」
ライルが言った。
「五日後、水路前で。官倉・貴族家取引・商会、それぞれの条件を並べて説明します」
「参加は」
「自由です。聞いた上で、選ぶのはそれぞれです」
ロイドが日取りを控える。
「比較表は、その日までに仕上げます」
「お願いします」
ミラは、一連のやり取りを黙って記録していた。
初日から数日で、村の中の緊張が、目に見える形になっていくのを感じていた。
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夜、執務所を閉める間際。
ゲオルグが、息を切らせて戻ってきた。
「もう一軒、動きました」
「誰ですか」
「北側の、カール家です。ヴォルツ様と、もう話をつけたそうです」
説明会は、まだ五日先だった。
だが、村はそれを待たずに動き始めていた。
ライルは、比較表の途中の紙を見た。
まだ、埋まっていない欄がいくつもあった。
「五日、待ってはくれませんか」
ゲオルグが言った。
「待てと、言う権限はありません」
ライルは答えた。
「選ぶのは、それぞれの家です」
「それは、わかっています。わかっていますが」
ゲオルグは、珍しく言葉に詰まった。
「説明会を待たずに決める家が増えれば、比較表を作った意味も、薄くなりませんか」
「薄くなるかもしれません」
ライルは正直に答えた。
「それでも、比較表を作らない理由にはなりません」
カール家の決定は、もう覆らない。
だが、まだ決めていない家は残っている。
その家々に、正しい材料を渡すことだけは、続けなければならなかった。
執務所の窓の外で、夜の風が強くなっていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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