第四十一話「二通の書状」
着任百四日目の朝。
ミラが、初めて執務所の扉をくぐった。
「おはようございます」
声が、少し硬かった。
「おはようございます」
ロイドが迎えた。
「まず、総目録から見てもらいます」
棚に並んだ九冊の帳面。
その手前に、薄い一冊。
帳面ごとの主担当、代行者、保管場所、確認日が記されている。
「これが、迷った時に見る場所です」
「全部、覚えなくていいんですか」
「覚えなくて大丈夫です。覚えることより、どこを見ればいいかを知っていることの方が大事です」
ミラは、総目録の頁をゆっくりめくった。
来訪受付。
税受領。
風聞記録。
農地関連記録。
取引停止関連記録。
官倉台帳。
融通記録。
近隣取引先調査記録。
取引先候補記録。
「九冊も、最初からあったわけじゃないんですよね」
「はい」
ロイドは頷いた。
「最初は一冊でした。必要なことが増えるたびに、増えました」
ミラは、その言葉を頭の中で繰り返した。
今、目の前にある九冊は、誰かが最初から用意したものではない。
積み重なって、今の形になったものだった。
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ヴェクが、受付の隣の机を示した。
「今日から、ここがミラさんの席です」
「ここ、以前は書類の山でしたよね」
ロイドが少し笑った。
「よく知っていますね」
「村で、噂に聞きました」
ガルダの名前が、村の外まで届いている。
その噂の中に、執務所の様子まで含まれていることを、ミラは初めて実感した。
「わからないことは」
ライルが、奥から出てきて言った。
「わからないと言ってください。それだけで十分です」
「はい」
ミラは、最初の仕事として、来訪受付への記入方法を教わった。
来訪時刻。
用件。
担当帳面。
判断が必要なものは、無理に分類せず、そのまま記録する。
簡単そうに見えて、実際にやってみると迷う場面があった。
「これは、どの帳面に」
「今のは、農地の相談ですか、それとも融通の相談ですか」
ロイドが尋ねる。
「両方、混ざっている気がします」
「では、両方に印をつけて、来訪受付にはそのまま残してください。無理に一つに決めなくていいです」
ミラは、言われた通りに記入した。
初日から、きれいに割り切れる仕事ばかりではないことを知った。
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ダグラスが、水路の見回り記録を持って戻ってきた。
「新しい方ですね」
「ミラです。よろしくお願いします」
ミラは、少し緊張した様子で頭を下げた。
「筆頭役人のダグラスです」
「ロイド様から、伺っています」
ミラは、一瞬言葉を選んだ。
「以前、商会と関わりがあった方だと」
ダグラスは、隠さず頷いた。
「そうです。今は、記録の仕事をしています」
それ以上は、何も付け加えなかった。
ミラも、それ以上は尋ねなかった。
だが、その短いやり取りが、この執務所の空気を少しだけ教えてくれた。
誰の過去も、隠されてはいない。
同時に、誰の過去も、今の仕事を止める理由にはされていない。
「昼からは、写しの作成をお願いします」
ロイドが言った。
「原本と、見比べながらですね」
「はい。違いがあれば、必ず両方残してください」
「勝手に、正しい方を選ばない」
「その通りです」
試験で聞いたことが、実際の仕事の中でそのまま繰り返されている。
ミラは、それを少し不思議な気持ちで受け止めた。
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昼前、使者が一人、執務所を訪れた。
北西の貴族家の商務分家からの正式な書状だった。
ロイドが受け取り、封蝋を確認する。
「本家とは違う印ですね」
「商務分家の印です」
ライルが答えた。
封を切ると、契約の細目が記されていた。
初回、麦袋二十。
価格は市価並み。
支払いは、荷の受け渡し完了後、七日以内。
運搬は分家側が手配し、費用は折半。
品質確認は、双方合意の鑑定役を立てる。
末尾に、署名があった。
「北西家商務分家、代理人、エーリク」
初めて見る名前だった。
「これまでの書状には、名前がありませんでしたね」
ロイドが言った。
「本家からの書状は、常に家令の名でした」
「実務を担う代理人として、名乗ってきたということです」
「信用を積む気がある、ということでしょうか」
「そうかもしれません。あるいは、実務上の窓口を明確にしただけかもしれません」
どちらの意図かは、これだけでは決められない。
ただ、名前が一つ、記録に加わった。
顔の見えなかった相手に、初めて呼びかけられる名がついた。
もう一文、末尾に添えられていた。
「南通り穀物商会との関係に、新たな変化はございません」
ライルは、その一文を二度読んだ。
「新たな変化は、ない」
「以前からの関係は、否定していません」
ロイドが言った。
条件は満たしている。
嘘はついていない。
だが、答えるべき核心には、今回も触れていない。
「記録してください。契約条件、代理人の名、この一文も、そのまま」
「はい」
ミラが、隣でその様子を見ていた。
「あの、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「この書状の相手は、味方なんですか」
ライルは、少し考えた。
「まだ、わかりません」
「わからないのに、取引するんですか」
「わからないことを、わかったことにはしません。ただ、条件が明確で、こちらに不利がなければ、取引自体は進めます」
ミラは、その答えを帳面の端にそのまま書き留めた。
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午後、ゲオルグが水路の見回りのついでに寄った。
「妙な話を聞きました」
「何でしょう」
「ヴォルツが、農家を回っているそうです」
ライルは顔を上げた。
「脅しでは、ありません」
ゲオルグは続けた。
「麦を、収穫前に銅貨で買い取る、と言っているそうです」
「収穫前に」
「はい。今すぐ銅貨が要る家には、ありがたい話です」
現金前払い。
違法ではない。
むしろ、商売として真っ当な申し出だった。
「他には」
「今のところ、それだけだと思います。ただ、これだけでも、心が動く家はあります」
「ゲオルグさんは、どう思いますか」
「私は、今のところ困っていません。ですが、今すぐ銅貨が要る家にとっては、ありがたい話でしょう」
ゲオルグは、少し考えてから続けた。
「以前のヴォルツなら、こういう申し出はしませんでした。脅すか、断るか、どちらかでした」
「変わった、と」
「変わったのか、変えざるを得なかったのかは、わかりません」
ライルは、手元の書状を見た。
商務分家からの契約。
そして、ヴォルツの新しい申し出。
同じ日に、二つの選択肢が並んだ。
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夕刻、カイが執務所に来た。
水路修繕の頃から、久しぶりの顔だった。
「お久しぶりです」
ライルが言った。
「畑が忙しくて、なかなか」
カイは短く答えた。
「今日は」
「ヴォルツの話、もう聞いた家があります」
「誰ですか」
「ベンノです。屋根が、冬までもたないと言っていました」
ライルは、その名前を記憶した。
北側の農家で、水路修繕にも参加していた男だった。
「銅貨が、今すぐ要る」
「はい。官倉や貴族家の取引は、支払いまで時間がかかります」
カイは、淡々と事実だけを話した。
「ベンノさんは、どうするつもりですか」
「わかりません。ただ、心が傾いているのは見ればわかります」
「カイさんは、畑をまとめる立場でしたね」
ミラが、思わず尋ねた。
「まとめる、というほどでは」
カイは短く答えた。
「水路の頃、人が足りない時に声をかけていただけです」
「今も、声をかけていますか」
「聞かれれば、答えます」
多くを語らない。
だが、水路修繕の頃から変わらず、現場の様子を一番よく知っている人間だった。
ミラが、隣でその会話を記録していた。
初日にして、村の中で何かが動き始めていることを、肌で感じ始めていた。
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日が落ちる頃。
ベンノが、執務所の扉を開けた。
旅装ではない、普段着のままだった。
「調整官様」
「どうぞ」
ライルが応じる。
ベンノは、椅子に座らなかった。
「屋根が、もう保ちません。今年の冬までに、直さないと」
「材料と、人手の見積もりは」
「銅貨で、七枚ほど」
官倉での売却も、貴族家との取引も、支払いは早くて七日後だった。
だが、屋根の修理は、それより早く必要だった。
「ヴォルツ様が、収穫前に買い取ると言っています。今すぐ、銅貨をくれると」
ベンノは、一度だけ息を吸った。
「調整官様には、世話になりました。ですが」
言葉を選ぶように、間を置いた。
「今年は、商会へ売ります」
執務所の中が、一瞬静かになった。
ライルは、それ以上引き止めなかった。
「わかりました」
「怒らないんですか」
「怒る理由がありません。あなたの畑の、あなたの麦です」
ベンノは、少し驚いた顔をした。
「記録だけ、残させてください。誰が、いつ、どのような条件で決めたか」
「構いません」
ミラが、その場でベンノの言葉を書き取った。
初日の最後に、目の前で起きたことを、そのまま記録に残した。
ベンノは一礼し、扉を出ていった。
執務所には、二通の書状と、一つの決断だけが残った。
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次回は明日19:10更新予定です。
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