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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第六章:帝国の闇に、触れる

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第四十一話「二通の書状」

 着任百四日目の朝。


 ミラが、初めて執務所の扉をくぐった。


「おはようございます」


 声が、少し硬かった。


「おはようございます」


 ロイドが迎えた。


「まず、総目録から見てもらいます」


 棚に並んだ九冊の帳面。


 その手前に、薄い一冊。


 帳面ごとの主担当、代行者、保管場所、確認日が記されている。


「これが、迷った時に見る場所です」


「全部、覚えなくていいんですか」


「覚えなくて大丈夫です。覚えることより、どこを見ればいいかを知っていることの方が大事です」


 ミラは、総目録の頁をゆっくりめくった。


 来訪受付。


 税受領。


 風聞記録。


 農地関連記録。


 取引停止関連記録。


 官倉台帳。


 融通記録。


 近隣取引先調査記録。


 取引先候補記録。


「九冊も、最初からあったわけじゃないんですよね」


「はい」


 ロイドは頷いた。


「最初は一冊でした。必要なことが増えるたびに、増えました」


 ミラは、その言葉を頭の中で繰り返した。


 今、目の前にある九冊は、誰かが最初から用意したものではない。


 積み重なって、今の形になったものだった。


---


 ヴェクが、受付の隣の机を示した。


「今日から、ここがミラさんの席です」


「ここ、以前は書類の山でしたよね」


 ロイドが少し笑った。


「よく知っていますね」


「村で、噂に聞きました」


 ガルダの名前が、村の外まで届いている。


 その噂の中に、執務所の様子まで含まれていることを、ミラは初めて実感した。


「わからないことは」


 ライルが、奥から出てきて言った。


「わからないと言ってください。それだけで十分です」


「はい」


 ミラは、最初の仕事として、来訪受付への記入方法を教わった。


 来訪時刻。


 用件。


 担当帳面。


 判断が必要なものは、無理に分類せず、そのまま記録する。


 簡単そうに見えて、実際にやってみると迷う場面があった。


「これは、どの帳面に」


「今のは、農地の相談ですか、それとも融通の相談ですか」


 ロイドが尋ねる。


「両方、混ざっている気がします」


「では、両方に印をつけて、来訪受付にはそのまま残してください。無理に一つに決めなくていいです」


 ミラは、言われた通りに記入した。


 初日から、きれいに割り切れる仕事ばかりではないことを知った。


---


 ダグラスが、水路の見回り記録を持って戻ってきた。


「新しい方ですね」


「ミラです。よろしくお願いします」


 ミラは、少し緊張した様子で頭を下げた。


「筆頭役人のダグラスです」


「ロイド様から、伺っています」


 ミラは、一瞬言葉を選んだ。


「以前、商会と関わりがあった方だと」


 ダグラスは、隠さず頷いた。


「そうです。今は、記録の仕事をしています」


 それ以上は、何も付け加えなかった。


 ミラも、それ以上は尋ねなかった。


 だが、その短いやり取りが、この執務所の空気を少しだけ教えてくれた。


 誰の過去も、隠されてはいない。


 同時に、誰の過去も、今の仕事を止める理由にはされていない。


「昼からは、写しの作成をお願いします」


 ロイドが言った。


「原本と、見比べながらですね」


「はい。違いがあれば、必ず両方残してください」


「勝手に、正しい方を選ばない」


「その通りです」


 試験で聞いたことが、実際の仕事の中でそのまま繰り返されている。


 ミラは、それを少し不思議な気持ちで受け止めた。


---


 昼前、使者が一人、執務所を訪れた。


 北西の貴族家の商務分家からの正式な書状だった。


 ロイドが受け取り、封蝋を確認する。


「本家とは違う印ですね」


「商務分家の印です」


 ライルが答えた。


 封を切ると、契約の細目が記されていた。


 初回、麦袋二十。


 価格は市価並み。


 支払いは、荷の受け渡し完了後、七日以内。


 運搬は分家側が手配し、費用は折半。


 品質確認は、双方合意の鑑定役を立てる。


 末尾に、署名があった。


「北西家商務分家、代理人、エーリク」


 初めて見る名前だった。


「これまでの書状には、名前がありませんでしたね」


 ロイドが言った。


「本家からの書状は、常に家令の名でした」


「実務を担う代理人として、名乗ってきたということです」


「信用を積む気がある、ということでしょうか」


「そうかもしれません。あるいは、実務上の窓口を明確にしただけかもしれません」


 どちらの意図かは、これだけでは決められない。


 ただ、名前が一つ、記録に加わった。


 顔の見えなかった相手に、初めて呼びかけられる名がついた。


 もう一文、末尾に添えられていた。


「南通り穀物商会との関係に、新たな変化はございません」


 ライルは、その一文を二度読んだ。


「新たな変化は、ない」


「以前からの関係は、否定していません」


 ロイドが言った。


 条件は満たしている。


 嘘はついていない。


 だが、答えるべき核心には、今回も触れていない。


「記録してください。契約条件、代理人の名、この一文も、そのまま」


「はい」


 ミラが、隣でその様子を見ていた。


「あの、伺ってもいいですか」


「どうぞ」


「この書状の相手は、味方なんですか」


 ライルは、少し考えた。


「まだ、わかりません」


「わからないのに、取引するんですか」


「わからないことを、わかったことにはしません。ただ、条件が明確で、こちらに不利がなければ、取引自体は進めます」


 ミラは、その答えを帳面の端にそのまま書き留めた。


---


 午後、ゲオルグが水路の見回りのついでに寄った。


「妙な話を聞きました」


「何でしょう」


「ヴォルツが、農家を回っているそうです」


 ライルは顔を上げた。


「脅しでは、ありません」


 ゲオルグは続けた。


「麦を、収穫前に銅貨で買い取る、と言っているそうです」


「収穫前に」


「はい。今すぐ銅貨が要る家には、ありがたい話です」


 現金前払い。


 違法ではない。


 むしろ、商売として真っ当な申し出だった。


「他には」


「今のところ、それだけだと思います。ただ、これだけでも、心が動く家はあります」


「ゲオルグさんは、どう思いますか」


「私は、今のところ困っていません。ですが、今すぐ銅貨が要る家にとっては、ありがたい話でしょう」


 ゲオルグは、少し考えてから続けた。


「以前のヴォルツなら、こういう申し出はしませんでした。脅すか、断るか、どちらかでした」


「変わった、と」


「変わったのか、変えざるを得なかったのかは、わかりません」


 ライルは、手元の書状を見た。


 商務分家からの契約。


 そして、ヴォルツの新しい申し出。


 同じ日に、二つの選択肢が並んだ。


---


 夕刻、カイが執務所に来た。


 水路修繕の頃から、久しぶりの顔だった。


「お久しぶりです」


 ライルが言った。


「畑が忙しくて、なかなか」


 カイは短く答えた。


「今日は」


「ヴォルツの話、もう聞いた家があります」


「誰ですか」


「ベンノです。屋根が、冬までもたないと言っていました」


 ライルは、その名前を記憶した。


 北側の農家で、水路修繕にも参加していた男だった。


「銅貨が、今すぐ要る」


「はい。官倉や貴族家の取引は、支払いまで時間がかかります」


 カイは、淡々と事実だけを話した。


「ベンノさんは、どうするつもりですか」


「わかりません。ただ、心が傾いているのは見ればわかります」


「カイさんは、畑をまとめる立場でしたね」


 ミラが、思わず尋ねた。


「まとめる、というほどでは」


 カイは短く答えた。


「水路の頃、人が足りない時に声をかけていただけです」


「今も、声をかけていますか」


「聞かれれば、答えます」


 多くを語らない。


 だが、水路修繕の頃から変わらず、現場の様子を一番よく知っている人間だった。


 ミラが、隣でその会話を記録していた。


 初日にして、村の中で何かが動き始めていることを、肌で感じ始めていた。


---


 日が落ちる頃。


 ベンノが、執務所の扉を開けた。


 旅装ではない、普段着のままだった。


「調整官様」


「どうぞ」


 ライルが応じる。


 ベンノは、椅子に座らなかった。


「屋根が、もう保ちません。今年の冬までに、直さないと」


「材料と、人手の見積もりは」


「銅貨で、七枚ほど」


 官倉での売却も、貴族家との取引も、支払いは早くて七日後だった。


 だが、屋根の修理は、それより早く必要だった。


「ヴォルツ様が、収穫前に買い取ると言っています。今すぐ、銅貨をくれると」


 ベンノは、一度だけ息を吸った。


「調整官様には、世話になりました。ですが」


 言葉を選ぶように、間を置いた。


「今年は、商会へ売ります」


 執務所の中が、一瞬静かになった。


 ライルは、それ以上引き止めなかった。


「わかりました」


「怒らないんですか」


「怒る理由がありません。あなたの畑の、あなたの麦です」


 ベンノは、少し驚いた顔をした。


「記録だけ、残させてください。誰が、いつ、どのような条件で決めたか」


「構いません」


 ミラが、その場でベンノの言葉を書き取った。


 初日の最後に、目の前で起きたことを、そのまま記録に残した。


 ベンノは一礼し、扉を出ていった。


 執務所には、二通の書状と、一つの決断だけが残った。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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