↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第六章:帝国の闇に、触れる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/118

第四十一話「二通の書状」

 着任百四日目の朝。


 ミラが、初めて執務所の扉をくぐった。


「おはようございます」


 声が、少し硬かった。


「おはようございます」


 ロイドが迎えた。


「まず、総目録から見てもらいます」


 棚に並んだ九冊の帳面。


 その手前に、薄い一冊。


 帳面ごとの主担当、代行者、保管場所、確認日が記されている。


「これが、迷った時に見る場所です」


「全部、覚えなくていいんですか」


「覚えなくて大丈夫です。覚えることより、どこを見ればいいかを知っていることの方が大事です」


 ミラは、総目録の頁をゆっくりめくった。


 来訪受付。


 税受領。


 風聞記録。


 農地関連記録。


 取引停止関連記録。


 官倉台帳。


 融通記録。


 近隣取引先調査記録。


 取引先候補記録。


「九冊も、最初からあったわけじゃないんですよね」


「はい」


 ロイドは頷いた。


「最初は一冊でした。必要なことが増えるたびに、増えました」


 ミラは、その言葉を頭の中で繰り返した。


 今、目の前にある九冊は、誰かが最初から用意したものではない。


 積み重なって、今の形になったものだった。


---


 ヴェクが、受付の隣の机を示した。


「今日から、ここがミラさんの席です」


「ここ、以前は書類の山でしたよね」


 ロイドが少し笑った。


「よく知っていますね」


「村で、噂に聞きました」


 ガルダの名前が、村の外まで届いている。


 その噂の中に、執務所の様子まで含まれていることを、ミラは初めて実感した。


「わからないことは」


 ライルが、奥から出てきて言った。


「わからないと言ってください。それだけで十分です」


「はい」


 ミラは、最初の仕事として、来訪受付への記入方法を教わった。


 来訪時刻。


 用件。


 担当帳面。


 判断が必要なものは、無理に分類せず、そのまま記録する。


 簡単そうに見えて、実際にやってみると迷う場面があった。


「これは、どの帳面に」


「今のは、農地の相談ですか、それとも融通の相談ですか」


 ロイドが尋ねる。


「両方、混ざっている気がします」


「では、両方に印をつけて、来訪受付にはそのまま残してください。無理に一つに決めなくていいです」


 ミラは、言われた通りに記入した。


 初日から、きれいに割り切れる仕事ばかりではないことを知った。


---


 ダグラスが、水路の見回り記録を持って戻ってきた。


「新しい方ですね」


「ミラです。よろしくお願いします」


 ミラは、少し緊張した様子で頭を下げた。


「筆頭役人のダグラスです」


「ロイド様から、伺っています」


 ミラは、一瞬言葉を選んだ。


「以前、商会と関わりがあった方だと」


 ダグラスは、隠さず頷いた。


「そうです。今は、記録の仕事をしています」


 それ以上は、何も付け加えなかった。


 ミラも、それ以上は尋ねなかった。


 だが、その短いやり取りが、この執務所の空気を少しだけ教えてくれた。


 誰の過去も、隠されてはいない。


 同時に、誰の過去も、今の仕事を止める理由にはされていない。


「昼からは、写しの作成をお願いします」


 ロイドが言った。


「原本と、見比べながらですね」


「はい。違いがあれば、必ず両方残してください」


「勝手に、正しい方を選ばない」


「その通りです」


 試験で聞いたことが、実際の仕事の中でそのまま繰り返されている。


 ミラは、それを少し不思議な気持ちで受け止めた。


---


 昼前、使者が一人、執務所を訪れた。


 北西の貴族家の商務分家からの正式な書状だった。


 ロイドが受け取り、封蝋を確認する。


「本家とは違う印ですね」


「商務分家の印です」


 ライルが答えた。


 封を切ると、契約の細目が記されていた。


 初回、麦袋二十。


 価格は市価並み。


 支払いは、荷の受け渡し完了後、七日以内。


 運搬は分家側が手配し、費用は折半。


 品質確認は、双方合意の鑑定役を立てる。


 末尾に、署名があった。


「北西家商務分家、代理人、エーリク」


 初めて見る名前だった。


「これまでの書状には、名前がありませんでしたね」


 ロイドが言った。


「本家からの書状は、常に家令の名でした」


「実務を担う代理人として、名乗ってきたということです」


「信用を積む気がある、ということでしょうか」


「そうかもしれません。あるいは、実務上の窓口を明確にしただけかもしれません」


 どちらの意図かは、これだけでは決められない。


 ただ、名前が一つ、記録に加わった。


 顔の見えなかった相手に、初めて呼びかけられる名がついた。


 もう一文、末尾に添えられていた。


「南通り穀物商会との関係に、新たな変化はございません」


 ライルは、その一文を二度読んだ。


「新たな変化は、ない」


「以前からの関係は、否定していません」


 ロイドが言った。


 条件は満たしている。


 嘘はついていない。


 だが、答えるべき核心には、今回も触れていない。


「記録してください。契約条件、代理人の名、この一文も、そのまま」


「はい」


 ミラが、隣でその様子を見ていた。


「あの、伺ってもいいですか」


「どうぞ」


「この書状の相手は、味方なんですか」


 ライルは、少し考えた。


「まだ、わかりません」


「わからないのに、取引するんですか」


「わからないことを、わかったことにはしません。ただ、条件が明確で、こちらに不利がなければ、取引自体は進めます」


 ミラは、その答えを帳面の端にそのまま書き留めた。


---


 午後、ゲオルグが水路の見回りのついでに寄った。


「妙な話を聞きました」


「何でしょう」


「ヴォルツが、農家を回っているそうです」


 ライルは顔を上げた。


「脅しでは、ありません」


 ゲオルグは続けた。


「麦を、収穫前に銅貨で買い取る、と言っているそうです」


「収穫前に」


「はい。今すぐ銅貨が要る家には、ありがたい話です」


 現金前払い。


 違法ではない。


 むしろ、商売として真っ当な申し出だった。


「他には」


「今のところ、それだけだと思います。ただ、これだけでも、心が動く家はあります」


「ゲオルグさんは、どう思いますか」


「私は、今のところ困っていません。ですが、今すぐ銅貨が要る家にとっては、ありがたい話でしょう」


 ゲオルグは、少し考えてから続けた。


「以前のヴォルツなら、こういう申し出はしませんでした。脅すか、断るか、どちらかでした」


「変わった、と」


「変わったのか、変えざるを得なかったのかは、わかりません」


 ライルは、手元の書状を見た。


 商務分家からの契約。


 そして、ヴォルツの新しい申し出。


 同じ日に、二つの選択肢が並んだ。


---


 夕刻、カイが執務所に来た。


 水路修繕の頃から、久しぶりの顔だった。


「お久しぶりです」


 ライルが言った。


「畑が忙しくて、なかなか」


 カイは短く答えた。


「今日は」


「ヴォルツの話、もう聞いた家があります」


「誰ですか」


「ベンノです。屋根が、冬までもたないと言っていました」


 ライルは、その名前を記憶した。


 北側の農家で、水路修繕にも参加していた男だった。


「銅貨が、今すぐ要る」


「はい。官倉や貴族家の取引は、支払いまで時間がかかります」


 カイは、淡々と事実だけを話した。


「ベンノさんは、どうするつもりですか」


「わかりません。ただ、心が傾いているのは見ればわかります」


「カイさんは、畑をまとめる立場でしたね」


 ミラが、思わず尋ねた。


「まとめる、というほどでは」


 カイは短く答えた。


「水路の頃、人が足りない時に声をかけていただけです」


「今も、声をかけていますか」


「聞かれれば、答えます」


 多くを語らない。


 だが、水路修繕の頃から変わらず、現場の様子を一番よく知っている人間だった。


 ミラが、隣でその会話を記録していた。


 初日にして、村の中で何かが動き始めていることを、肌で感じ始めていた。


---


 日が落ちる頃。


 ベンノが、執務所の扉を開けた。


 旅装ではない、普段着のままだった。


「調整官様」


「どうぞ」


 ライルが応じる。


 ベンノは、椅子に座らなかった。


「屋根が、もう保ちません。今年の冬までに、直さないと」


「材料と、人手の見積もりは」


「銅貨で、七枚ほど」


 官倉での売却も、貴族家との取引も、支払いは早くて七日後だった。


 だが、屋根の修理は、それより早く必要だった。


「ヴォルツ様が、収穫前に買い取ると言っています。今すぐ、銅貨をくれると」


 ベンノは、一度だけ息を吸った。


「調整官様には、世話になりました。ですが」


 言葉を選ぶように、間を置いた。


「今年は、商会へ売ります」


 執務所の中が、一瞬静かになった。


 ライルは、それ以上引き止めなかった。


「わかりました」


「怒らないんですか」


「怒る理由がありません。あなたの畑の、あなたの麦です」


 ベンノは、少し驚いた顔をした。


「記録だけ、残させてください。誰が、いつ、どのような条件で決めたか」


「構いません」


 ミラが、その場でベンノの言葉を書き取った。


 初日の最後に、目の前で起きたことを、そのまま記録に残した。


 ベンノは一礼し、扉を出ていった。


 執務所には、二通の書状と、一つの決断だけが残った。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。